1-4 絶体絶命
ゲドを視線で見送ったアクセルは、ひとつ大きなため息をつくと床に座りこみ、壁に背をあずけて目を閉じた。ここからオルランディアで下船するまでは、アクセルがゲルハルト・シュタインだ。
王都を脱出した際に負った負傷はほとんど癒えていたが、その後の強行軍はやはり身体に相応の負担をかけている。緊張感を抜いていくにつれて、アクセルは加速度的に身体を動かすのがおっくうになっていくのを感じる。
そして、不思議なのは、身体以上に感じる心の虚脱感だった。ここまで二十日近く、アクセルはゲドと旅をしてきた。突然ひとりになったアクセルは、ゲドの存在が想像以上に自分を助けてくれていたことを実感した。
(油断もスキもない男だったけど、根っからの悪人というわけでもなく、意外におもしろいヤツだった。もう顔を合わせることもないだろうが、盗賊の才能があるようにも見えないし、変なところで命を落とさないことを祈るとするか)
アクセルは、自分の意識が次第にぼやけ、身体が睡魔との戦いに敗れようとしていることを自覚した。
「乗船許可証をもういちど確認しますので、ご用意をお願いします。名前を呼ばれた方はこちらに来てください」
客用広間に係官の声が響いたのは、アクセルが完全に意識を手放そうとしたちょうどその時だった。アクセルは強引に目を開けて視線を声のほうに送り、最悪の事態になったことを知る。そこにいたのは,倉庫で乗船許可証を確認した係官だった。
係官はアクセルの顔をしっかり確認していたわけではない。だが、ゲドの顔は何度も確認していた。乗船許可証をアクセルが持参すれば、当然それが自分の確認したゲルハルトではないことに気づき、下船していなければならないチャンが船に乗ったままであることも明らかになる。そして、チャンが渡された札は、ゲドが下船するときに渡してしまっている。
(だからといって、ここで逃げ出すこともできない。自分の正体を教えてやるようなものだ)
ひとり、またひとりと名前を呼ばれて係官のもとにむかう人たちを見ながら,アクセルはジリジリと脳を焼く焦燥感と戦った。しかし、打開策はアクセルの頭に閃いてくれない。次第にアクセルの頭の中には、「おとなしくつかまるか抵抗するか」という最悪の二択が忍び寄ってきていた。
「ゲルハルト・シュタイン」
(万事休すだ)
ついに呼ばれてしまったその名前に、なんの結論も持たぬまま、アクセルは立ち上がろうとした。
「はいはいはい! すみませーん」
突然響いてきた間の抜けた声の主は、どう見ても先ほど下船したはずのゲドだった。
アクセルの座っている場所のほうに走り寄ってきたゲドは、しかしアクセルに視線を送ることなく背負い袋を探って乗船許可証を取り出すと、一目散に係員のところに走って行った。
「すみません。散歩していたら道に迷っちゃって」
「気をつけてくださいね、みな待ってますから……はい、たしかに。では次……」
係員のそばを離れたゲドは、背負い袋とアクセルの間にどっかと腰を下ろす。アクセルもゲドも、お互いに声をかけることもなく、視線をお互いに送ることもない。
乗船者の確認は進み、最後の客の確認をすませて係員が出ていく。やはり二人は言葉も交わさず、視線も合わせない。
出港の銅鑼が鳴り、やがて船が動き出す。アクセルはゲドのほうを見もせずに立ち上がって広間を出た。出たすぐ先で立ち止まっていると、すぐにゲドが広間を出てきた。
「ゲド、きみ、どうして?」
ゲドはアクセルを見てニヤッと笑った。
「いやね、最後に旦那からけっこう衝撃的なおみやげを頂いたでしょ? さすがに呆然としてフラフラしながら船を下りたんですよ。頭真っ白で、とりあえずメシでも食って考えるか、と思って街にむかおうとしたら、倉庫でオレたちの許可証を確認したヤツらが船のほうにむかっていくじゃないですか。なんとなくイヤな予感がして戻ってみたら案の定だ。間一髪でしたなぁ」
「いや、『戻ってきた』、って、どうやって? 黄色の札を渡してしまったら、戻りようがないじゃないか」
ゲドは再びアクセルに笑いかけ、甲板部にむかって歩き出した。あとをついて外に出ると、右舷のうしろのほうにロープのついた鈎が引っかかっている。乗船口の反対側だ。
「旦那、入れないところ、入っちゃいけないところに入るのが盗賊ですよ」
「そうか……そうだな。きみは盗賊だったんだよな」
「旦那に言わせると、ほかの盗賊に毟られかねないショボい盗賊だそうですが」
「そこは撤回しないが、きみが行ったあと『盗賊の才能はない』と思ったことについては訂正するよ」
「ひでえ!」
「でも、あそこまではどうやって? 濡れているようにも見えないけど」
「船のそばで小舟をいじくっているヤツに、旦那からもらった金貨をつかませたら一発でしたよ。やっぱり世の中、金だと思いましたね」
アクセルは、それ以上は言葉を継げなかった。結局、ゲドはアンセルムまでの道のりをただ働きにしてしまったということだ。
「じゃあ、あらためて……」
ゲドは小さく手を振った。
「いいっすよ。あの二人みたいになってておかしくないところを助けてもらって、メシは食わせてもらっていたし、酒も買って頂いてる。オレからすれば十分だ。それでも、もし気にしてるんでしたら、もうしばらくメシと酒の面倒を見てくれれば、それで手を打ちましょう」
ゲドはアクセルにこの先もついてくる。彼はそう言っていた。
「特に酒、かい?」
「わかってきましたね、旦那」
アクセルは、ゲドの気持ちを考え、謝礼に関する押し問答をすることをやめた。何がゲドの貢献への返礼として十分なのか、十分でないのか、ゲドだけが決めることができる。ゲドの考えを尊重することが、アクセルのなすべきことなのだと割り切った。
「このさき、なにが起こるかわからないよ? 金だっていつまでもあるわけじゃないから、オルランディアに着いたら、どうやって生きていくかも考えはじめなきゃならないし」
「そこですよ。旦那はオルランディアに着いたら、もう貴族でも親衛隊長でもないんだ。こう言っちゃなんだが、旦那は金の使い方が淡泊すぎます。このさきやっていけるのか、オレはちょっと心配ですね」
アクセルは、ゲドに心配されるほどぼくは危なっかしいか、と問い返そうとしてやめた。確かに、この二十日ほどでアクセルがのぞき見た世界は、幼稚舎から近衛騎士団へと続いたこれまでの彼の世界とはまったく違っていた。
(これからも、見たことのない世界を見続けたら、その先にマキシムが知りたかった答えがあるかもしれない)
アクセルが視線をあげると、水平線の向こうに太陽が沈もうとしている。彼はゲドの肩をひとつ叩き、広間に戻る通路を歩き出した。
お読みいただいた方へ。心からの感謝を!




