海峡 Ⅷ
もうもうと水蒸気の立ち込める洞穴。
外洋船がそのまま数隻並んで乗り入れることが出来そうな、大きな空洞が広がっている。
海に開いた入り口は天然の洞窟だが、海竜が出入りするたびに巨体を覆う鱗に削られ、自然石の岩礁は、滑らかなテーブルのようになっている。
奥は、上に建つ灯台塔と同じ白い陶器で作られた、船泊になっている。
中まで引き込まれた海の水は、ここで深くなり、まるで背の高い壺が大地に埋まっているように、底が判らない巨大な水中空間が広がっている、
水中には何らかの方法で明かりが灯されており、揺らめく数個の光源に照らされて、何か巨大な影がグルグルと回ったり、上昇と下降を繰り返したりしている。
水面の船泊には、大型の、異様な外見をした外洋船が、一艘係留されている。
櫂を出す窓の無い甲板から下は、帆走しかできない外洋用の帆船と大差はない。
甲板の上は、百人は入れそうな建物になっていて、下開きの明り取りが並んでいるが、大屋根の建物にも、甲板の上のどこにも帆も帆柱も見当たらなかった。
櫂もなく、帆もない、異様な船だった。
その船の傍らに、一匹の海竜が横たえられている。外傷は無いが息絶えているらしく、白い腹を見せて船泊の浅い部分に引っかかり、頭は船泊から続く、鏡のような『冥府の黒曜石』が床に敷かれた大広間に上がっていた。
頭から尾まで、隣に停泊する船とほぼ同じくらいの長さがある。
六本の手足を持ち、そのうち前の一対は海亀の様に大きなヒレになっている。
胴体は、陸の竜、空の竜と同じく、蜥蜴や長虫の様な鱗を纏ってはいるが、姿形は獅子や虎、熊の様な獣に近かった。
その獅子の肩の上、人であれば肩甲骨のある辺り、飛竜ならば翼腕のある場所に、その翼腕から翼膜を切り取ったような、細い腕が生えている。
普段は小さく、背中の瘤のように折り畳まれ収められているが、今はダラリと伸ばされ、細長い指は、未練にも水から這い上がろうと、床に爪をかけようとして、それが叶わなかったように、黒い黒曜石に立てられたままになっていた。
大きなホールには、数人の人影がある。
ひどく容姿の整った、全裸の男女が数人、階段状の岸に腰掛け、ホールの床に肘をかけ、憩っている。
まるで浴場で享楽を楽しむ貴族のような、その美しい男女には、眉の上、こめかみの後ろ、眉間の上と、違いがあれど、皆角が生えていた。
「おい、ゾルディアよ。そいつを海に捨ててこい。魔道王がいらしたら訝しむだろう」
こめかみの後ろから大きく湾曲した角を生やした男が、死んだ海竜を指差し面倒臭げに女に言う。
「嫌よゾンダーク。外は寒いわ。炉を冷やしたくないの。そこの底に突き落としたら?」
眉の上から赤い角を生やした妖艶な女が、こちらも気怠げに応える。
「腹を空かせた能無し共が、出口を忘れたのか水底で右往左往しているわ。さっきまで生意気に、長生者の私達に、意見めいた物言いをブツブツと言っていた長虫が! たったの数発、火焔を吐いただけで、炉を湿らせて知恵を失い、本当の長虫に成り果てた!」
美しい眉を寄せ、眉間にシワを立ててゾルディアと呼ばれた女が吐き捨てるように言う。
「クカカカ! お前が焚き付けたのであろうゾルディア! 『この良き時に、竜の証を示さぬ者は鉤爪で引き裂く』と! あやつらさっきまで怯えて泣いておったぞ! ……今は憂いを忘れ、(……憂い以外の事も忘れておるが)楽しげに泳いでおる」
ゾンダークと呼ばれた男は、心底楽しげに笑っている。
「焚き付けたわよ。でも、燃料が足りないのまで、私のせいにしないで! そして、人化も忘れた愚かな長虫まで、私達、竜の数に入れないでよ!」
「それはそうなのだがな。だが、そうすると、我ら海竜は、もう滅びつつあるな。……炉に火が灯り、熱は生まれ、燃やすもの無くなって、火が絶える。……それは摂理だ。逆行はしない……それにしても、酒はまだか!」
水掻きの有る手で、光る水面から海水を一すくい。それをゾンダークは口に含む。途端に口と鼻から水蒸気が立ち上り、白い煙となって天に登っていった。
「でも、……でもゾンダーク。ご覧なさい。灯台の灯火は再び明るさを取り戻したわ!」
うっとりとゾルディアそう言うと、豊かな両の乳房を、自らの両腕で抱き、恋人を探す乙女のように、大洞窟の天井を眺め、岩塊を透視して誰かを探すように、視線を動かした。
「我は竜王の衞士として、正に此処で魔道王と見えた。彼は西王母様にこう言ったのだ。『木が燃え炭となり、炭が燃え灰となる。……ここまでは誰でも出来る。しかし私は、その灰を燃やし木とすることが出来る』とな」
ゾンダークも天井を見上げる。
「魔道王が地上で何をしているのかは、海竜の知るところではない。さざ波の噂で、彼は死んで灰になったと聞いたのは随分昔のことだ。愚かな海竜達は、魔道王の死で、彼との誓いは反故になったと訴えたが、西王母様も私も、その言を取り合わなかった。ゾルディア。何故かは判るか?」
「魔道王は、灰を木と成す……」
ゾルディアはそこまで言って言葉を切り、海と反対側のホールの奥へと視線を移す。
そこには大きな布の真ん中に穴を開けただけの、未開人の服のようなみすぼらしいものを着た一人の少女が立っていた。
「ゾンダーク、ゾルディア、竜の方々。…オーマの町衆より没薬と火炎酒を頂きました」
白い肌をした少女は、表情のない顔でそう言うと、手にしていた大きな編みかごから、鞣した革で作られた袋と、蓋の付いた陶器の壺を取り出した。
「おお! 『ククーシカ』! ありがたい。待っておったぞ! 他にも待っておった者がいたが、……待ちきれずに眠ってしまったようだ」
「くふ! あははははは!」
「カハハハハハハ!」
少女はここで初めて、困惑と恐れのような表情を見せたが、それはゾンダークとゾルディアを更に喜ばせただけだった。
「さあさあ、ククーシカ。寒かったであろう。我らと一緒に湯浴みをしようぞ! ほれ、温めて湯にしてやろう。こちらにおいで」
子犬にかけているような、甘ったるい言葉でゾンダークは、ククーシカと呼ばれた少女を招く。
「いえ、……私は、お兄様の元に……ああ!」
狼狽えてククーシカがそう言うが、二人は取り合わず、ゾンダークは少女の手を引き、ボロの服を剥ぎ取り、水に引き込んだ。
「嫌な草の匂いだ! 何匹の虫をその足で踏み殺した?! ああ、堪らなく嫌だ! そんな形で『ゾファー王子』の元まで行こうなどと……いくら王子のペット……失礼! 妹君と言えど、衞士ゾンダークは看過できませんなぁ」
裸に剥かれた少女は水に漬けられ、足場を踏み外し、深い水底に沈んでいった。
ゾルディアは素早く追いかけ、沈みゆくククーシカを抱きとめると、水面まで戻ってきた。
「ぐ、ぐえぇ!!」
背中を叩き、水を吐き出させ、ククーシカを水から出して床に横たえる。
「莫迦ねゾンダーク! 王子のお気に入りをそんなにして! 貴方、炉を引き抜かれるわよ!!」
「おお! ゾルディア! ゾルディアよ!! 誘惑せんでくれ! そんな事言われたら、今すぐその子を殺してしまいそうだ!!」
そう言ってゾンダークはゲラゲラと笑い、壺の酒を呷った。
「………貴方も炉が湿り、イカれてきているわ!!」
「自分だけがマトモなつもりかゾルディア? つれないことだ……クク、クカカカカカカー!!」
尚も笑い続けるゾンダークを尻目に、ゾルディアはククーシカを起し、もとの服を着せて立ち上がらせた。
「早くお行きなさい。そして王子に、もうじき魔導王が来ることを伝えて」
「……ありがとうゾルディア…」
少女はそう言って駆け足で洞穴から逃げ出した。
「ありがとう、か……。人間風情が、吐き気がする!!」
後ろ姿を目で追いながら、ゾルディアは呟いた。
「ニニニニンゲン!」
「ニンゲンノ、チノニオイ!」
「チヲナガシタニンゲンオチテキタ、オマエタチニンゲン、ヌスンダ!」
「ニンゲンカエセ!」
ゾルディアが振り向くと、水面から何本もの水竜の首が出て、ゾルディアを睨んでいる。
「血? 血なんて流してないよ!」
ゾルディアの顔は怒りのあまり鱗が吹き出、牙が伸び、目は瞳孔が縦に裂け、黄色く変色した。
「肉ならここさ! 喰らうが良い!」
そう言ってゾルディアは、傍らに横たわる竜の死体を、恐ろしい脚力で水底に蹴り落とした。
「ワアァイ! ニクダアァ!!」
竜たちは先を争い沈みゆく海竜の死体に牙を突き立てた。
「やれやれ、片付いた……」
そう言って振り返ったゾルディアは、なんとはなく、先程、ホールの端にある、海まで続く堤を走り去って行ったククーシカの、出口まで続く濡れた足跡を目で追った。
濡れた小さな足跡には、血が混じっていた。
「赤い血か……。どこか切りでもしたのかねぇ?」
そう言うとゾルディアは、ククーシカの持ってきた没薬の袋に手を伸ばし、一つまみ口に放り込む。
途端に木香の煙を吐き、煙と共に「まぁ、知った事ではないね」とゾルディア言った。
「皆様。竜達と話す時は、くれぐれもご用心くださいませ。竜は長命で、力を持つ者です。……短命の者、弱き者を見下します」
そう言いながら長老は階段を降りてゆく。
「ゴンドオル人、ウンバアル人のような短命な人間、『エダイン』とは、彼らはかけ離れた考え方をします。……特に時間の感覚が違います。……まあ、時間の感覚と云う点では、私もあなた方より、竜に近いのかも知れません。私はエダインとの交流があるので心得ておりますが、あなた方エダインは、我らエルダールから見ると、めまぐるしいのです。覚えておいて下さい。我らの一日は、あなた達の一年。我らの一年は、あなた達の400年であると……。王国の盛衰すら、オーマのエルダールや竜達にとっては、ほんの一昔前の出来事だと……」
塔の内側の壁は、シル・パランの宝玉と連動しているのか、少し光を発しているようだった。
「住む世界の違う竜にとっては尚更です。岸辺で頭をもたげ、集落を眺め、ひとたび潜り、再び頭を上げた時には、集落は都市になっていた。もう一度潜り、再度頭を上げた時には、その都市は攻め滅ぼされていた……。万事そのようなもので、竜達にとって、エダインの歴史は、泡沫の夢のようなもの。記憶に留めておくことも出来ない、関心の外の出来事なのです」
長老の、語りを聞くうちに、ヤシン達は塔を登る前に小休止したホールへと帰ってきた。
「何だろう? あちこちで水車でも回っているみたいな音がするな」
ミールを抱いたディロンは、油断なく辺りをうかがいながら呟いた。
「魔力が供給され、休眠していた塔の機能が再び動き出しました。『灯台守』も起動するでしょう」
ディロンの独り言にミールが答える。
「灯台守って?」
ヤシンはミールとディロンの会話を聞きつけ、ミールに質問をする。
「灯台塔の管理をする、私と同じ魔道人形です。確か十体くらい稼働していたはず……」
「シル・パランの光が翳りだした二百年ほど前から、灯台守の動きは緩慢になり、ある者は揺籠で眠りにつき、ある者は分別を失った竜に破壊され、船泊の水底へ沈みました。動くことができる灯台守は、もしかしたら、もういないかもしれません。塔の管理は私が引き継いでおります。…さあ、次の部屋の階段を降りてゆけば竜達の宿場です。皆さん私から離れないように。今は、西の海の竜王のご子息がいらして竜達は大人しくしておりますが、とかく『炉』の焔の消えかけた竜は、自暴自棄になり、自ら破滅を求める事がありますので」
一同にそう釘を刺すと、長老は鍵を取り出し、鋼鉄の扉に差し込み、扉を開けた。