越冬 XLIV
「アルティン・ティータ様がエリアドオルの空を飛ばなくなってから暫くして、黒竜とその眷族が海を渡り飛来し、飛竜の縄張りを犯すようになったの。はじめは獲物の横取りなど些細な諍いだったのだけれども、そのうち単機の飛竜が撃墜されるようになったわ」
真っ直ぐに天を衝く巨神の馬上槍のような大杉が整列する森が、この海抜では未だなだらかな山体を帯のように縁取っている。
ここより高みは卑屈な灌木が地味薄い斜面にしがみつき、それも程なく尽きて、見上げれば大地の骨とも云うべき礫岩が骨骨と積み上がり、終いには城壁のように垂直に切り立っている。
「これより先を、黒竜やその眷族の目を盗んで飛ぶことは不可能である」
十九頭の飛竜は大杉の樹間に伏せている。
その姿には山頂に今もいるはずの敵に対する恐れのようなものが感じられ、彼らは見てはいけないものがそちらの方角に有るとばかりに北北東に背を向けていた。
ただ、白磁器のように滑らかな鱗で身を鎧い、桃炎の翼膜を背負う疾風姫ストレイリアと、幾多の炎を掻い潜った鋼の刀身のような灰鉄の鱗を持つ飛竜衛士フランドゥイールだけが決然として、そちらを向いていた。
飛竜の背や頭でここまで運ばれてきたヤシンと仲間達は、ここで一度地面に下ろされ一時の小休止をしている。
ヤシンや人化した海竜ゾファーやゾルティアは、慣れない空の旅と鋭い竜鱗で痛む尻や腰をさすっていた。
「視界ばかりの理由ではない。竜の『炉』の熱が、瞑目しながらも太陽の位置が判るように、聡いヤツには判るのだ。魔術など使えば、それが些細な手遊であろうとも、ヤツは感知する」
フランドゥイールは語る。
「ここから先、空を飛び遮二無二高嶺の宮へ一気に飛び込むか、或いはゾファー殿のように人化し、炉の炎を抑え隠密に進むか……、人化して進むのだとしたら、この先の道のりは険しいものとなりましょう」
「アルティン・ティータはんが、あんなド派手な降臨したんや。もしかしたら、こっから見えたかも知れへん。もしかして、もしかしたら、みんなバレてるかも知れんて。ここはターッと行くしかないやろ」
魔動人形25号の頭に鎮座する蛸妖怪、九頭龍ダリオスが進言する。
「ヴォルデインはここにいる我ら以外の飛竜を人質としています。男達は角を折られ竜に戻ることを禁じられたうえ幽閉され、女達は動くことを禁じられヴォルデインに組敷かれ床に腹這っています」
悔しさをにじませながらストレイリアは呻くように言う。
「魔動王は昨日我らに禁呪を使いましたが、ヴォルデインも強力な禁呪使いです。魔力の込められた言葉で摂理を曲げてしまうのです」
「そなら、尚更急がな! 飛竜が危ないで!」
焦れたようすでダリオスは叫ぶ。
「いや。しかし、私はそうは思わない。差し迫ってはいますが、一刻を争うというほどではないと。黒竜ヴォルデインは狡猾で目敏い竜。自分の持ち物に病的なほど執着する竜だけど、それ以外には無頓着なの。……ただ、宝石や輝く物をひたすら集めたいだけなのよ」
ストレイリアはなにかを思い出したのか、怖気が走るとでも言いたげな表情をする。
「ひとつ方法があるよ」
それまで口を噤んでいたヤシンが、この場にいる一同に視線を合わせず中空を見ながらそう言った。
「ここから少し降りたところに、高嶺の宮が『アングサンク』と呼ばれていた時代、……この辺りにエリアドオルと呼ばれるエルダールの国があった遠い昔に使われていた古い通路があるんだ。それは岩山の中をくり抜いて、山頂の物見台まで貫いている。多分竜達は使わないよ。飛竜は人化を嫌うからね」
ストレイリアは意外そうな顔でヤシンを見た。
「よく知っているわね。確かに古い入り口はあるわ。私達は暗い細道なんて真っ平ごめんだから使わないけどね」
「それは好都合。敵の裏をかけるかもしれない。では、そこを通ろう!」
しゃがんで弁当を食べていたゾファーが、膝を打って立ち上がる。
「そう上手い手でも無いの。その秘密の通路は私達飛竜や黒竜ヴォルデインは使わない。使わないからどんな道なのか、何が棲んでいるのか解らないの。私達の寝床、高嶺の宮の奥にその通路の向こう側の出口があるのだけれど、時々そこから上の宮に生臭い風が吹き込んでくることがあるのよ。そんな時、平和な時分なら、父王がその破れ口に思い切り炎を吹き込むの。そうすると入り口のあるこの辺りから火柱が上がるわ。その『火焔滅菌』も、黒竜が来てから何年もやっていないので、きっとなにか、空と太陽を嫌う良くないものが棲みついているわ。それに、高嶺の宮殿の真下にある下の宮と大手門は今、ヴォルデインの眷族『翼人』の軍勢に破られて占拠されているわ。人化させられた男達は、多分そこに幽閉されているはず。下の宮と秘密の通路は、どこかで繋がっているらしいから、翼人が探索に成功してそれが発見されていたら、彼らと鉢合わせするかも知れないのよ」
ゾファーは唸り声をあげる。
「ううむ。人化したまま魔法を使わず、そのようなおぞましい細道を行くことになるのか……」
「反乱が露見したらすぐに女達を殺す。そう脅されて私達はキコナインに向かったのです。飛んで行く方が圧倒的に早いけど、一瞬の時があれば、飛竜の女達はヴォルデインに殺されてしまうわ」
「先にストライダー王を助けた方が良いんちゃうか?」
ダリオスの問いにストレイリアは首を振る。
「父上をはじめとした男達は、角を折られ呪いをかけられています。恐らくエダインと変わらない力しか持っていないでしょう」
「翼人も魔法を使うはず。派手な魔法でなければすぐにはバレないよ。カルンドゥームに前衛に立ってもらい押し通ろう。報せが上にもたらされるより先にヴォルデインを止めなくてはならないんだ」
そう言うと、ヤシンは飛竜達を見上げる。
「あなた達はどうしますか? 僕が高嶺の宮から合図を寄越すまでここで待っていますか?」
「いやいや! そこまで全て委ねはしない! 我らとて矜持がある!」
あわててストレイリアが首を振る。
「気にすることは無いです。僕は母上のお言いつけを果たすために来たのだから」
明るい笑顔でヤシンは答える。
「僕は昨日までこの北之島にたどり着くことしか考えてなかったんだ。キコナインには立派なお屋敷があって、みんなそこで暮らして行けるなら、後の事はもう良いんだ。母上に会うこともできたし、父上の声を聞くこともできた。もう、自分が何者なのかわからずに途方にくれることもない……。後は母上のお言いつけを守って……」
ダリオスは唖然とする。
「ヤシン坊っちゃん。あんさんには『自分』っつう物が無いんちゃうか?」
潜竜としてローヴェの淵に潜み、獣のように過ごした500年。
人化して数年間も、ほとんどの時間をミールと過ごし、後はわずかにシムイ王子と文通をするだけだった王子の頃。
旅に出た後もミールを通してしか人と関わらず、オーマに到着してからはヤシン・アングバンドに憑依され、操られていただけだった。
ヤシン・ソルヴェイグはとうの昔に自分で考えることを放棄している。
ミールと離れて一同ははじめてそれに気づいたのだ。
「???」
ヤシンは不思議そうな顔をしてダリオスを見つめている。
「……。いっぺん性根、見つめなおす必要がありそうやな。……まあ、色々片付けて、帰ってからや。坊っちゃんもそうやし、ミールはんもそうや」
首を振り、それ以降の言葉をダリオスは飲み込んだ。