11■ピアノが弾けない
大学時代の話しです。
音大の声楽科に入学したとはいえ、声楽だけをやっていればいいのではない。
入試の時にも必要だが、ピアノが弾けなければならない。
当然、ピアノの試験もある。
しかし、家にピアノのない人がいた。
ド貧乏男子である。
親の反対を押し切ってまで声楽家になるべく東京の音大に来ているのだ。学費と家賃だけで精いっぱいで、ピアノなど買ったり借りたりすることはできない。それどころか、彼らの住んでいるぼろアパートにピアノなぞ重い物を置いたら下の階の人はぺっちゃんこだ。
そういう人のために(?)音大には練習室がある。
ピアノを弾くためだけの小さな部屋がずらーっと並んでいて、一回50円だったか、100円だったか忘れたけれど、とにかくそこでなら練習できる。
どうしても貧乏ならば、本当はいけないことだけれど、音大のどこの教室にもあるピアノをちょっと弾かせてもらえば良い。先生たちだって貧乏な学生がいることくらい分かっているのだ。やる気のある生徒に少しくらい貸してくれる。
普通の人は知らないけれど、体育館の下の階にも小さな体育館のようなものがあって(実際はリトミック教室として作られたらしいが、敷地から少し離れているので、授業で使われているのを見たことがない)そこならばいつでもピアノが開いている。
私はよくそこで、友だちとピアノを弾いて遊んでいた。おっと、これは内緒だった。
さて、ピアノの試験だ。
ピアノを持っていない男子諸君はどうかというと、勿論練習は最小限のため、ピアノのスキルはかなり低い。
それでも弾かなければ単位はもらえない。
名前を呼ばれるところから試験は始まる。
ひとり5分間持ち時間があって、それ以上時間がかかるとチンと鳴る。ハイそこまで!の合図である。
「タナカ君(仮名)」
「はい」
ここからきっかり5分である。
タナカ君はゆっくりゆっくりと歩いてピアノにたどり着き、椅子の調整をする。ガチャガチャと椅子の高さを直し、椅子に座り、もう一度立って椅子の高さを変える。
それ以上やると失格という暗黙のルールがあるので、とりあえずそこまでやると、椅子に座らなければならない。
ここまで1分。
「F Dur(ヘ長調)」
と、そこでスケールの調を言い渡される。
スケールというのは、音階とカデンツ(終止形の和音)を弾くことで、ヘ長調と言われたら「ファソラシ(♭)ドレミファ」を4オクターブ弾くだけの簡単な課題である。
♯♭4つまでの簡単な調しか課題になっていない。
しかし、タナカ君が「ヘ長調」を弾けるはずがない。
彼は椅子に座ると、フッと息を吐き、持っているハンカチでピアノの鍵盤を拭く。そしておもむろに両手の袖を捲りはじめる。それからまた息を吐き、
♪ドー・・・
と、ヘ長調を思いっきり無視してハ長調のスケールを弾きはじめる。しかも、一音一音が長い。
スケールの課題の後に、普通の課題曲があるはずなのだけれど、そこまで持ち込ませないための、スケール超ゆっくり奏法。
4オクターブのスケールを弾くのに3分かけるその情熱。(普通に弾けば15秒くらいです)
アホ!
♪ドー・・・
最後のドを弾き、ピアノ協奏曲の大曲を弾ききったピアニストのように手をあげてフィニッシュ。
ここまでで4分。
ここから課題曲だ。
またも息を吐き、袖を捲り直す。
そして、ゆっくりゆっくりと、課題曲を弾き始め、最初の4小節くらいを弾いたところで
♪チン
と鳴る。
試験終了である。
先生方に向かって恭しく礼をして、退室となる。
こんな試験で単位が取れるかというと、
取れない!取れるはずがない。
来年も頑張ってくれたまえ。




