越冬 XLII
『北之島』という呼称は、ワラグリアの民の呼び方で、それをゴンドオル人が引き継いでそう言っているにすぎない。
比較的明らかな南の地域が、どちらの方角に進んでも、すぐに海に行き当たるため、そうではないかと予想しているだけで、実際の大きさや海岸線の正確な形を観測したワラグリア人もゴンドオル人もいなかった。
海へと乗り出した上エルダールとは違い、村同士の行き来も希な下エルダールから伝え聞く限り、北は、島だとしてもかなり大きい。
飛竜や海竜などは正確な形を把握しているはずであるが、敢えて彼らに問いただすエダインはいなかった。
ワラグリアのエダイン達が北之島と認識している領域は、中央大陸と北之島を隔てる海峡に接するキコナインの周辺だけであった。
実際は、広大な北の大地から伸ばされた半島の先にそれらはあった。
キコナインの北は、半島の背骨のような山脈と、その麓に拡がる森が続いていた。
木々の合間に大小の沼があり、中には泥竜の巣窟となっている沼もある。
泥竜を避け山脈に沿って北に進むと、東西から海が迫る半島の首の部分にさしかかる。
海までせり出す山や断崖を避け、半島の側面の北東に延びる湾に沿ってしばらく行くと、細く白煙をたなびかせるアウスシーリの山が見える。
近年の噴火によって、山頂近くの木々は火山灰を浴び、立ち枯れをしている。
その、まるで馬をしごくブラシのように、死んだ木々が立ち並ぶ山と、海岸との間をすり抜けた先に、エルダールの大集落シラトリ郷はあった。
この場所からカンナ・カミィと名乗る魔道士に率いられた男衆が出立していったのは、ほんの数日前である。
カンナ・カミィの檄を受け、シラトリに集まったエルダール戦士達は、言葉に魔力をのせた演説で煽られて勇んで出陣した。
カンナ・カミィが去ると途端にエルダールの熱情は覚め、後に残された女や子供達は不安げに男達の消えた南西の方角を見ていた。
その頭上を、飛竜の一団が雁行のように北から通り過ぎて行く。
まるで戦士達を追いたてるように南に消えていった飛竜を見た村人は、その行方を追いながら、男衆の行く末を案じ声を潜めて囁きあった。
数日後の夜、南の森は燃え上がり、アウスシーリを赤く縁取った。
不安な夜が明け、雲の間に間に朝焼けの光が差し込む頃、飛竜の群れが再びシラトリ郷を過ぎた。
槍の穂先のように鋭く、雁行の隊列で過ぎた竜は十九。
今度は南から北へと。
※※※※※※※※
キコナインの東。
北の灯台塔の、崩れ落ちた灯台の復元作業が始まろうとしている。
永く封印されていた土木用の大型機械化工兵が再起動された。
八脚の蟹のような機械化工兵は、崖を器用に降りて行き砕けた石材を抱え崖を登り、灯台塔基部の周囲に拡がる枯れすすきの原に並べる。
灯台塔基部の屋根。
歯形のように残った塔の土台の前にある、溶接され立ち尽くす『北の鎮守』の立像の前で、ミールは厚手のショールを羽織り北を眺めていた。
払暁。
この場で彼女は、飛竜と共に北へと向かうヤシン・ソルグェイヴを見送ったのだ。
「ミールー。あんた、よく承知したねぇ。ソルグェイヴの坊やが行くことに」
ミールの背後には灯台塔の倉庫番兼工房の主、魔道人形817号が、機械工兵の指揮をするため灯台塔基部の屋根から下を見下ろしていた。
彼女は魔道人形の最初期の姿をとどめている古い体をしている。
彼女は昔、『ナイト817号』と呼ばれていた。
体は装甲を外した剣戟兵の躯体そのままで、顔も少女の仮面を魔力球に張り付けているだけである。
魔道王は、彼女の体を使って『ミールタイプ』の開発を行った。
彼女のデータを元にして研究を重ねた魔道王は、後継機として設計段階から女性体の『ミール』をデザインし、817号は魔道王の助手として工房で働くこととなった。
魔道王が南へ旅立つとき、彼女は工房の新たな主として以降の開発を任されていたが、『魔道王死す』の知らせを受け、自らと南北の灯台塔を休眠させていたのだ。
魔道王の技術を受け継いだ彼女はすべての魔道人形の母である。
「お母様。……何故アングバンド様は私をこの体にしたのでしょう。少し魔法が使えるだけの、脆弱なこの体。ソルヴェイグ様のお役に立てないこの体に……」
ミールに『母』と呼ばれていたハイナは、作業の手を休めミールに歩み寄った。
「はいな? その体は、アンちゃん(魔道王アングバンドの事)の傑作なのよ? そして、魔道人形の希望……」
ハイナはミールの手を取る。
ミールの手は血肉を備え柔らかく、熱を帯びていた。
しかしハイナの手は鋼鉄とセラミックと人工皮膚で出来ており、固く冷え、ミールの温もりも感じることはできなかった。
「ミールー。あんた、ソルヴェイク坊やの母親になりたいのかい? その体は坊やの妻になるために製作されたのよん。もし、その気がないなら他の娘と代わってあげたら? みんな、みんな、なりたがるわよ。私だって……」
ミールの手を弄び、視線を落としたままハイナは問う。
ミールは答えることが出来なかった。
※※※※※※※※
昨日。
寝台に横たわったヤシンを取り囲む数名のなかにハイナとミールもいた。
「術が効き、昏睡しました」
オーマのエルダール、エルダランがヤシンの額に手を当ててハイナに報告する。
それを聞き、うなずくハイナの手で大宝玉シル・パランが輝きを放っていた。
シル・パランはハイナによって、ヤシンの左目、神弓の矢を受けた傷の上に添えられた。
こぶし大のシル・パランは氷が溶けるようにみるみる縮み、ヤシンの眼窩に収まった。
「シル・パランを移したわ」
ハイナはそう言うとエルダランを見た。
エルダランは頷き、「催眠の術式を解きます」と、言うと、掌に魔力を込めて術式を発動させる。
手術が終わると、ミールは恐る恐るヤシンの上半身を抱え起こす。
「……終わったの? ……あれ? あっ!」
ヤシンはすぐ目を覚まし、ミールの顔を見た。
彼の瞳は縦長の瞳孔の龍の目。
片方は空色の、この半年ずっと病んでいた目。
南の灯台塔でシル・パランに魔力を注いだ時に完成した生来の目。
もう片方は黄色味がかったシル・パラン。
天龍アルティン・ティータの目。
催眠の術が解除され、覚醒したヤシンは、ミールを一時見詰めていたが、直ぐに視線を虚空へ向けて泳がせる。
まるでこの場に居るもの達が感知できない何かが、この医務室の空間にあるかのように。
「恐らくそのシル・パランはアルティン・ティータ様の見たものの記憶が残っているのでしょう」
エルダランがそう言うと、
「それだけじゃないよ。この目は母様の水晶眼や、お父さまの三連星の魔眼とも繋がっているんだ。……今も」
「!!!」
ヤシンの告白に一同は驚き、そして希望を持った。
「急がなきゃ! 疾風姫ストレイリア離反の報を持ち帰るため、オルタナ・オルセンの傀儡が広野を北に疾っている! ストライダーの一族が危ないよ!!」
ヤシンはそう言うと寝台から飛び降りて部屋を出ようとする。
扉の横にあるコンソールに手をかざし微弱な魔力を送る。
教えてもいないのにその手順は過たず、手慣れたものであった。
「ストレイリアはどこ?! それにカルンドゥーム! カルディア・シデロス!!」
渡海を共にしたカルンドゥームは兎も角、ヤシンが失神をしている間に顕現し、直接会ったことのない者の名を呼びながら、ヤシンは灯台塔の出口を目指した。
※※※※※※※※
「今、禿げ山とエルダールの集落を過ぎた。ここから北は暫くは人の疎らな原野が続くわ。その先に我らの棲まう高峰の宮があるの」
大気の流れを操る魔術を使っているために、文字どおり空を切り裂くように飛んでいる飛竜の背であったが、不思議と声はよく通った。
「はひぃぃぃぃ!!」
ヤシンは、返事とも悲鳴ともとれる声をあげ応えた。
「あはは! なんとも情けない。それでも魔道王の御曹子かしら」
「ヒィィィ! 早い恐い! 早い恐い!」
風にチョチョ切られ、王兄ヤシンの涙は逆巻きながらシラトリの集落に落ちていった。
雁行の先頭、槍の穂先の先端を飛ぶ疾風姫ストレイリア。
付き従うは飛竜衛士フランドウィールを筆頭とした飛竜の戦士十八。
何頭かの飛竜の頭、角を抱えるように人がしがみついている。
「しかし、ミールはん、よく承知したもんや」
フランドウィールのすぐ後ろの飛竜には25号が乗り、その頭に髪の毛のように九頭龍ダリオスがへばり付いていた。
「ミール様の体調は未だ不安定です。……今はエダインの体なので、足手まといになるとお思いなのですわ」
「そうやな、それでこの大所帯や」
ダリオスは振り返る。
海竜王子ゾファー、一角竜女ゾルティア、機械騎士カルンドゥーム、機械銃士カルディア・シデロス、方舟の姉妹5号、8号、オーマの上エルダールカラリオン。
それぞれ飛竜の角に掴まり、運ばれている。
飛竜は翼の先の方を折り畳み、翼全体を三角形にして、翼の根本から伸びる呪腕から大気を吐き出す魔術を放ち、砲弾のような速さで飛ぶ。
ほどなく木々の生い茂る広野は終わり、視線の先には嶮峻が拡がり始めている。
「オルセンの配下、黒竜ヴォルデイン。アルティン・ティータ様を最初に裏切った竜……」
ストレイリアは風切音に混じりそう呟いた。