第六話 家庭の事情
――同日午前7時
今日は土曜日、ということもあっていつもより遅めに起きた俺はぼんやりとした意識で布団から這い出て、後頭部を掻いたりあくびを噛み殺したりしながら襖を開け、洗面所へと向かう。
洗面台まで着き、軽く顔を水で洗うと目が冴え、意識がはっきりとしてくる。
意識がはっきりするに従って、我が家のいつもの静けさはそこにはなく、少しばかり慌ただしいことに気付く。
廊下を誰かが駆ける足音が聞こえ、その足音は俺が今いる部屋の扉の前で止まる。
力強く扉が開け放たれると、その先には――名前が思い出せそうで思い出せない、20代後半くらいの黒服に身を包んだ、ガッチリとした大人がいた。
俺が声を発するよりも早く、黒服は深々と頭を下げる。
「若ッ!おはようございます!」
「うっす。えっと」
「斉藤ッス」
「ああ、斉藤さん、どうも」
軽く会釈をする。
「で、今日は何かあったんスか」
「へい、組長から直接話があるそうで、準備が整い次第大広間にお越しくだせぇ」
「どうも」
「では、あっしはこれで」
来週になったらまた名前を忘れていそうな、特徴のない顔の黒服Aが引き戸を閉める。
親父が俺個人に話があるなら使いは寄越さずに直接来るだろうし、多分幹部を含めた会議に違いない。
俺、待田清隆は待田組組長である待田龍賢の息子であり、長男でもある。
将来的には組長の座を引き継ぐことになる。
心構えができているかと問われても、即座に首を縦に振ることはできない。
親父は現在40代半ばで至って健康体だ。
直ぐさま俺が組長になることはまずないだろうが、ヤクザという職業柄、死とは常に隣り合わせな訳で、覚悟は、早いに越したことはない。
俺は今一度顔を水で洗い、タオルでしっかりと拭き取ってから、洗面所を後にする。
□□□
準備が整ったので、親父のいる大広間へと向かう。
戸をゆっくりと開け、恐る恐る部屋に入っていく。
大広間には、「望死知弱」と書かれた掛け軸が中央奥にある床の間に優雅に飾られている。
その前に鎮座するは俺の親父、待田龍賢だ。
両側に一列に正座して並ぶ約20名ほどの黒服幹部達とは違い、黒の和服姿で胡坐をかいている。
両目は閉じられており、その姿は瞑想でもしているかのよう。
顔にいくつか見受けられる切り傷やガッチリとした体格から、百戦錬磨の強者が纏う独特のオーラを感じる。
今まで幾度となく経験してきた会合であるが、何度繰り返しても慣れない。
不良、の域にとどまる程度の俺が如何に弱者であるか、それを思い知らされる。
ここにいる誰よりも俺は格下なのだと実感する。
息が詰まる。重圧を感じる。
「清隆。そんなところで突っ立っとらんでこっちへ来い」
「……はい」
隣に敷かれた座布団を指差す親父。
緊張のあまり、いつもより気持ち小さい歩幅で座布団に向かい歩いて行き、正座する。
俺が周囲に目を配り、両側に座る幹部たちを見ると目が合った幹部たちが軽く会釈をする。
それにつられて俺も会釈をする――いや、してしまう。
それを見た親父が静かに口を開く。
「ワシの跡を継ぐ奴が、んな小心者でどないする。もっと気張れや」
「すんません。私にはまだ、そこまではできません。ここにいる誰よりも若輩者であります故」
そう言って頭を下げると親父は目を瞑り、なら実績を上げることだ、と一喝して正面に向き直る。
それを始まりの合図と悟ったのか、右側に座する10人ほどの幹部のうちの1人、一番手前にいる葛城が口を開く。
「では、本日の本題に入らせて頂いても構いませんか」
親父が葛城を見て小さく頷くと、葛城は続けて話す。
「既にこの中にご存知の方が何名かいるとは思いますが、今朝方オオサカの方で大きな動きがあったそうで。当方でも真偽を確かめているところではあるのですが――」
「勿体ぶるな、話せ」
龍賢の声に、少しざわついていた幹部たちが一斉に黙る。
「失礼しました。それでは、話させていただきます」
「我々の宿敵、くだんの組の頭の親族が誘拐され――」
「――その容疑が我々に掛かっているとのことです」
その言葉を聞いた全員が絶句した。厳密には一部の人間には伝わっていた内容のようで、上位幹部達は目を伏せて仏頂面を浮かべていた。
その静寂を破ったのは、一番左奥に座する、この中では俺の次に若い三木だった。
「あっっっいっちゃああ、ナメたこと言ってんとちゃうぞ!!!」
それを皮切りに大広間に罵詈雑言が飛び交う。
オオサカから追い出すだけや飽き足らず、捏造しよってからに!
いっぺん脳みそぶち抜かんと気ぃ済まへんわ!
組長、今こそウチらの本気見せるときとちゃいますやろか!?
部屋の戸が閉め切られているのもあってか皆が口々に叫ぶ声が反響して鼓膜に突き刺さってくる。
立ち上がり拳を握り込み、怒りを顕にする組員達、前もって知らされていた幹部たちも俯き平静を装いながらも額には血管が浮かび上がっている。
そんな中、今回の報告を務めた本部長の葛城は極めて冷静で、落ち着きを払っていた。
「静まれ」
口を開いたのは親父だった。決して大声を張り上げていた訳ではないが、親父の声は透き通っていて、耳にすんなりと染み込み、その者を支配する。
そんな、言葉では到底説明できない――オーラを纏っていた。
辺りが一瞬のうちに静まり返り、立ち上がっていた者たちは逆再生でもしているように、皆元の体勢に戻る。
が、三木だけは違った。
三木には、それでもなお思うところがあったのか、俺たち、いや厳密には親父の目の前まで出ていって正座をし、頭を下げる。
「俺はっ、俺はっっ、怒りを抑えられません!あいつらに何人の仲間が――いや兄弟がやられたことか!」
「……ワシも、お前と同じ悲しみを、そして怒りを持っとる。だが、ワシらが今彼らとやりあったとして勝てると思うか?三木」
その言葉を聞いて、三木は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、親父に訴えかける。
「きっと、無残な負け方をすることに違いないです。ただ、そんな負けでも、死んでいった兄弟への手向けにはできるはずです!だから、俺だけでも――」
言い終わる前に、親父は三木の肩を抱いていた。その姿を見ていた全員がその光景に目を伏せた。
親父は三木を強く抱きしめて優しく語りかける。俺からはその表情は窺い知れないが、きっと涙していたのだと思う。
「三木、お前は両親を無くして、自暴自棄になって、暴力で全てを解決できると信じて疑わん、どーしようもないガキやったなぁ。それが今はワシに殴りかかろうともせず、いっちょ前に説得なんぞしようとする。成長したもんや」
「組長ぉぉ……俺、どうしたらええんか分からん。どないしたら死んでった兄弟の無念晴らせるんや?」
親父は抱いていた手を緩め、三木から少しだけ遠ざかり、彼の肩をしっかり掴んで目を見る。
「それはな、お前が死なんことや。きっとお前が死んでも、追って欲しいとは思わんじゃろう。生きとること、その事実のほうが何倍も幸せなはずや」
親父は三木の肩から手を離し、立ち上がる。和服の襟を正しながら、親父は三木の側を通り過ぎ、周囲をぐるっと回りながら口を開く。
『死は恐れるものではない。死は人間にとって最大の快楽だ。故に死を望むは弱き者だと知れ』
「我が父が床に伏す前に残した言葉や。死、それは人間にとって最大の逃げ道であり、欲望や。故に死は恐れるに値しない。だが命を容易く捨てはしない、それが強者や」
「今、ワシらが徹底交戦の立場を取れば確実に負ける。完膚なきまでに潰され、ここにいる誰もが死に絶えるだろう」
――だから。と親父は言葉を紡ぐ。
その言葉は一見弱者のようだが、弱きを認めるのが強者であるように。引き際を弁えるのが真のギャンブラーであるように。
「我々は誘拐をしていないこと。誘拐犯は我々が捕まえ、彼らに無償で差し出すことを約束すること。疑いを晴らすために、我々の傘下にある施設への自由な出入りと調査を許可すること」
「以上のことを先方に伝えろ」
……俺には組長になる心構えがない訳ではない。
こんな親父の跡を継ぐ度胸も力量も、俺にはないのだ。