海峡 Ⅵ
『オーマ』という港町は、『北之島』と大陸とを結ぶ、唯一の航路の出発点である。
渡り鳥でもない限り、北之島へと渡る術は他にはない。
オーマの住民は、南で『ゴンドオル』が建国される以前から、この土地に住んでいる。
五穀を育てず、狩りと漁を生業とする者達。
荒服最遠の民。
ゴンドオル王国の民は、彼らを『エルダール』と呼び習わした。
ここは王国の威光の届かぬ土地。エルダールの版図『エリアドオル』の南端。
前の北方領主すら、自由開拓民が森を切り開いている街道沿い以北は、自分の版図とは見なしていなかった。
政変の折り、グレタの父ガルボ家当主の『ウィストリア公』は、エルダールへ兵の供出を依頼する書状を送ったが、結局返書は無かった。
近年、街道沿いの北方狼の跳梁が激しさを増し、ゴンドオルとエリアドオルの人の行き来は絶えてなかった。
書状を手にした使者も、オーマには辿り着かなかったらしい。
政変が終わり、国を追われたガルボ家の家臣が、列をなして訪れた際、オーマのエルダールは、初めてゴンドオル王の代替わりを知った。
ガルボ家の者は大部分、北行の途上、狼の餌食となり、わずかな生き残りも、新天地を求め北へと渡った。
町に取り残されたのは、足の弱いものばかりである。
「ゴンドオル王国は縦に長い形をしておりまする」
ヤシン王兄と一緒に歩きながら、カロン老師は自分の大きな鼻を指差す。
「うふふ、カロンのお鼻がゴンドオルなの? なら、王都はこの辺りだね」
ヤシンはにっこりと笑いながらカロンの大きな鼻頭を指差す。
「南方では畑に水を張り、『米』を作っておりまする。これは、南方の帝国、ウンバアルの習わしですじゃ」
鼻先を指差しながらカロンはそう言うと、指を上へずらし、手を眉間まで上げ、二本指を両足に見立て、鼻の頭までトコトコと下っていった。
「元々王国は寒すぎて、米は育たない土地柄でありまする。古来北の民は『麦』と『豆』を作付しており、麦は、初代の王が北方よりもたらした種籾が起源と言い伝えられておりまする」
今度は杖の握りで鼻の下をとんとんと叩く。
「しかし、近年南方よりウンバアル人が多数流入し、米の畑が拡がってきましたじゃ。特にここ数年は暑い夏の年が多く、王国南方領の麦は育たず、凶作に堪りかね、畑を捨て北へ逃げ出す土地の者と入れ替わり、南方渡来人が北上してきおった」
握りをぐいと上に持ち上げると、カロンの鼻は豚のそれのようになる。
ヤシンはそれを見て、再びクスクスと笑う。
「先の王位継承争いは、いわば『麦の民』と『米の民』の争いでもあったのですじゃ」
鼻を使ってのカロン講義は終わり、カロンは改めて前方を見据える。
ヤシンもカロンの顔を眺めるのを止め、カロンに手を引かれながら先へと進む。
「お坊っちゃま。ここから北のエルダールの民は畑を持ちませぬ。この度の政変も、彼らには関わりのないことと云うわけです。王国は昔から北のまつろわぬ民たちを、自国の臣民と言い張ってきましたが、彼らからみれば噴飯ものですね」
ディロンに抱かれて運ばれるミールは、ヤシンの足取りを気遣いながらそう言った。
ヤシンとカロンの後ろを歩くのは、傷を負ったダイモンに代わり、護衛兵のまとめ役に就いたディロンとミール。
彼女は両足の膝から下を失っているので、ディロンに運ばれている。
その後ろの殿は、背の高い細身のエルダールが一人。
「初代の王はオーマの町に数年留まり、エリアドオルに数々の遺構を残し、南に向かったと本に記されていたよ…」
「左様。これから向かう先がその遺構の一つ『灯台塔』でございます。ミール様にとっては、もしかしたら懐かしい場所ではないでしょうか?」
ヤシンの問いに答え、長身のエルダールが口を開く。
白い修道服のような装束に身を包み、灰色の長髪は、腰の辺りまで延びている。
彼の年齢を言い当てることは難しく、若くもあり、年老いてもいた。
『長老』と呼ばれ、他のエルダールから、多大なる敬意を払われている彼は、更なる敬意をヤシンに払い、彼がいくら否定しても、彼を初代の魔道王と同一視しているようだった。
彼はヤシンを見るなり恭しく挨拶をし、灯台塔の参礼をヤシンに強く勧めたのだ。
ヤシンもここ数日は熱を出さず、床から出られる日が続いたので、日頃彼の体調を気遣い、無理な外出は反対するミールも、ヤシンが灯台塔へ行くのを許した。
「我らオーマのエルダールは、灯台塔と海峡を渡る船の維持を、ヤシン様より仰せつかった者でございます。今再び、魔道卿にまみえることが出来、望外の光栄…」
白いエルダール『長老』は、胸に手を当てて、再び挨拶をする。
「ヤシンって、僕?」
ヤシンは驚き、長老に聞き返す。
「お坊っちゃまではなくて、初代ゴンドオルの魔道王です。南征の王、王国開祖、初代王陛下、名前で呼ばれることは無く、あまり知られてはおりませんが、ヤシン様の名は、初代魔道王ヤシン閣下からとられています」
「そうなんだ……、」
「珍しいことではございません。特に長子、即位が確約された男子には、よく名付けられました」
「即位を確約ねぇ、あてにならないね」
ミールの説明にヤシンはクスリと笑った。
長子ヤシン王子と、次子シムイ王子。
国王崩御を合図に始まった『ゴンドオル』国の王位継承争いは、仲の良かった二人の王子の絆を引き裂き、諸貴族を巻き込み、内乱へと発展し、南方貴族の一斉造反により、次子シムイ王子側の勝利で終わった。
シムイ王子の後ろ盾として、王子と南方貴族との橋渡しを行い、その功により宰相に任命され、実質的に国の最高権力者となったのは、先代王の御代に、南方のウンバール帝国より招聘された、魔導師『ニコラウス・テスラウス』。
彼の許には帝国の息の掛かった人が出入りし、王国はウンバアルの冊封に組み込まれていくこととなる。
「南の人間達の争いは、我らエルダールの関知するところではございません。ですが、北方の最果て、『アングマアル』より降臨された魔道卿は、エルダールに寒土で生きる術をお与えくださいました。深い敬意と、変わらぬ忠誠を捧げます」
長老はヤシンに深く頭を下げる。
「長老さま。それは、僕の遠い先祖の王さまがやった事だよ。僕は国から追われた、ただの子供。そんな風にされたら困るよ」
ヤシンは困り顔で長老に訴える。
「……先の事は賢者すら見通せぬもの。すでに兆候が認められますれば、尚更でございます」
「???」
長老の物言いは、ヤシンを始め他の者には理解できなかったが、ただミールだけは、沈痛な面持ちで、長老の言葉を聞いていた。
「さて、着いたようですぞ、灯台塔に」
左右が切立った崖の岬の突端に、黒光りする基礎とその上に白い煉瓦が積み上げられた塔が建っている。
「大きい! 高い! 王宮の尖塔より高いよ!」
「黒い石の基礎部分だけでも、王都の大聖堂をより大きいですなぁ。それにこの石、傷がない。この黒い石はなんなのでしょうかのう?」
ヤシンとカロンは、はしゃぎながらペタペタと石壁をさわる。
「この石は『冥府の黒曜石』と呼ばれています。この石壁は、いかなる刃や破城槌でも、傷つけることは出来ません。さあ、入り口へご案内いたします。こちらへ」
長老に促され、一行は海側に面している入り口へ向かった。
「霧が晴れた日は、ここから対岸『北之島』の灯台塔が見えます。夜になると灯りが点りますが、両対の灯台塔の灯りは、年々弱まり、『竜との契約』はその効力を失いつつあります」
長老が指差す先には、薄い霧の立ち込める海が広がる。
眼下に波はうねり、鉛色の塊となって崖に当たり砕けている。
「竜との契約とはなんですかな?」
目を輝かせ、灯台基部のあちこちを調べては、うろついているカロンが長老の言葉を耳に留め、聞き返した。
「今の王国には伝わっておりませんか? ミール様」
長老の問いにミールは首を振る。
「王の血統の衰微と共に、言い伝えは寓話や伝奇となりました」
ミールの答に長老は悲しげに瞑目した。
「では、塔を登りながら語ると致しましょう。魔道王と海竜との契約について」
長老が低い小声で呪文を唱えると、塔の扉は音もなく開いた。
振り返り一同を見渡した長老は、塔の中へと手招きをした。
「極北の『アングマアル』。
下って『エリアドオル』。
今は無き『アルノオル』。
魔道王の『ゴンドオル』。
南帝国の『ウンバアル』。
南北に連なる大陸と大陸。
東の大海と西の大海とを繋ぐ海の道は、この海峡しかありません。
海の竜達は大海では散らばって暮らしていても、西と東を行き来するためにはここを通らなければなりません。
海峡の両岸を照らす灯台を、何より喜んだのは海竜達でした」
迷路のような灯台基部の内部を進み、優雅な螺旋階段の昇り口まで進んだ一行は、ミールを抱え通しで、息の上がったディロンを休ませるために、そこで休憩を取ることにした。
「エリアドオルの民、エルダールを鎮撫し、海峡に灯台塔を建てた魔道王は、其処で、東の海の竜宮へと行幸する、西の竜王と会合されたのです。
竜王は海の旅の標となる灯りを、殊の外喜び、魔道王に謝辞を述べ、今後の王の治世を言祝ぎました。
魔道王は、灯台塔の灯りを絶やさず、海竜達の目印となるようにすることを誓い、
竜王は魔道王の赴くゴンドオルの沿岸に、海竜を多数住まわせ、魔道王に仇なす敵の船を尽く沈める事を誓いました。
これらの誓いは今も守られております。
少なくとも海竜は守り続けております」
「ウンバアルとゴンドオルの戦は過去何度もありましたが、海戦では一度も負けたことはあらなんだ。『ウンバアルの赤鬼共の戦舟は勝手に沈む泥の船』とは、王都の童歌にもなっとりますじゃ」
カロンは興奮ぎみに長老と話を続けている。
螺旋階段の二段目に腰かけたディロンはミールに汗を拭いてもらっている。
「申し訳ございません、ディロン様。重かったでしょう」
「い、いえ、なんともないっす……全然余裕っす」
ディロンはぎこちなく答える。
直後自分の頬を激しく手で叩き、小声で「グレタ様」と呟いた。
「ヤシン様、お見受けしたところ、お元気そうですね」
「そうなんだよ! なんかここ一年の苦しさが嘘のようさ! 特にこの塔に入ってから、体が軽いんだ! 今なら天頂まで階段を駆け上がれるよ! ミールを抱っこしてもね」
弾けるような笑顔でヤシンはそう言った。
「それは何より。魔力の回路が整われたようですね。さあ、階段は長いですが急ではありません。皆様、ご自分の早さで昇ってください」
「カロン! 今度は僕が手を引いてあげるよ。ミールとディロンはゆっくりおいで」
そう言うとヤシンはカロンの手を引き、螺旋階段に足をかけた。