越冬 XLVI
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
このような暗い所で、
私はうずくまり泣いているのですが、
いったい、
どのような経緯で、
いったい、
なにがこんなに胸をこんなに締め付けるのか、
そこがとんと思い出せなくなってしまい、
涙が流れ、
悲しみの吐息が喉を登ってゆくのですが、
首筋がひどく痛み、
そこから吐息が漏れ出てしまい、
私の嗚咽は空気を震わせることはなく、
なんの音も響かせることはありませんでした。
このような暗い所で、
次第もわからずに、
私は泣いています。
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
はじめはもっと別の場所にいたはずですが、
痛む首を押さえながら、
なにが善くないもの達に追い回されて、
こんなところまで逃げてきたのです。
逃げるうちに、
なにもかも忘れてしまい、
なにも思い出せなくなって、
ここにうずくまり、
泣いているのです。
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
イトゥラ、リトゥラ戒めを解いて
※※※※※※※※
「君は誰?」
暗闇に向かってヤシンは問いかける。
ヤシン達は高嶺の宮へと通じる大昔の通路を進んでいた。
通路は煤だらけで、カルディア・シデロスが灯す魔法の明かりも、さほど先までは照らさず、闇に吸い込まれてしまった。
まだ通路に入ってから、たいして進んではいないが、海竜王子ゾファーが何者かの気配を察知し、ヤシンと一角竜女ゾルティアがシル・パランを使い、辺りを探っていた。
ヤシンとゾルティアは道程の先に人化した飛竜と黒竜の眷族『翼人』の気配を察し、それとは別に一行の周りに生者ではない存在を認めた。
通路が少し広がった長い部屋の隅をヤシンは見詰めている。
「いったい誰に話しかけているの?」
ストレイリアがいくら目を凝らしても、ヤシンの視線の先にはなにも見当たらなかった。
ヤシンは膝をつき、見えない何かに手を差し伸べる。
その時である。
耳聡いものは微かに、少女のすすり泣きの声を聞き、途切れ途切れの歌声を聞いたのだ。
「イトゥラ、リトゥラ……?」
ゾルティアには見えていた。
暗い部屋の隅にうずくまり、自らの首を押さえて血涙を流すバンシーの姿が。
彼女は差し伸べられたヤシンの手にも怯え、さらに身を縮めている。
「暗い場所は君にとって魅力的だろう。だけど地中の奥底が君を誘おうとも、これ以上深く潜ってはいけない!! 眩しかろうと、身を焦がそうとも、天の方、明るい方を目指すんだ!! 冥府魔道に陥るなかれ!! 魂の輪転を! 澱むなかれ!!」
少年ヤシンの声は老成し、鬼気迫り、闇を脅す。
光の途切れた闇の先から、囁き声と沢山の見えない気配が集まってくる。
一同は見えない存在達に恐怖した。
「ああ! 僕の声では彼女に届かない」
ヤシンは絶望の声をあげる。
「ちょっと、超怖いんですけど。一体何が見えるっていうのよ?!」
恐怖で完全に浮き足だったカラリオンがゾルティアにすがるように問いかける。
「ふむ。下エルダールの女が見える。ハッキリとした姿で。そして今、闇の先からもっと淡いボンヤリした人影が多数集まってきている」
瞳を閉じたゾルティアがシル・パランを輝かせて言う。
カラリオンは短く「ヒィィ!」と悲鳴をあげてのけ反ったが、何かの予感を秘めて気を取り直し、再び質問する。
「ハッキリ見えるってのにヤシンの坊っちゃんが話しかけているの? それはどんな娘?」
「上エルダールの薄物を着て、首から血を流している。「イトゥラ、リトゥラ」と繰り返しのある唄を歌っている」
それを聞いてカラリオンは思い当たる。
「イトゥラ……。そのバンシーの生前の名はイトゥラリエン。キコナインの上エルダール、リングロスヒアの養女だった下エルダールよ……多分」
「ああ! あの時リングロスヒアと一緒に舟送りにされとった娘さんか!! 見えへんけど。……しかし、あの幻みたいな舟送りが本当だとして、二人は『クリンゴン』の方へ消えていったんちゃうか?」
ダリオスがキコナインの港での出来事を思い出してそう述べると、カラリオンが首を振りながら答える。
「イトゥラリエンは下エルダールですもの。乗船を拒否られたのよ……多分」
「どうもここはエルダールの残念が集まりやすい所なのね。今や部屋中バンシーがひしめき合っているわ」
「ヒィィィ!!」
ゾルティアの言葉にカラリオンは悲鳴をあげた。
「ダメだよみんな! 空のあるところに行かなきゃ!!」
見えない何かに溺れるようにしながら、ヤシンが虚空に訴える。
「私たちの言葉では、彼女達を祓うことは出来ないみたいね」
ゾルティアは悲しげにそう言った。
「そんな……。こんな暗いところでずっと泣いているなんて……。何とかする方法はないの?」
悔しそうにヤシンが言うと、今まで口を閉ざして付いて来ていた魔動人形『方舟の姉妹』の一人8号が口を開く。
「殿下。……もし、お望みであれば、慈悲をお示しになりたいのであれば……」そこまで言って8号は言い澱む。
「私たちにしたように為されば宜しいかと……」姉の5号が言葉を継ぐ。
「この体をいただく前のことはあまり覚えてはいませんが、このような暗いところで、心細く泣いていたような気がします。私には関知できませんが、もしも、殿下の目の前にいるバンシーがそうであるならば、どうか、魔道核に納め、陽の元に連れ出してください」
8号はそう訴えたが、ヤシンは首を振った。
「それじゃあダメだよ……。ここから出たとしても、今度は別の檻に囚われるだけなんだから……」
「私は嬉しかった!!」
8号が手をもみ絞りながら大きな声で言う。
「私はこの体をいただいて、陛下や殿下、アルティン・ティータ様にお仕えして、嬉しかった!!」
彼女は涙を流せない。
そういう機能はなかった。
しかし彼女の表情は、深い悲しみと懇願の形を作っていた。
「私達は、……この世に在ると云うことは、既に何かに囚われていると云うこと。……ならば、せめて陽の当たる所で……」
8号の肩を抱きながら5号は言う。
「殿下……。どうか、私たちのことまで、否定しないでください……。私達の有り様と、私達の選択を……」
「……」
「ヤシン、」
唇を噛み締めて逡巡するヤシンに、ゾルティアが声をかける。
「このバンシーは生前の傷の記憶に苛まれ、苦しんでいる。何とかしてやれないのか?」
「……。」
迷いの末、意を決したヤシンは、部屋の隅のバンシーの前に跪き、両腕で彼女を抱く。
「明るいところに連れていってあげる。だから泣かないで」
彼の胸元、龍の炉が唸り始める。
「な、何を始めるのよ?」
カラリオンが呟くと25号の頭の上の九頭龍ダリオスが答える。
「龍の契約や。魂を喰らって、魔道核に吹き込むんや。魔道王はそうやって魔動人形を増やしていったんや」
「ええ?! じゃあミールちゃん達って、元はバンシーなの?!」
「バンシーとは限らん。戦いで死んだエダインの英雄や、魔道王の子孫の場合もある。大概は記憶を無くしとるがな……」
ヤシンの両手から光が迸り、その光に照らされて、ぼんやりと少女の影が浮かび上がる。
「ああ! 見えるわ! やっぱりあの殯舟に乗せられてた下エルダールよ!!」
光量は増し、その光の中にバンシーは溶け込もうとしていた。
「魔道王、暫し待たれよ」
突然聞き覚えのない声が鳴り響き、ヤシンの光は掻き消され、辺りは暗闇に戻った。
「???」
一同が辺りを見回すと、ヤシン達が入ってきた入り口の方から、何者かが追い付いてきた。




