越冬 XLI
ウンバアル帝都、ティンパンベイジン。
北面の垂直な壁に窓や出入口が集中し、他は盛土のようにこんもりと丸屋根が覆い被さったような、まるで彼らの古地、南方ディーカナーンに揃って背を向けているような建物が立ち並ぶ都。
同じような様式の大小の土饅頭の中に一際大きく、皇帝の住まい黒陽宮はあった。
絶壁としてそそり立つ北面の白壁を背に、花壇と人工池が縁取る前庭は花盛りだった。
「道士ニコラウス……、」
か細く、くぐもった女性の声がする。
「フイミン様」
リンと鈴のような少年の声が答える。
声の主は黒いマントを羽織り、白昼の華の庭園を歩くには、あまりにも漆黒な少年だった。
黒い肌、黒い髪、瞳の色も光を反さない黒だった。
「ああ、ニコラウス……、やはりこれは私が為さなければいけないの?」
黒の少年が相対しているのは、白い怪異だった。
背の高さは、少年とはいえエダインの大人とかわらない黒の少年の、ゆうに二倍はあった。
老婆のように背を屈めているので、姿勢を糺せば三倍を越えるだろう。
純白のドレスを身に纏い、淡雪のような飾りが配われたヘッドドレスの厚いヴェールで顔は覆われ、その中を見通すことはできなかった。
大きく広がったスカートの裾から、鱗に覆われた太い尾が延びていた。
その令嬢(?)の、鱗肌の手には華美なナイフが握られていた。
「フイミン様。私は旅立ちます。私の変わらぬ忠誠の証として、フイミン様との絆の印として……、」
黒い少年は、白い怪異の、ナイフを持つ手に自らの手を添えて、自分の顔に近付けていった。
「ああああ、! ニコラウス!」
「先の年、西のドニオンが国境を侵し、町が四つ奪われました。ミグニシア海の海竜達の勢力が急速に衰え、多島海域や南沿海州の私掠船団が帝国近海まで押し寄せ、沿岸廻船は壊滅的な被害を受けております」
震える怪異の手にあるナイフの刃先を、少年は強引に自分の額に引き寄せる。
「今、北と西。同時に相手取る力はウンバアルにはありません。ですが『龍宮』の意向は、全方位への侵略と他国の圧服です」
『ズッ、』
ナイフは少年の額に入り込んだ。
「い、いや! ニコラウス!」
「フイミン様、ウンバアル第二皇女フイミン・シャクタン様。……北のゴンドオルは私が抑えます……」
額のやや右上に刺さったナイフをニコラウスはフイミンの手を添えながら、やや左下に引いた。
赤い鮮血がニコラウスの顔を滴り落ちる。
「ニコラウス!」
「ゴンドオルの魔女ミールの棲まうローヴェの離宮には底深き淵があり、大蛇の影を見た者が多くいるそうです。……ゴンドオルにも龍の影があります」
額からナイフを抜き、今度は左上に突き立てる。
「龍宮と戦うのですフイミン様。龍宮の傀儡として言われるがままに見える皇帝のお心も、我らと共にあるのです」
刃先は右下に走り、ニコラウスの額には斜め十文字が刻まれる。
この間ニコラウスの視線はフイミンから逸らされることはなかった。
「世界の災厄として、疎まれるウンバアルは、フイミン様には相応しくありません。世界に冠する華として、尊崇の極みの中に咲き誇るウンバアルの花芯としてフイミン様は在るべきなのです……」
血塗れの少年魔道士は白い怪異を見上げながら微笑んだ。
──……随分昔の夢を見たような……。フイミン様……。
ニコラウスは覚醒した。
しかし、視界は冥く、体は指一本動かない。
『??』
そこは南へ向かう馬車の中。
北方狼の襲撃で崩壊した遠征軍の隊列の中。
がらがらと、石畳に車輪が乗り上げ落ちるのが、音と振動でニコラウスに察知できた。
「おや? 起きましたか。少し脳を弄りすぎましたか」
少女の声がする。
柔らかい感触が背中にある。
誰かに背後から抱かれているようだ。
「龍宮の新参が、我が主の故地、アングマアル機械兵を操る術を編み出したそうだが、其などは所詮は児戯。アングバンド様は人体と精神の摂理を解き明かし、思うままに改変し操る術を編み出されました。……アルティン・ティータ様はその術を喜ばれませんでしたが……」
「……、!」
「命は奪いません。記憶を少し弄らせていただきます」
ニコラウスの耳に口を寄せ、ミールは囁く。
──ぐっ! がっ! ぎっ! ぎっ! ギギギギギィィィィィィ……!!
白髪の混じる初老の宰相ニコラウス・テスラウスは馬車に揺られながらミールに抱かれていた。
共に騎行するゴンドオル騎士達が見たのは、ミールの胸に休らうニコラウスと、昨夜の狼女の襲撃でニコラウスが額に受けた傷を庇い、そこに手を添える慈母のようなミールの佇まいだった。
その様を見たゴンドオルの騎士ナイエス・ナーガは思わず目頭を押さえる。
感涙が迫り上がり、戦慄きながら手綱を握りしめる。
「まさに、……自らを苛んだ、宮廷の仇敵にをも慈悲の手を惜しまぬとは……。聖母。聖母以外の何者でも……くっ!」
ナイエス・ナーガは意を決し、ミールとニコラウスの馬車に馬を寄せた。
「ゴンドオル王旗に誠を捧げる騎士としては、憚られる言葉ですが、宰相殿はこのまま息を引き取られた方が、ゴンドオルの為になるのではと……」
明らかにウンバアルに利する政策ばかり打ち出すニコラウスを、臣民は疑問視していた。
特に離宮の襲撃の顛末が知れ渡ると、ウンバアルに近い南方領の人々も憎悪するようになった。
「一度、お命を散らす既までゆかれたのです。目が覚められましたら、きっと心を入れ換えられ、ゴンドオルの為に尽くしていただけるでしょう」
ミールは微笑む。
まるで、人の良心を無条件に信じる無垢な心が言わせているような、その無邪気な言葉に、騎士達はまた涙を誘われ、ミールへの崇敬の念をあらたにしたのであった。
※※※※※※※※
北之島は既に真白であった。
灯台ヶ森を一時は焼き尽くすかに見えた火事も消え、熱波に呼ばれた雲はみる間に厚く空を覆い、海の水分を孕んで北之島南部に執拗に雪を落としたのだ。
初冬の水気の多い大きく重い雪は、まるで南を沈めてこの大島を覆そうとでもしているかのように、みるみる積み上がった。
キコナイン村の焼け跡にはエルダールの影はない。
廃城も無人。
敗残兵襲撃の際、キコナイン村民が身を寄せた森に点在する貯蔵小屋や洞穴も今は無人だった。
人家も生活の痕跡も、全ては白い雪の下に隠されてしまった。
後には火事を生き残った獣達が彷徨いた足跡だけが、降り足された雪に消されるまでの僅かな間現れるだけである。
風は強かったが雪は重く、吹き上げられることはなかった。




