1-9 表と裏
アクセルとゲドがパノバに来てひと月が過ぎた。その間、二人は特になにをするわけでもなく、ひたすら街をぶらぶらし続けた。昼は表通りを歩いて店を覗き、なにを買うでもなく店のものと言葉を交わしては店を出る。そして、食堂に入って腹を落ち着けながら給仕の女と軽く無駄話をする。夜は、表から一本二本入った路地の酒場で、まわりの酔っ払いの声に耳を傾け、時にはその中に入りこみながら時を過ごした。
二人は、五日ごとに宿を変え、入る店や食堂、酒場もそのつど変えていた。そして周囲に自分たちに注意を向ける目があるかどうかも常に気にしていたが、ひと月が過ぎるころには、その用心を周囲に気取られないようにする振る舞いが身についてきていた。また、初めての店にも素早く溶け込むことが出来るようになってきた。
「旦那、オレはこういう生活は大好きだからいいんですけど、いったい何を考えているんです? なにか行動を起こすわけでもなし、単純に金を稼ぐわけでもない。金が尽きるまでこうやってブラブラ暮らすつもりなんですか?」
ある日の昼下がり、腹ごしらえをして店を出ようとしたところで、ゲドが意を決したようにアクセルに尋ねた。アクセルからすれば、数日前からゲドがなにか言いたそうにしていたのはわかっていたし、むしろいつそれを言いだすかと思っていたくらいであった。
「やっとそれを言いだしてくれたよ。いつまでも言ってくれないんじゃないかと思って、ここ二、三日はちょっとヒヤヒヤしていたんだ」
アクセルの反応に、ゲドは憮然とした表情を見せた。
「なんすか、そりゃ? 言わなきゃホントにこのまんまだったとか?」
「そうはならないと思っていたけどね。ゲドがそう言いだしたあたりが、この街の初心者課程の修了かな、と考えていたんだよ」
「何でオレが基準に? ひととおり街を見たかどうかなんて、旦那自身にしかわからないと思うんですがね」
「ぼくは、こういう生活をしたことがないんだよ。学院を卒業したらすぐに近衛に入ってしまったから、街で長い時間を過ごしたことがほとんどないんだ。やることがない、という経験も、たぶん初めてだしね。自分で決めようと思ったら、たぶんやめ時がわからなくなると思う」
「うらやましいんだか、気の毒なんだか、わからない話ですな。ま、王宮でほとんどの時間を過ごしている人の生活なんざ、そんなものかも知れませんね」
ゲドの言葉は、アクセルがこのひと月感じ続けていたことそのままだった。彼は、自分が本当に狭い世界の中で生かされていたという事実を、イヤと言うほど思い知らされていたのである。
(マキシムはどうだったのだろうか? あいつもこういう思いを感じていたのか? そしてシェリルは?)
「ただね、旦那、あまりこういうところで聞く話を真に受けてもいけませんよ。おれがそうだから言うわけじゃないですが、人間なんてみんな自分のことしか考えてないんだから、正直に受けとっていたら頭が破裂しちまう」
「でも、そういう話が本音なんじゃないのかい? 無視するわけにもいかないだろ?」
「そんなことを言ってたらキリがないじゃないですか。たとえば、借金まみれで首が回らないヤツと高利貸しの本音を聞いたところで、正反対のことを言うだけでしょ?」
「そういえばパルディーリャで何年か前に、高利の借金の棒引き、という王令が出たな。そのあたりのことかい?」
「ああ、そんなのもありましたね。たしかに、そのとき喜んでるヤツはいっぱいいましたが、そういうヤツらはそのあとだれも金を貸してくれなくなって、結局干上がってましたよ。高利貸しなんていうのは、高利でも借りたがるヤツがいなきゃ出てこない商売ですから、高利貸しがいなくなりゃ、そういうヤツがすがる相手もいなくなるんです」
アクセルにとって、高利貸しが必要な存在であるというのは新鮮な考えだった。彼が学院で学んだのは、適正な水準の利息が国の経済をうまく回す条件である、という正論中の正論だけだ。
「ゲドは大丈夫だったのかい? 借金はしない主義の人間には見えないが」
「ひでえ……。オレはこれでも、返せる限度はわきまえてるつもりでさ」
「そいつはなにより。ただ、いくら高く利息を取ってもいい、ってことにはならないだろ? すがる人が行き着く先がみんな奴隷なら、そのうち借りる人間がいなくなる」
「そのあたりのさじ加減をうまくやるのがトニーみたいなヤツらなんですよ。裏の世界がうまく回らないような商売をする連中がいれば、脅しをかけたり、ほかで甘い汁を吸わせて思いとどまらせたり、時には間引いたりします。こう言っちゃ身もふたもありませんが、生かさず殺さず絞れるヤツをえんえんと絞る、っていうのが、そういう顔役みたいなヤツにはいちばん実入りがいいんです。金を借りた人間が返せなくなって奴隷落ちしたら、貸したヤツはそれであきらめがついたとしても、その上前をはねているトニーたちにはなにも残らない。だから、あいつらもそれなりに必死なんですよ」
アクセルが所属していた近衛騎士団は、王家の守護が最大の任務であり、行動の基本だ。その視点は王家と同じであることが求められる。まれに政策に口を出す幹部も現れるが、あくまでそれはそのもの個人としての行動にすぎない。そのために、より担当地域に強く密着する他の騎士団との軋轢が生まれがちになり、アクセルもそれについて思うところがないわけではなかった。しかし、親衛隊長という地位にあってもキャリアとしては駆け出しに近い彼は、そこから視野を広げる時間を十分に持ててはいなかった。
「裏の世界がうまく回っていないと、結局は国がうまく回らない、ってことか」
「難しいことはオレにはよくわかりませんがね。裏社会のない国っていうのは、オレには想像できませんね」
アクセルは、「裏の商売」と呼ばれるものに思いを馳せた。そして、高利貸しだけではなく、売春、麻薬、密輸、盗品売買、人身売買と、頭に浮かぶものすべて、まっとうな商売に比べて人間の欲望により直截的に結びついたものであるということに、今さらながら気づく。そして、それ故に決して表の世界に登場してはならないものばかりだ、ということもまた同様に理解がいく。
「必要だから生まれる裏の世界……ね」
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