越冬 LII
高嶺の宮の断崖の断裂から、巨大な龍が巣穴から這い出る途中のような格好で生えている。
龍は直視し難いほどに輝いている。
輝いていると云うよりも、光で龍が構成されていると表現した方が妥当であろう。
その暴悪な光量の龍の顎門には、未だ黒焔を上げている黒竜が力なく引っ掛かっていた。
「あれはヴォルデイン……。では、ヴォルデインを咥えているあの龍は……?」
ストレイリアが見上げる断崖の中程にある亀裂から凸出している龍。
遠く下宮からは小さな白蛇のように見えるが、馬十頭分の大きさの飛竜を、さらに四倍する大きさの黒竜を、百舌鳥が速贄の刺し先を探しているように口に咥えている龍はまるで空を流れる大河のようだった。
「……バカな、あれがヤシンの坊っちゃんやて……? 龍化は封印したってミールが言うていたのに……」
龍を見上げながらダリオスが呟く。
「あれがヤシン様なの?」
ダリオスを頭上に冠する25号が問う。
「せや。この世界で生まれた最後の龍。これで世界創造は終いの終いや……。この世界を作り出した力は、みんな、あの『最後の龍』が浚っていくんや。その先に、どんな世界が有るんかは……、ワシにもわからん」
その時、巨龍ヤシン・ソルヴェイグが一つ歯軋りをした。
『汝、禁ずることを禁ず!!!』
『バキンバキン』と破鐘が転がるような音がして、高みから黒い竜鱗が散らばり落ちる。
「ギィヤアアアアアアアアア!!!」と黒竜ヴォルデインが悲鳴を上げる。
『ヴォルデイン、ヴォルデイン』
痛みにより失神から覚醒したヴォルデインは頭に響く声を間近に聞いた。
それは、今彼に牙を突き立てている龍が発していた声とは少し違い、少々おどけた感じの軽薄そうな声だった。
「魔道卿ヤシン・アングバンドか?」
断崖からぶら下げられ、口の端しから泡混じりのヨダレを垂らしつつ、ヴォルデインは誰とはなく問いかける。
『ずいぶんと退屈しているようじゃないかヴォルデイン?』
再び声がする。
「ああ、退屈だったさ。つい先ほどまではな。今はそうでもない。正に今噛み砕かれようとしているのだからなぁ。ガーッカカカカカ……」
何がおかしいのか、黒竜はゲラゲラと笑いだした。
「カカカ……。オルタナ・オルセンの命で飛竜を虐げてはいた。自分の欲望で為すのであれば、それも痛快でもあっただろうが、他龍に云われてやったところで……。それにな。私が悪事を起こすと、決まってすっ飛んで来ては雷を落とすあの綺麗な龍、アルティン・ティータがいないとなると……虚しいだけよ。アングバンド。アルティン・ティータを弱らせよって……。お前のような魔道の使い手が付いていながら、なぜ防げなかった?……」
寂しげにそう呟くと、黒竜は顎戸から逃れようと身動ぎをしたが、牙を余計に食い込ませるだけだった。
黒竜は血を吐いた。
『すまなかったヴォルデイン。私やティータがいない間に、新たな天龍が入り込んで来るとは、知っていれば、みすみす君をこんな風には……』
「思い上がるな魔道卿。強ければ恣にし、弱ければ組敷かれる。それは摂理だ。……そこ辺りアルティン・ティータも判ってはいなかったがな」
『私たちの子。今、正に君に噛み付いているソルヴェイグはティータ以上さ。…………君に破滅をあげよう。君好みの破滅を!』
「ガハハハハハハ!!! 素晴らしい!」
心から楽しげに黒竜は笑い、同時に自分の死を覚悟した。
しかし、光の巨龍は黒竜ヴォルデインを吐き出した。
黒い巨躯は錐揉をしながら落下し地面に突き刺さる。
見守る一同が驚きの声を発する前に、上空から龍の声が響く。
『黒竜ヴォルデイン。オルタナ・オルセンの走狗として飛竜に害を成した罪により、人刑に処した後、その身を戦奴に貶する。オルタナ・オルセンを封じる尖兵となれ!!』
宣言の終了と同時に、黒竜の二本の角は根元から折れ、ヴォルデインの体はみるみる縮み、痩せた浅黒い男となった。
黒髪の酷薄そうな顔の男で、口の片側は釣り上がり皮肉な笑みが浮かんでいた。
「それは、なんと言うか、構わんのだが……。良いのか? 今ここでワシを殺さないで。飛竜達は憤懣の遣方が無いのではないか? それにこのまま行っても、ワシはまた、オルタナ・オルセンに操られるかもしれないのだぞ?」
魔術で衣服を身に付けたヴォルデインが、そう言って立ち上がる。
彼は、威厳のある王者のような佇まいであった。
角が折られた状態で人化したので、人と変わらぬ姿をしている。
角を生やしたまま人化すると、人の姿でも角が生えている場合が多い。
ゾファーとゾルティアは、彼の佇まいに、先日反乱し闘死した海竜衛士ゾンダークに似た面影を見出だした。
人化したヴォルデインは、未だ高嶺の宮から突き出している龍を見上げている。
「闘争の意味を見出だすことが出来るのであれば、ワシにとって敵は誰でも良いのだから」
『でも、もう嫌なのだろう? 誰かの言いなりになるのは』
「……たしかに。まっ平だな」
『だから私も無理強いはしない。しかしヴォルデイン。君が痛快に闘死するには、オルタナ・オルセンはよい相手だと思ってね』
「然り然り!」
ヴォルデインが笑う。
彼が、オルタナ・オルセンに操られていたということは、こうして明らかにされた。
「……飛竜の衆よ。悪いが天龍の勅命を受けた。もし、生きて帰ることが出来たのであれば、その時は復讐を受けよう。高嶺の王ストライダーに伝えてくれ。私はすぐにオヤルルの地へ向かう。翼人の奉公は解く。ここから先は私一人の楽しみだ」
そう言うと、ヴォルデインは西に向かって歩き去っていった。
彼を送る飛竜達の目は冷ややかなものであったが、天龍に萎縮し、声を発するものはいなかった。
※※※※※※※※
「光が薄れていく……」
光の龍を見上げていたゾルティアは、一言そういうと背中に折り畳まれていた呪腕を伸ばし舞空の術を使う。
光の龍は忽然と姿を隠し、光も散じてしまった。
ゾルティアはそれを見留めつつも、そのまま高嶺の宮の高棚まで上昇し、大きな亀裂から上宮に侵入した。
「ヤシン! どこたい?!」
そこにいた飛竜の女達は光の爆発で崖下に残らず投げ出されたが、それらは光の龍によって全て掬われて救われた。
今、この高棚には、先ほどまで黒竜が吐き出していた火焔の熱気と、竜の熱で溶かされて床にこびりついた金銀財宝とが残されているだけだった。
『……』
階段へと続く奥の扉から、ヒタヒタと近付く素足の音がゾルティアの耳に入る。
「ヤシン?」
暗い階段を登りきり出入り口から顔を出したのは、ゾルティアの予想通りヤシンだった。
「あのー、ゾルティア。……その、」
「なんだい! 無事ならそう言いな! そして、なんでそんなところで縮こまってんだい?!」
ヤシンが無事なのを確認し、安堵のため息をついたゾルティアはヤシンの手を取り高嶺の宮の高棚に引き入れた。
「あら? 服はどういたんだい?」
ヤシンは全裸だった。
「階段を上っていたら翼人の族長に追い付いて、話をしているうちに急に焔が来て……、気付いたらこんなんなってました」
「あんた龍になっていたよ。覚えてないの?」
「竜? 龍?」
ゾルティアはヤシンを引き寄せ、自分のズタ袋のような長衣の中に入れた。
「まあ、話は後だ。まずはここから降りてみんなのところに戻ろう」
「わっぷ! ゾルティア!!」
ゾルティアはヤシンを抱いたまま高棚から飛び降りた。
何度も述べるがゾルティアは長衣の下になにも着ていない。
※※※※※※※※
北の灯台塔基部の屋根の上、初期型魔道メイド『817号』が見上げる先。
先日崩落した北の灯台塔は、およそ半分復元され、白い塔が黒い基部からそびえ立っている。
ここで天候が怪しくなってきたため、817号は今日の作業を打ち切った。
塔の先には今まで石材を積み上げていた、巨大な蟹のような魔道工兵が茎の先の蒲公英のようにしがみついたままになっている。
「生暖かい風が南から吹いてきた。この分だと暖かくなりそうだ。だけど、北の山の辺りは雪だろうねぇ」
基部の屋根からシラトリの向こう、微かに見える険峻を望みながら817号は呟いた。




