越冬 LIV 『ヤシンとミール②』
ヤシンとミール②
ヤシンには、ミールの居場所が判っていた。
シル・パランはその座標を彼の視野に映し出していた。
「ポイヤウンペ!」
後ろから下エルダールのモレヤがヤシンに追い付いてきた。
ヤシンは振り返る。
「ディロン、モレヤさん。そこで立ち止まって」
まだ距離はあったが、ヤシンの声は驚くほど近く二人の耳に届いた。
まずモレヤが立ち止まる。
「わ! わったったっ!」
モレヤを追走していたディロンが、モレヤに追い付いた所で立ち止まる。
ヤシンの声にはある種の強制力があって、二人は足の動かし方を忘れてしまったかのように進むことができなくなってしまった。
「来てくれてありがとう。でも、ごめんなさい。二人はそこでちょっとまってて!」
ヤシンは一人先を進んだ。
※※※※※※※※
「!!!」
ヤシンがミールを発見したとき、彼女は血塗れの全裸で冬の夜の森に立っていた。
辺りの樹は今まさに斬り倒されたように、瑞々しい断面を晒して、そこから湯気を立ち昇らせている。
夜の森の中は常闇のはずだが、倒木の一本に丁寧に折り畳まれて置かれているミールの衣服が発光して辺りを淡く照らしていた。
ミールの足元には彼女が仕留めたのか、軍用馬よりも大きな麋が腸を半ば晒して倒されている。
ミールは両手を手刀の形にて体の左右に直にし、その手刀は魔力を帯びて足元まで伸びて、先は雪面を焦がしていた。
彼女の息は荒い。
吐き出される度に、息は白い塊となって空へと上っていく。
少し離れた大樹の根本に、まるで腰かけて憩っているかのように、大羆が根のコブとコブの間にもたれ掛かっている。
息はあるが失神しているようだ。
ミールはヤシンに気付かず、空を眺め、白い吐息の行く末を見守っていた。
ヤシンがミールの向こう森のさらに奥に注意を向けると、木々の合間の深奥から、麋の血の臭いに誘われたのか、更に二頭の大羆がミールを伺っていた。
本来この時期、羆の類いは冬眠に入るのだが、冬のはじめに起きた飛竜と魔道王の戦いの余波で森の一部が燃え、焼け出された森の野獣が少なからずいた。
冬眠に失敗した野獣は凶暴化して手当たり次第に人を襲い、エルダールの生活圏に侵入する。
採集のために森に入ったキコナイン村の女衆が既に三人この冬になって命を落としていた。
もしかしたらこの場の三頭のいずれか、または全てが、その下手人かも知れなかった。
『グルァァァァーー!!、』
枯れた隈笹を蹴散らしながら、大羆の一頭がミールのサークルに侵入した。
ミールは羆が倒木を乗り越えたのを確認して、両手の魔力刀を構えた。
しかし、魔力が枯渇し始めたのか、両手の魔力刀は揺らぎ薄まり、ともすれば消えかかり、明滅した。
「フー、フー、フー、フー……」
ミールは息を整える。
羆は二本脚で立ち上がり、両前脚を高く掲げる。
その爪の位置はゆうにミールの頭頂の三倍の高さがあった。
間合いも『兆し』もなしに、羆の鉤爪は振り下ろされる。
「その場で転べ!!」
ヤシンはとっさに叫んだ。
彼の言葉の通りに羆は見えない巨人に掴み上げられひっくり返されたように頭から地面に突き刺さった。
「お坊っちゃま!!」
ヤシンの声で彼に気付いたミールが駆け寄る。
「こんな夜の森に、危ないではないですか!!」
「何言ってるのミール!! 危ないのはそっちだよ!! 何やってるの!! その血は!?」
ミールの驚き声に更に倍する大声でヤシンはそう言うと、ミールに怪我がないか体を見て回る。
「あ? あああ、これは羆を寄せるために浴びたもので、私の血ではありません。……すいません。お見苦しい物をお見せして」
「なんでこんなことしているの?! 突然出ていったのもどうしてなのさ!! ……ああ! とにかく寒いでしょ! 服を着て! ってか、なんで脱いでいるの???」
地面の雪を拾って体に擦り付け、大麋の血を拭いながら、ミールは少し拗ねたような顔をしている。
「……服が汚れたら、嫌だから……」
「……!!! ば、馬鹿!!!」
ヤシンはミールの頬を抓ろうとしたが、冷気で凍えたミールの顔の肉は強ばり、どうにも指が架からなかった。
「大樹よ! 辺りを暖めて!」
羆が一頭座り込んでいる大木が輝き、真夏の日溜まりの中にいるような熱を発し始める。
「さあミール。下着を着てこっちおいで! 抱っこしてあげる! 服はここで暖めてあげるから暖まったらすぐ着るんだよ!」
こう言うとヤシンは熱を帯びた木に抱きつき、自分の体に熱を移すと、両手で輪を作って木に抱きついた形のまま、木から体を離してその格好のままミールの方へにじり寄っていった。
「ぷ。ぷぷぷ、」
その珍妙な姿に、ミールは下着を付けながら吹き出し笑いをする。
「ほら! 捕まえた!!」
ヤシンはミールを捕まえて抱き付く。
ヤシンの方が大分背が低いので、その姿は木から木へと飛び移る虫のようであった。
「ああ、暖かいです、お坊っちゃま……」
下着姿のミールはヤシンに抱き付き返す。
倒れ伏す大羆二頭、臓腑を撒き散らし横たわる大麋と倒木。
修羅場である。
そんな修羅場を意に介さず、二人はしばらく抱き合ったまま、そのまま、暫しそこにいた。
「……ヤシンさま。私はほどなく何もできない、ただのエダインの娘になってしまうでしょう」
ミールはヤシンから少し体を離す。
ヤシンはミールの肩に手をかけたままである。
ミールは自分の下腹を両手で押さえる。
「魔道核は子宮に在り、私の体に溶けてゆきます。その過程で私の意識は魔道核から私の脳髄へと移りました。ですが私の知識は魔道核にとどまり失われてゆくのです……。いえ、私の知識の写しはビショップが持っています。いまやビショップがミールで、私はただの私でしかないのです。魔法も忘れ、お坊っちゃまのなんのお役にもたてない、ただのエダインの惨めな女です」
ミールは再び、すがるようにヤシンを抱いた。
「……ミール」
暫しの沈黙の後ヤシンが呟く。
「はい、」
「ここから少し北、シラトリ郷の手前に、アウスシーリ山って山があるんだ。昔その山が火を吹いて、それから麓のあちこちに、暖かい泉が湧くようになったんだって」
「……」
「ミール。これからそこに行って。……ここの事はダリオスやみんなに任せて、二人でそこに行って家を建てて暮らそうよ」
「!!!」
「お父様とお母様の言い付けを守れないのは残念だけと、僕はそれでいい。それよりも僕はミールを選ぶ。……だから」
「……いけませんお坊っちゃま。……お申し出は嬉しいですが、……み、み、魅了的ですが、」
「……そうだよね、」
「あううう!!!」
「?」
「、そうです。ここで、すべてを投げ捨てては、何のために、あの、」
「あの?」
「あの暗い龍の淵から出たのか、ウィストリア候をはじめ、北領の騎士達が死んでいったのか、わからない……」
「……」
ミールの言葉にヤシンは沈黙したが、少しして辺りの異変に気づく。
もう一匹いたはずの大羆がいなくなっていた。
「しまった!!」
ヤシンは振り向き、元来た路の自分の足跡を見返す。
「ディロンとモレヤさんに、禁呪をかけたままだった!!」
ヤシンは駆け出す。
「ミール! 服を着たら来て!」
その時である。
『ターン!!』
ディロンの持つ携行魔道砲の砲声が響いた。