越冬 XLVIII
ストレイリア離反の報は、高嶺の宮でとぐろを巻く黒竜ヴォルデインには届かなかった。
しかし、彼がそれを知り得たとしても、この後彼がとった行動が大きく変わることはなかったであろう。
山の岩壁を斬り裂いて南西に開かれた空。
高嶺の宮の岩棚に伏す黒竜ヴォルデインは、その空にも、そこから見下ろす山々や木々の連なりにも見向きはしなかった。
自分が征服した飛竜の雌達を這わせ、その上に長々と体を横たえたヴォルデインは、しかし時折自分の背後、岩山の内央に小さく開いた、この岩棚が砦として機能していた頃に使われていた出入り口の方へ注意を向ける。
出入り口は二つあった。
両開きの石扉のある大きな方は今も出入りがあるようで、少し開き、奥の部屋の明かりがそこから漏れていた。
小さい方の出入り口は壁に穿たれた穴のようだった。
「暫し息を止めろ! 永遠に止められたくなければなァ!!」
吠えるように黒竜ヴォルデインがそう言うと、この広間に三十は居る飛竜の雌達は一斉に息を潜める。
ヴォルデインは小さな出入り口に頭を近づける。
「…………」
そこは、度々焔で焼かれたのか煤け、暗い洞を更に黒々と染めていた。
その暗黒の口から、吐息のような緩やかな空気の流れと、微かな気配を察知した黒竜は、「テシカーガ!!」と一声吠えた。
「こちらに」
壁際に立ち並ぶ柱の影から大蝙蝠を二足で立たせたような怪人が現れた。
大広間に横臥する馬十頭分の大きさの竜達に比べれば、人と変わらない大きさの、この蝙蝠男は小さかった。
やや猫背ではあるが、引き締まった体躯は肉食獣を彷彿とさせ、両腕には脇から手先の親指まで翼膜が貼り付き、今はそれを捩るように腕に巻き付けている。
腰に申し訳程度に箕のようなものをぶら下げているだけで、武器、道具の類いは一切持ってはいないが、翼と云うか手と云うか、翼腕の先にある指は揃えて並べられたナイフの列、必殺の武器のようだった。
彼は翼人テシカーガ。
黒竜に仕える眷属の頭である。
「どうやら、こちらの長階段に何かが入り込んだらしい。恐らく獣の類いとは思うが、ひとつ、確かめて来てくれまいか?」
暗黒の竜頭を邪悪に歪めて、ヴォルデインは焔の息と共にそのような言葉を吐き出した。
「……御意」
一言謂うと翼人テシカーガはヴォルデインがいまだに頭を向けている黒い出入り口に向かおうとする。
「いや、テシカーガよ。岩棚から飛び下り、下宮から上がってこい」
テシカーガを呼び止めたヴォルデインはそこで視線を岩棚から外へ向ける。
陽は中天に差し掛かったところだった。
「日没と共にこの破れ口から焔を吹き込む。それまでに戻るのだ」
「…………戻らねば?」
ヴォルデインは問いに答えるのも億劫とばかりに、テシカーガの足元に自らの尾を鞭のように打付けた。
岩棚の床が爆ぜ飛び、辺りに石つぶてが舞う。
「時は移ろうぞテシカーガ」
テシカーガはヴォルデインから逃げるように走り出し、岩棚から飛び降りた。
落ちながらテシカーガは腕を振るい翼膜を広げた。
落下は滑空に変わり、テシカーガは叫び声を岩壁に響かせながら崖下の下宮。高嶺の宮がエルダールの駐屯地だった昔は砦の本体があった場所を目指した。
※※※※※※※※
「…………」
怪異の気配が去った後、ヤシン達は気配を圧し殺し暗い道を進んだ。
通路は緩やかな傾斜で登りながら北北東へ伸びている。
所々にある段差は、高熱に何度もさらされているのか、溶けていたり、有るべき所の段差が無かったりして歩きづらかった。
竜族は闇を見通す目を持っている。
海竜王子ゾファー、一角竜女ゾルティア、疾風姫ストレイリア、飛竜衛士フランドウィールは漆黒の通い路を迷いなく進んだ。
ヤシンの龍眼は闇もそれ以外も見通し、シル・パランを通じて魔道兵と魔道人形の視覚へと送られていた。
ヤシンと視覚を共有し闇路を難なく進む魔道メイド達。
九頭龍ダリオスも深海を棲みかとするだけに光の無いところでもある程度は見えるのだが、陸に上がって暫く経ち目が乾くのか普段は目を閉じて25号に運ばれるがままになっていた。
エルダールも夜目は利く方だが、一切の光が届かない真黒闇には心許ないものであったようだった。
この一行で一番目が見えないのは上エルダールのカラリオンである。
通路の幅は狭まり、手を拡げて人二人が並べる程度になった。
カルンドゥームとカルディア・シデロスが並んで先に立ち、ストレイリアとフランドウィールが続き、その後に魔道メイドに囲まれ、カラリオンに纏わり付かれたヤシンが続き、さらに海竜王子ゾファーと一角竜女ゾルティアが続き、殿に九頭龍ダリオスを頭に載せた25号か続く。
「ううう、タバコ、タバコ、タバコ……」
皆に禁止され煙管が使えないカラリオンは、うわ言を呟きながらヤシンの肩に手を置いてよく見えない闇を警戒しキョロついている。
「この先に下宮、昔の砦へと通じる丸扉がある。扉の向こうは今でも翼人達が占拠しているから特に気を付けて。そしてそこから上の高嶺の宮まで螺旋の階段が始まる。階段を登りきったらすぐ黒竜の背後だから、ここを一息で駆け登るよ」
「ここまで来ておいて言うのもなんやけど、上手く行くかいな? 入り口まで戻って、ワイが龍化して『通天砲』ぶっ放した方がエエんちゃうか?」
「ダメだよ。飛竜達が一緒にいるんでしょ」
「ヤシン王子よ。ではどうするつもりなのだ?」
フランドウィールの問にヤシンは暫し宙を見つめるような仕草をして、「お話をして悪いことをやめてもらうよ」と答えた。
「『やめてもらう』って、あんたみたいなヒヨッ子の言葉、黒竜が聞くわけないじゃない!」
呆れたゾルティアはそう言って苦笑いするが、ストレイリアは真摯に受け止めた。
「お前も使えるのかい? 『禁呪』が……?」
ヤシンは頷く。
「だから人質に危害が及ぶ前に、僕の声が届くまで近づかなきゃ」
「禁呪と禁呪がぶつかれば、単純に魔力の強い方が勝つ。黒竜ヴォルデインは登龍門こそ登っていないけど、私たち飛竜が、誰も敵わなかったのよ」
ストレイリアは改めてこの少年を見る。
ヤシンは暗黒を見つめながら、誰かこの場にいない人物と会話をしているように呟く。
「黒竜は僕の敵ではない。僕の魔力の方が強い」
「……」
この少年に託して良いのか。
遅かれ早かれ裏切りは露見する。
人質は顧みず、ここから焔を送り込み、高嶺の宮を焼いてしまった方がよいのではないか?
「ヤシン! この先の丸扉が開いた! 何かが通路に入ってくるよ!」
ストレイリアの思案は、ゾルティアの警告により中断された。