越冬 XLVII
「星の理は移ろい、海洋は湾曲せん。
我を招く舟は遥か神の盤面を西方へ進み、
我の前には大地に添うた望洋の丸みが広がるばかり……」
「リングロスヒア! リングロスヒアやないか?!」
ダリオスが叫び声をあげる。
先程ヤシン達が入ってきた、この聖堂なような細長い部屋の入り口に、いつの間にか淡く蒼白く光る長衣を身にまとった銀髪のエルダールが立っていた。
幻燈の影のような存在感の希薄なエルダールは、部屋の隅にうずくまるバンシーとヤシンの前に進み出た。
「生の始まりは暗黒に出る曉の萌芽、
そして死は蒙昧にして只暗し。
万物は流転し、生命は様々に変化する。
河が、絶えず過ぎ行く水の有り様であるが如し……」
エルダールの亡霊、リングロスヒアもまた、現実の血肉を備えているのではなく、存在が希薄であったが、ヤシンの光に照らされるまでもなく、自らの光によって、シル・パランを備える者の他でも知覚することが出来た。
「あの時、確かにフェアノオルは、あんさんに舟を余越とったっんに……なんで行かへんかったんや?」
ダリオスの言葉にリングロスヒアの亡霊は首を振る。
「愛しき者が『残念』しておりました。その、心残りが、私を押し留め、私の念もまた、残りました」
エルダールの残留思念、リングロスヒアがダリオスの問いに答える。
ヤシンはリングロスヒアを暫し、すべてを見透かすようにシル・パランで見詰め、抱いていたバンシーから離れた。
「あなたはこの子を迎えに来たんだね……。でも、どこへ行くの?」
「魔道王。……我ら原初の者共に、生命の理は閉ざされております。『死』と云う概念の、命の輪の完成する以前の種族なれば……」
リングロスヒアの言葉は生き死にの概念を外れ、凪いだものであったが、恐らく生前の、敵意のようなものの残滓が含まれた冷ややかなものであった。
「上古エルダールの王フェアノオルは、同胞を伴い、旅立ちました。しかし私は、大地の幽冥に潜み、残された霊達と共に、世界の改変を待つことにいたします」
「……?」
生前、イトゥラリエンと呼ばれたバンシーが、リングロスヒアを見上げる。
「イトゥラリエン。もう、私の事は忘れてしまったか……。こうなってしまってはじめて、私は後悔をしている」
リングロスヒアはイトゥラリエンを抱き上げ、部屋の出口を向く。
「さあ、往こう。この世の事はもう、我ら亡霊ではどうしようもない。我らは生きてはいない。しかし我らには『死』が無い。あとはそう、物語を読むように、起こることを眺めるしかない……」
イトゥラリエンを抱いたまま、元来た道を戻ろうとしたリングロスヒアは、ふと立ち止まりヤシンへ振り返る。
「……魔道王。私は死の直前、あさましき事に貴方を憎んでおりました。いえ。死を知らぬ種族全てを愁い、そのような出来損ないを世界に放った存在を憎み、そして、そのような世界を容認する力有る者達全てを憎んでいたのかも知れません。私はあなた方を、そして、この不完全な世界そのものを破滅させる力を、あの子に与えてしまいました。全ての不死者に終の挙げ句を捧げるために……」
無表情だったリングロスヒアの顔に苦悶の陰が現れる。
「愚かだった……。必死にさしのべられていた救済の手を顧みず、己の苦悩ばかりに捕らわれていたのだ……。ああ、イトゥラ……」
リングロスヒアは向き直り出口を過ぎていった。
おぼろげで、もはや人の形もとどめていないモヤのような幻影が、多数付き従う。
「往こうイトゥラリエン。そして、亡霊達……。月日の元を彷徨い、世界、或いは我らが擦りきれて無の中に溶け込んでしまうまで……。帰りなん、いざ……」
そのようなことを呟きつつ、リングロスヒアとイトゥラリエンは幻影を引き連れて消えていった。
先程までひしめいていた怪異の気配は薄れ、ただ漆黒の暗闇ばかりが、ヤシンの行く手に再充填された。
「生命の理が閉ざされている……」
ヤシンはリングロスヒアの残した言葉を繰り返した。
この闇路に赴いた使命も忘れ、ただ呆然と闇を眺めていた。
※※※※※※※※
森の中をエルダールの若い狩人が疾走していた。
夜通し駆け続け、既に息はあがり、喘ぎながらも足は止まらず、彼の体を北へ北へと押し進めていた。
『ザッザッザッ、』
「ひゅー、ひゅー……、」
『ザッザッザッ、』
「ひゅー、ひゅー……、」
新雪を踏みしめる音と、喉を通る風切音が、葉の落ちた山間の森に響く。
このエルダールの狩人はアムルイ。
キコナインの町でイトゥラリエンを射殺し、リングロスヒアを刺し殺したアムルイである。
灯台ヶ森を抜け、沼地を避け、てんでに逃げ帰るシラトリの戦士達を追い越し北へ北へと、獣のような速さで駆け続けたアムルイであったが、シラトリ郷を目の前にして、彼を急き立てる意思はともかく、肉体は活動の限界を迎えようとしていた。
アムルイが転倒する。
彼は喀血していた。
「ひゅー、ひゅー、ひゅー……、」
白い樹皮の大木の梢に留まり、アムルイが近付き、遠ざかるしばらく前から、その鋭い目で見下ろしていた大きなふくろうが飛び立つ。
ふくろうは音もなく滑空し、うつ伏せのアムルイの背中に無遠慮に留まった。
無機質な目で暫し喘ぐアムルイを見下ろしていたふくろうは、くちばしをカチリカチリと鳴らし、地面の長虫でも啄むかのように、アムルイの耳の穴にくちばしを突き立てた。
アムルイの体が一度ビクリと痙攣する。
「!!!」
不意にふくろうは頭を上げ、慌てて飛び上がる。
その動きを読んでいたかのように、いや、そうなるように仕向けられたかのように、飛び上った場所に矢が一本飛び込んだ。
『キン!!』
どこからか飛んできた狙いすました矢の一撃は、矢の狙撃方向にやや斜めに展開された物理防御の魔方陣により逸らされた。
『ヒュン! ヒュン! ヒュン!!』
しかし、一撃で仕留めることが出来ないことを予め知っていたかのように、二の矢、三の矢、四の矢が立て続けに殺到する。
『ガン! ガン! ガン!!』
それらの矢も魔方陣によって弾かれてしまったが、それらの矢を逸らせる余裕がなかったのか、魔方陣にまともにぶつかり、その衝撃で体勢を崩したふくろうは落墜し、雪の中に沈んだ。
辺りには動くものがなくなり、アムルイの息づかいと、雪混じりの風の音だけが、強まったり弱まったりしながら広野を渡っていった。
しばらく経った。
アムルイが咳き込み、弱々しく「母様……」と言った。
また、しばらく経った。
アムルイが再び咳き込んだ。
雪に体温を奪われたのか、苦しげであった。
……また、しばらく経った。
風雪は強まり、地も空も白くなった。
『ポコリ』
アムルイからさほど離れていない雪の吹きだまりから、棒の先に金属の玉が付いたような奇妙なものが、新芽が地面から生えるように屹立した。
棒の先の玉は、カシャカシャと音をたてて蓋のような部分を開け閉めし、その蓋の中には作り物の眼球が納められていた。
機械の目は、くるくると回り、まるで辺りを警戒しているようにキョロキョロと視線を動かした。
その目がなにかを見付ける。
それは、この目玉と倒れ伏すアムルイから木々を隔てた遠く、槍の中程を天に掲げ持ち、中天を射抜くような仕草をした狩人の影だった。
機械の目は、その姿を詳しく見ようと瞳孔を絞る。
『!!!』
目はなにかの危険を察知し、棒の目玉の根元が盛り上がって、中から目玉の飛び出したふくろうが頭を出す。
さらに羽の一本一本が蜘蛛の脚のようになった不気味な翼が這い出て、ふくろうは虫のように地面から体を抜いた。
蜘蛛脚の翼を一振りすると、蜘蛛の脚は羽に戻り、離陸のために羽ばたいた。
しかしその時、ふくろうの脳天に光の矢が真上から突き立ち、その体は数々の機械の部品を撒き散らしながら爆散した。




