ローマの祝日(しのぶ)
今年も12月がやって来て、ここローマ帝国のリュキア属州でも寒さが厳しくなってきた。
キリアキは粗末な上着にくるまりながら石畳の上を歩いていた。去年はさほど感じなかった寒さが身にこたえるのは、お金がなくて新しい上着が買えないせいか、それとも将来への不安のためだろうか。
そんな中でも慰めがないわけではない。彼女には将来を誓い合った相手がいた。だが、去年父親が事業に失敗して多額の借金を背負ってから、その将来も危うく思えてきたものだ。
家の前に来ると、そこで一人の男が待っていて、彼女に声をかけた。
「やあ、キリアキ」
「アガトン、もう帰ってきてたの?よかった。さあ、そんなところに立ってないで、うちに上がってよ」
「いや、ありがたいけど、またこれから仕事があるんだ」
「そうなの?残念ね。…アガトン、あまり無理をしないでね。私のことなら心配しないで。どうにかするから」
「そういうわけにもいかないよ。俺だって裕福じゃないからね。それに、いずれ君を養わなきゃならないのだし」
「その気持ちはうれしいけど…でもこの季節だし、寒さで病気にならないか心配だわ」
「なに、これくらい大したことないよ。兵役に就いてたころにはゲルマニアに送られたこともあったけど、ゲルマニアの冬はこんなものじゃないよ…それはそうと、25日は空いてるかい?」
「その日になにかあるの?」
「ああ、この辺りじゃ一般的ではないけど、ローマでは12月25日はナタリス・インウィクティの祝日でね。その日には人々が木の下で贈り物を贈り合ったり、ご馳走を食べたりするのさ。せっかく兵役から無事に帰ってきたことだし、その日は君と過ごしたいんだ」
「本当に?でも、私は…」
「ああ、お金のことなら心配いらないよ。その日は俺が持つから…。ところで、ニコラオスは今どうしてるんだろうな。司祭になったって聞いたけど」
「さあ…。近頃は会っていないから…」
キリアキは幼なじみのニコラオスのことを思い出していた。昔はよく、アガトンとニコラオスと3人で遊んでいたものだ。成長してからも3人は良い友達だったけれど、今はもう、その関係は変わってしまった。
その日のニコラオスのことを、彼女は思い返していた。
『キリアキ…今まで黙っていたけれど、もうこの思いを隠しておくことはできない。キリアキ、君を愛している。俺と結婚してくれないか』
『…ごめんなさい、ニコラオス。私にはもう心を決めている相手がいるの』
『えっ…誰が?まさか…』
『アガトンよ。彼を愛しているの。
今は兵役についてローマに行っているけど、ここを発つ前に、私たち約束したの。彼が帰ってくるまで、私はずっと待っていると…だから、ごめんなさい。あなたの思いに応えることはできないわ』
それから、ニコラオスは司祭になって、もうほとんど会うこともなくなった。それから母が流行り病で亡くなり、父が借金を背負って、アガトンが帰ってきた。わずか数年の間に、全てが変わってしまったものだ。
「残念だな。リュキアに帰ってきたら、ニコラオスとも積もる話がしたいと思っていたものだが。あいつもまだ独身だろ?あいつにもいい話があればいいのにな」
「そ、そうね…ハハハ」
家に帰ると、2人の姉が父に文句を言っていた。
「お父さん、私ももうそんなに若くないわ。今の時期を逃してしまったら、もう嫁の貰い手がないかも知れないのよ」
「ああ、わかってるよ。だが持参金にする金がないのだから仕方ないだろう」
「だからお母さんも言ってたじゃない。あんな仕事に手を出すのはやめた方がいいって…」
「ああ、わかってるよ。だが今さらそんなことを言っても遅いだろうが」
「だったらせめて、私の分だけでもどうにかしてよ。いっそ持参金なんて払わなくてもいいじゃない」
「そういうわけにはいかない。しきたりだからな」
「そんな頭の固いことを言ってるから、仕事に失敗するんじゃないの」
「なんだと!父親に向かって…」
「やめてよ」
キリアキは言った。
「先のことを心配しても仕方ないわ。明日のことは明日が思いわずらうって言うじゃない」
その夜、キリアキは寝床に入ったままなかなか寝付かれずにいた。家はすきま風が入ってくるが、修理もできないままになっている。
期待と不安が入り混じった気持ちだった。アガトンのことを思った。25日の約束のことを思うと、その日のために生きる気力がわいてくるように思えた。しかし同時に不安も覚える。無事に彼と結ばれる日は来るのだろうか。
ふいに闇の中で、何かがガチャリと鳴る音が聞こえた。ハッとして耳を澄ませたが、その後は何も聞こえない。気のせいか…そうしてしばらく考え事をしているうちに、眠ってしまった。
翌朝、キリアキは父の声で目が覚めた。
「おい見ろ!奇跡が起きたぞ!」
「何?どうしたの」
「金だよ!これを見ろ。朝起きたら、これが窓の下に置いてあった。袋一杯の金だぞ。300デナリウスはありそうだ。これで持参金が払えるぞ」
「本当に…?新手の詐欺かなにかじゃないの?それとも起きながら夢でも見てるのかしら」
長女は半信半疑のようである。
「夢じゃない。紛れもない現実だ。誰か親切な人が恵んでくれたんだ。あるいは神のお助けか、まあいずれにせよ同じことか」
次女が言った。
「でも、それじゃ一人分の持参金にしかならないんじゃない?姉さんはそれでいいだろうけど、私とキリアキの分はないわ」
「そんなことを言うな。これだけも十分ありがたいだろうが」
ところが、その次の日の朝目覚めてみると、再び袋一杯の金が窓の下に置いてあったのだった。父は狂喜乱舞して言った。
「ハレルヤ!これで2人とも嫁にやれるぞ!ありがたや、神は我を見捨て給わず」
それから1週間のうちに、2人の姉は結婚して家を去っていった。キリアキは夢を見ているような気持ちだった。父は言った。
「最初、女の子が生まれたときは、これでまた苦労が増えるわいと思ったものだが、今思うとあれは罪深い考えであったことよ。今こうやって2人を見送ることができて、私は幸せ者だと思うよ。本当に」
キリアキは言った。
「でも、あのお金は誰が贈ってくれたのかしら。あれから音沙汰がないけど」
「天使だよ、お前。神が天使を使わして贈ってくれたのだ。あるいは通りすがりの親切な人か。だがいずれにせよ同じことさ。我々にとってはその人が神の使いであるのだから。まあさすがにお前の分までは貰えなかったが、それくらいなら私がなんとかしよう」
明日は25日である。キリアキはその夜、寝床の中で目を覚ましていた。夜半を過ぎた頃、家のそばを歩く、かすかな足音が聞こえた。
キリアキはそっと身を起こした。足音は家の前で立ち止まると、窓の下でガチャリとお金が鳴る音がした。
キリアキは夜の闇の中にすべり出た。目をこらしてみると、闇の中を、歩き去っていく白いダルマティカ姿の人影が見えた。キリアキは言った。
「待って!」
人影はなおも歩いていく。キリアキは言った。
「待って!ニコラオス!」
人影はびくりと震えたように見えた。立ち止まった人影に向かって、キリアキは歩み寄り、言った。
「やっぱり…あなただったのね。ニコラオス」
「キリアキ…」
ニコラオスは振り返って、キリアキを見た。
「ニコラオス、どうして言ってくれなかったの?それに、会いに来てくれていたら…」
「キリアキ…私はもう、あなたの前に出ることはできない。もうその資格がないんです」
「資格だなんて、そんなこと…」
「私は…本音を言えば、今でもあなたを愛しています。でももう、あなたに昼日中に会いに行くことはできない。神のためにも…あなたが本当に愛している人のためにも。だから、こうして闇にまぎれてやってきたのです。そしてそのまま立ち去るつもりでしたが…あなたが闇を払ってしまったようですね。あなたはいつでも、私にとっては光でした」
「ニコラオス、それはあなたもよ。あなたは私達みんなにとって光になってくれた。だから、それを言ってくれれば…」
「いいえ、私はもう夢破れた男です。今私が望むのは、ただ自分の愛する人が幸せになってくれることです。あなたが幸せになってくれれば、私はそれでいい。…でも、ありがとう。こんな私に会いに来てくれて。あなたはやはり光です。でももう、私は行かなくてはならない…。さよなら、キリアキ。どうか幸せに」
「ニコラオス…
あなたも…どうか幸せに」
ニコラオスは笑うと、踵を返して歩み去った。キリアキはそこに立って、闇の中に消えていくニコラオスの姿を見送っていた。
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