海峡 Ⅶ
「……何だろう? 足元の、ずっと下の方から、地響きのような音と、唸り声のような……、粗野な人が沢山宴会をしているような、声がする」
階段を登りながら、ヤシンは時折耳をそばだてる。
「この灯台の建つ崖には、海に面した大きな洞窟があり、そこには海竜の宿り場がございます。西海から東海、東海から西海への旅の途次、海竜はここで疲れを癒します。後で降りて行きますので、海竜達にご挨拶を。この季節、海竜の助けがなければ、海峡を渡ることは出来ません。どのようにして知ったのか、彼等はヤシン様の北行を聞き付けて、何日も前から集まり、逗留しております」
灰色の長髪と白く輝く装束をなびかせ、階段を先導する長老は、振り返りそう言った。
「……人界を離れ、遙々北の涯までやって来たと思ったら、今度は竜かよ。いよいよ、お伽噺めいて来たぜ」
長老の言葉を聞いていたディロンは、階段を登りながら呟いた。
「ディロン様。人の世界とは存外狭く、人の時代とは存外短いものです。あちらのエルダールの長老は、ゴンドオル建国の御代、王都の近くにある旧王都ローヴェにおいて魔道王が即位された時、オーマからの使者として初代のヤシン陛下に謁見されております。オーマにおいてこの塔が創建された時も、ここで立ち会っておいでです。齢は二千を越えるでしょう」
ミールの言葉を聞いて、ディロンは呻き声を上げる。
「うへぇ、本当にお伽の国かよ…」
クスリと笑ったミールは、視線をヤシンに向ける。
「ヤシン様と再会し、長老も懐かしいのでしょう……」
螺旋階段を登りきり、灯台の上部、灯楼にたどり着いた。
まだ太陽が上りきっていない時刻のはずだが、厚い雲が幾重にも垂れ込め、空は暗くなっていた。
「すごい景色……。この世の果てみたいだ…」
強風に髪の毛を弄ばれながら、ヤシンは足元の海面を覗き込む。
うねりに持ち上げられ、風に押されながら、海そのものが岸壁に叩き付けられている。
岩礁で揉まれた海水は、クリームのように泡立でられ、それが岩壁を避け登る気流に乗せられて、ヤシンの近くまで飛んできた。
「空と海とが交わる辺りに、暗く延びる線が、エルダールの住まう大地『エリアドオル』でございます。あなた様がこの地を去る際に、いつの日か帰還すると告げられた土地でございます」
ヤシンが遠くを見ていると思ったのか、長老は遠くに幽かに見える、『北之島』を指差す。
ふわふわと舞う海の泡を見ていたヤシンは、首を振った。
「それは僕じゃない。それは違うよ」
ボロボロの農民のズボン。
かつては上等だったシャツは薄汚れ、所々に継ぎ接ぎが当ててある。
寒さが厳しくなった最近は、シャツの上に毛皮の上着を着ている。
軽くウェーブのかかった金髪は、ゴンドオルの民にはほとんど見られない、王族の証のようなものであるが、頭の傷と片目を覆うため、包帯でぐるぐると巻かれている。
王子と言われても誰も信じはしないだろう。王都に住まう平民の少年と比べても、みすぼらしい身なりだった。
「僕は国を追われ、北之島へと逃げて行くんだ。
僕は弱い。
戦いは恐ろしいし、
……でも、
王として人々の上に立つって事は、もっと、
たまらなく恐ろしいんだ。
恐らく北の人々は僕を深く恨んでいるだろう。
僕が弱いばかりに、
僕が先頭に立って、可哀想なシムイと争わないから、
ウィストリア公や北領の多くの民が死んでしまったのだから。
グレタだって、心の奥底では、僕を父の敵と思っているはずだ。
王様って云うのは、自分で決めた事や、やったことが他の多くの人たちの運命をも左右してしまう、その事を受け入れる覚悟が出来る人しか、やっちゃいけないんだ。
北之島で僕は冬を越せないかも知れない。
病気で死ぬか、先に渡った北領諸侯の残党に殺されるか、グレタとその騎士達に殺されるか……。
だけど、それら、どの運命も、ゴンドオルの、王都の玉座、シムイを殺して手に入れる玉座で、誰かと誰かの生命を天秤にかけながら過ごす未来なんかより、余程良い。
だから、長老。
僕は違うんだ。
僕は王の器じゃない、王子の地位すら、持て余し、耐えかねて、病気になったのだから。
あのまま王都の離宮で、死んでも良かった。
………でも、僕は王都の外を見たかったんだ」
半ば自分に言い聞かせ、自分の短い人生の意味を探すようにヤシンは言う。
「……どうしてだろう。ここの風景は、見たことがあるような気がするんだ。……夢で、なのかな?」
異様に元気なカロンと、息の上がったディロンがミールを抱いて階段を登りきったのはその頃だった。
全員が揃ったことを確認し、長老は塔楼の中心に建つ、ガラス張り四阿へ入る扉の鍵を開けた。
「こちらをご覧ください。『シル・パラン石』。灯台の心臓です」
四阿の真ん中に、石の台座があり、その台座の窪みに、まばゆく光る一抱えもある丸い宝玉が納められている。
宝玉には、生々しい眼球の瞳孔の様な、丸い色違いの部分があって、その部分からは、更に眩しい光が、雲間から差し込む光の帯のように真っ直ぐに伸び、海の中を一直線に照らしていた。
「ヤシン様、目を閉じて触れてください。貴方ならば見えるはずです」
「………」
長老に促され、ヤシンは恐る恐るシル・パランに触れる。
「グッ! フグググ、」
途端に顔をしかめるヤシン。
包帯で隠されたヤシンの片目から血が吹き出す。
「お坊っちゃま!」
ミールがヤシンへ手をのばす。
シル・パランの大宝玉の発する光は、何倍にも強くなり、部屋の中の皆は、直視できずに手で顔を覆う。
光はガラスの壁を突き抜け、塔の天辺から海の西方へ注がれる。
「光ることがこの石の本来の役割ではない……。ヤシン様。遠くの風景を望むのです。海の中も、遠くの島や大陸も、見通すことが出来るはず」
目の辺りの包帯は、すでに深紅に染まり、更に頭の左右、耳の後ろ辺りにも血の赤が拡がりだす。
「ああ! お坊っちゃま! ディロン様! 降ろして下さい!」
転がるようにディロンの腕から降りたミールは、服が汚れるのも構わずに、ヤシンの足元まで這い寄る。
「お坊っちゃま、それ以上は……」
ヤシンが手をかざすシル・パランの、瞳孔の様な文様は、眼球そのもののように、キョロキョロと、ひとりでに動く。
宝玉より伸びる光の帯も、それに合わせて目まぐるしく動き回り、オーマの街を照らし、遠くの北之島を撫でるように過ぎ、更に北方の彼方へと向けられた。
「ああ、……見える。……これは……どこだ?」
ヤシンは目を瞑り、何かを探している。
シル・パランの瞳は北の先の先に向けられている。
放つ光はどんどんと光量を上げ、ヤシンの手の中で、宝玉は燃えるような熱を発し始めた。
「なんという力! 精霊との契約が!」
カロンは尻餅をつき、自分の中から抜け出そうとする何かを、必死に抑えて押し留めようとでもするかのように、自分の両肩を抱くような仕草をした。
「ヤシンお坊っちゃま! あああ!!」
ヤシンの元まで這い寄り、必死に足にしがみついたミールは、悲鳴を上げる。
「氷壁は崩れ落ち、アングマアルの道は、開かれる」
ヤシンの体から蒸気と煙とが上がり、ガクガクと震えだす。
震えながら、何者かに取り憑かれたように、途切れ途切れの言葉を発する。
「極北の軍勢はウンバアルを目指し、南の帝国を襲う。人の世に終わりを告げる戦いが始まる……」
長老はヤシンの手を掴み、引き離す。
「これ以上は、ヤシン様といえど危険です。それに、シル・パランの光の再生に気付いたようです。竜達が、騒ぎ始めました」
「待って!」
ミールと長老の制止を振り切り、
なおもヤシンは宝玉を使おうとする。
『ぎゃあああああああああああああー』
その時、地響きと共に、何匹もの竜の絶叫のような鳴き声が遠く足元から響く。
塔の下、崖の下の海が突然沸騰したかのように、モウモウと湯気が上がり、崖の突端からは、小さな太陽のような火球が撃ち放たれる。
火球は水面や沖の岩礁などに当たると、大爆発を起し、更にその爆発で飛び散った小さな火球が、散った先で爆発し、その爆発で散った火球が、また爆発する。
塔は揺れ、水蒸気は上昇気流に乗り、塔を超えて昇っていく。
爆発でこちらまで飛んでくる、海水や岩礫が、四阿のガラスにビシビシと当たっている。
「あああ! 竜が熱核ブラストを無闇矢鱈にぶっ放しているのじゃ! しかし何という数!!」
カロンがガラスにへばり付き、海の方を見ている。
「祝砲のつもりでしょう。己の『炉』の焔の、消え絶えるのも構わずに……」
長老も悲しげな視線を海に送る。
「ミール! ごめんよ!」
我に返ったヤシンは、ミールを抱え起こす。
「ヤシン様。ヤシン様、」
光を失ったミールの片方残された瞳は、ヤシンを見つけることが出来ずに、宙を彷徨っている。
「ああ! どうしよう! ミールが、僕がミールを……」
ミールを抱いて途方に暮れるヤシンの肩に、長老はそっと手を置く。
「ミール様は魔力が尽きかけておいでです。シル・パランに吸われてしまったのでしょう」
「どうすればいいの?」
ミールは残された手でヤシンの震える手を掴み、そっと自分の胸に添えた。
「ヤシン、さま、たすけて……」
「シル・パランにそうされたように、己の『炉』に魔力をくべて、回路を通し、掌からミール様へ注ぐのです。ミール様の器はシル・パランよりも繊細です。少しづつ慎重に…」
長老に促され、ヤシンは瞑目し、彼の体内にある『炉』を発動させる。
『バキン、バキン』と水晶が折れ砕けるような音が、ヤシンの身体から聞こえてくる。
「ミール、ミール!! ……僕を一人にしないで!」
光を発するヤシンの掌に呼応し、ミールの胸元からも光が迸る。
「……私はまだ、停止する訳にはいかない。見苦しくても、浅ましくても、……私は……まだ」
ヤシンに抱かれたミールが、すがりつく。
長老がヤシンの背後より手を伸ばし、ミールの傷付いた頭を手の平で覆う。
「これ程の魔力があれば! 力の一部を拝借し、傷の修復を試みます!」
長老の掌も光を発し始める。
ミールに手をかざしたまま、長老は低い声で呪言を詠唱する。
「古に、
人は土塊から創り出された。
レーシー、
ルサルカ、
ドモフォーイ…、
地の精霊達よ。
太古の御業を、
今一度ここで示し給え!
神より預けられし、
天地創造の奇跡の力の一端を!!」
長老の掌からの光は辺りを圧し、ミールは直視できぬほど発光した。
「なんという魔力の奔流!! 北方魔法の秘術じゃ! ミール様! 思い出すのじゃ! 美しかった御自身の顔や御髪を!! 魔力が行き渡れば、その物は己の全うの姿を取り戻します!」
カロンが身を乗り出し、ミールに呼びかける。
「ミール!!」
やがて、ミールの放つ光が収まり、それでも四阿の内部では、シル・パランが輝いている。
シル・パランの光の中、ヤシンの腕の中で、ミールは静かに瞳を伏せている。
彼女の頭の、無残な傷は無くなっていた。
建国の時代から、代々の王族に仕え、人間世界の歴史を見続けてきた魔道人形は、創り出された当時の、離宮の惨劇以前の、美しい少女人形の姿形を取り戻していた。
黒い髪は腰のあたりまで伸び、顔にも首にも、恐らくその下の体にも、無数にあった刃物の切り傷、差し傷は消えていた。
純白の肌は、白磁の像のように滑らかで、女神を模した様に、清廉であった。
しかし、惨劇の折、失われた左手首と、両足の膝から下、それに、外れていた片方の眼は、欠損したままだった。
「ミール、ミール!」
ヤシンが呼びかけると、ミールは瞳を開く。
「ヤシン様……。ありがとうございます。私の魔法核は満たされました」
少女のような可憐な笑顔で、ミールはそう言うと、身を起こし、自分の体のあちこちを確認しだす。
「…、それに、ああ! 顔が戻りました」
「うん、綺麗だよミール!」
「……これで皆様に、見苦しい姿をお見せすることなく、ご奉仕が出来ます。……よかった……」
「でも、手と足は戻らなかったね……かわいそうに」
ヤシンがそう言うと、長老は少し考え、「……対岸にある、この灯台塔の対の塔に、魔道卿の工房がございまして、そこでミール様はお生まれになりました。工房の封印を解くことが出来れば、欠損された部品が残されているかもしれません」と言い、対岸の方を指差した。
「ともあれ、そろそろ塔を下り、竜たちに会いに行きましょう。彼らが暴れ崖下の洞穴を破壊し始める前に」
「ヤシン様、頭の包帯と眼帯が血で真っ赤です。今お取り替え致しますね」
ミールはそう言うと、肩から下げているカバンから包帯を取り出した。
「下の花火は収まったか……。流石にあれだけ撃てば、魔力が尽きた者もおろうて」
長老が開けた扉から、吹きさらしの外に出たカロンが、海を見下ろして呟く。
「今のうちです。ミール様、お急ぎください」
「すいません、今終わります………!!!」
長老に促され、慌てて包帯を取り替えていたミールは、ヤシンのこめかみの後ろ辺りを触り、驚きの表情を一瞬見せる。
そこからは、頭皮を突き破り、左右一対の角のような硬い突起が、わずかに飛び出していた。
「………」
更に片目を覆っていた眼帯を外すと、いつも赤く充血していた目は、黄色味がかった縦長の瞳孔を持つ、シル・パランそのものの様な異様なものに変わっていた。
「竜の目……」
ミールは異形を目の当たりにした驚きと云うより、恐れていた予測か事実となった困惑のような表情で、ヤシンを見つめた。