0-5 旅路
通路に入って入り口を閉じたアクセルが少し進むと、小さな背負い袋と剣がひと振り置かれてあった。背負い袋の方は着替えと金が入っており、剣は王家の宝だったはずの名剣フューネラルだった。背に腹は替えられぬと考えたアクセルは袋を背負い、持っていた剣を捨ててフューネラルを腰に佩いた。
(これもマキシムの配慮か。あとで大騒ぎにならないといいけど)
通路をそのまま延々と進み、やがて上への階段に行き着く。王城の背後の山と思われる場所の小さな茂みの中に作られた出口から外をうかがうと、人の姿は見えない。だが、茂みから一歩出た瞬間に、人狩り真っ最中の憲兵隊員と鉢合わせした。脊髄反射で相手を切り捨てたあと、身を翻して茂みに身を隠したが、気配を察したボウマンによって、ほどなく包囲網が布かれてしまった。
堅実なボウマンらしく、包囲の布陣にはスキがない。第一列を突破しても、二の手、三の手がすぐにアクセルに届くように巧みに隊員が配置されており、ふつうに行けば、どうしてもどこかで立ち止まって戦うことになる。
(強行突破は難しいか。だが、強行突破以外の手段はない。まだボウマン副長も隠し通路の行き先にいろいろ当たりをつけている段階だったろうが、時間をかければ、山全体に人狩りをかける体制が整ってしまう……おや?)
包囲網がわずかずつ狭まっていることで、優れた視力を持つアクセルには、ひとりひとりの隊員の識別が出来るようになってきている。見ると、憲兵隊もアクセルの剣術の腕を知っており、みな恐怖が少し混ざった緊張を顔に浮かべていた。そしてアクセルは、ある一角にひときわ腰の引けた隊員が固まっており、そこだけ包囲網の密度が濃くなっていることに気づいた。
(ボウマン副長は、ぼくへの恐れが強い隊員を固めてそこを手厚くし、ぼくが突破口として狙わないように仕向けている。要するに、狙い目はあそこだ)
さらに、アクセルはひとつの幸運に気づいた。間もなく日が昇る。明るくなることがアクセルを利することはひとつとしてないが、昇ったばかりの朝日は、狙い目とされた不幸な憲兵隊員たちがアクセルを迎え撃つとき、アクセルの背中のうしろからまともに彼らの目を撃つ。しかも、その方向にまっすぐ走れば崖がある。ボウマンの布陣のたったひとつの綻びがそこにあった。
アクセルは近衛騎士団に任官されてから、王都アルネルカの北に位置するこの山の警邏を何度も経験しており、山全体の地理は頭にはいっている。危険は冒すことになるが、すぐ先の崖を含め、四メートルほどの崖を三度ほど飛びおりることで、山を越えた先にあるフィグラー伯爵領への近道につながる谷に出ることも知っていた。
ただ、フィグラー伯爵は王家と親密な関係にある。伯爵領に抜けたとしても手配がすぐ回ることを考え、アクセルはあまり時間の余裕がないことを実感した。
(谷に出て伯爵領最寄りの村まで半日、ぼくを取り逃がしたという連絡が届いてから馬で山を迂回して一日弱。時間、そしてぼくの体力との勝負だな)
アクセルが自分の動きを定めて数分後、頭を出し始めていた太陽が十分に大きくなり、包囲の憲兵隊を照らし出す。アクセルは地を蹴って駆けだした。
(ふう、さすがに何度か死んだと思ったな)
アクセルはあちこち痛む身体を引きずりながら、フィグラー伯爵領に向けて谷を進んでいる。そのまま川沿いを歩いて山岳地帯を抜ければ、もよりの村まではそう遠くない。そして、アクセルのように崖をクリアできなかった憲兵隊は、山を馬で大きく回り込むか、やはり大回りして谷に続く川べりに出るしかない。時間との闘いはアクセルに秤を傾けつつあった。
一方で、自身の体力との戦いについてはいまだ予断を許さない。長時間活動し続けていることによる疲労と空腹もあるが、包囲網からの脱出とその後の無茶な山行きで、アクセルの身体はあちこちが悲鳴を上げていた。憲兵隊員との戦いで負った傷は軽いものばかりとはいえ数が多く、あちこちで引きつるような痛みを生んでいる。さらに崖を降りる際に左手首と右足首を捻挫し,そのようなバランスを欠いた身体での山中強行軍で、脚は肉離れ寸前の状態になっていた。
(この期に及んで手加減しようとか、バカか、ぼくは……。どう考えてもあり得ないだろう)
憲兵隊の囲みを突破するときにアクセルの頭をよぎったのは、王宮の廊下を埋めていた憲兵隊員と近衛騎士団員の死体だった。大きな人的被害を出した憲兵第一部と近衛騎士団第一班は再編成に長い時間を要する。シェリルの負担を少しでも減らそうと考えてしまったアクセルは、できる限り相手を殺さずに突破しようとしてしまったのである。
もちろん、手加減しても対応できる相手ではあったが、かけなくてもよい時間をかけたことは、余分な体力的負担という形でアクセル自身に返ってきた。手首や足首の負傷も、万全に近い状態であれば避けられたはずのものだった。
村が遠目に見えてきたところで、アクセルはある事実を思い出した。
アクセルの顔は幸か不幸か、かなり売れている。近衛騎士団の仕事のひとつに、国内のさまざまな町や村に出向いて行う剣術の模範演技の催しというのがあるが、剣術においてすでに国中に名声をとどろかせていたアクセルは、人寄せの意味合いも兼ねて、これにしょっちゅう駆り出されていた。村に無警戒で入れば、彼の顔が記憶にある人が少なからず出てくる可能性が高い。
追跡の兵士に対してアクセルを見たと言うものが一人現れれば、聞き込みは強化される。そこで何人かが力ずくの尋問を受けることになることを、アクセルは危惧していた。追跡の部隊には必ず尋問の専門家である憲兵隊員が含まれているだろうし、場合によっては凄惨な拷問が行われてしまう。自分の逃避行という個人的な都合で村人たちをそのような窮地に追いやることを、彼の良心は許さなかった。
(村では食料の調達以外に余分な時間をかけられないな。追っ手はすぐに来るだろうが,ぼくが立ち寄ったこと自体も村人の記憶に残さないほうがいい。あとはここから進む方向だが……)
正直なところ、アクセルとしてもなるべく早く傷んだ身体を休めたかった。しかし、国内にいる限り、どこであっても人のいるところで余分な数時間をすごすことは、致命的な危険を呼ぶ。国境を越えるまでは野宿でしのぐしかないと、彼は覚悟した。
出来るだけ国境を早く越えるには、東に進んでフルム帝国に入るのが最も近い。そしてアクセルが国境を越えてしまえば、追跡はいったん止まらざるを得ない。なにより、フルムにはクリスティーナという知己がいる。アクセル逮捕についての協力依頼が先に届いてでもいない限り、とりあえずの救いの手はさしのべてくれるだろうと、アクセルは思っている。
(そして、ぼくだけじゃなくて、誰もがそう思うはずだ。追跡の人手の相当部分は、ぼくがフルムとの国境を越えるのを防ぐために投入されるだろう)
アクセルは、東行きの可能性を頭から消した。残るは北のオルランド王国方面に向かう選択肢と,西に行って港町アスカロンから船で国を出る選択肢だ。いまの状況では、国を出ないままで逃げ場のない船、というのは自殺行為にも思える。しかし、アクセルはそれを逆用する可能性を考えた。
(ジベットには通じないかもしれないけど、裏をかいたつもりでアスカロンに向かってみるか。うまくいったとして、そのあとは密航になるな。いちど道を踏み外すと、どんどん悪循環になるというけど、こういうことか)
アクセルはひとつふたつ頭を振り、そして依然として痛み続ける脚を叱咤激励して、再び歩き始めた。
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