越冬 ⅩⅩⅩⅤ
北之島の夜が明けようとしていた。
灯台ヶ森は盛大に火焔を巻き上げ、地上は熱風吹きすさぶ地獄のようだった。
火に照らされて、辺りは明るかったが、暗かった空にも微かな朝の予兆のようなものが現れた。
そのまま少しずつ明るくなるのが常であるが、今、時を早送りしたかのように、真昼の眩しさが唐突に顕現する。
雲が割れて、そこから細長い太陽のような光の帯が降ってきた。
「アルティン・ティータ……」
ククーシカは再びその名を呼ぶ。
落下する帯の中程で、三対の団扇のような翼が拡げられる。
四肢を伸ばし、うねりながら、飛行を始める帯は、翼のある蛇のようだった。
「アルティン・ティータ様ぁ!」
いまだ地を這う飛竜達が、口々に天龍の名を呼ぶ。
幼子が母の名を呼ぶように。
「ん! ん! ん!」
ククーシカが両手を天に向けて広げる。
地上に近付き、眩しい光の帯の全容が明らかになる。
天を流れる光の大河のような長い体。
四本の角を有し、六枚の翼を持つ龍。
天龍のアルティン・ティータは、焼野原の荒れ丘に集う者達を目掛けてゆるゆると降下を続けた。
空から鈴の音のような音が聞こえる。
地上すれすれで天龍の体は縮み、人の姿を形作る。
陽光をそのまま変化させたかのような、自光する髪。
枝分かれする一対の角。
彼女は、飛竜を除いた一同の中で一番背の高かった。
上エルダールのカラリオンより、さらに頭一つ抜きん出て長身だった。
荒れ果てた地面は、彼女の着地と同時に起こった、柔らかい風が吹き通ると、急に光の草花が芽吹き、それらは見る間に成長した。
風はそのまま広がり、燃え盛る木々の火焔を吹き消し、あれほど辺りに蔓延していた火災も煙も、始めから無かったかのように消え、焼けただれた地面は光に覆われた。
森には夜明け前の闇が戻っていたが、アルティン・ティータの草原は発光し、周囲を照らしていた。
「アルティン・ティーター!! うわわわわわーーん!!」
ククーシカはよろめきながら走りだし、黄金色の草原を渡ると、アルティン・ティータの元にたどり着いた。
アルティン・ティータは、ククーシカを抱き上げ胸元に引き寄せた。
「ククーシカ……」
鈴が鳴り響くような小さいがよく響く声で、アルティン・ティータが名を呼ぶと、その音声は、花弁を撒き散らす春風のように吹き渡っていった。
まるで妊婦が着るような、緩やかな夜衣をまとい、ククーシカを抱くアルティン・ティータは、母性の象徴のように皆の目には写った。
「ゾファー王子は優しくしてくれているようですね。シル・パランを通して見ていました」
優しげな声でククーシカにそう語りかけたアルティン・ティータは、一転冷ややかな表情になり、いまだ地面に伏す魔王へと視線を落とす。
「御前様……」
アルティン・ティータが呼び掛けると、伏した魔王の背中がビクンと、躍動する。
「い、いやあ、ティータ。戻ってきたの? そういう算段だったっけ? なにか忘れ物かな? ……ひい!!」
「御前様、魔力に酔いましたね。それが『魔に魅入られる』と云うことです」
魔王の体は実体の無い幻影のようなものだった。
アルティン・ティータの緩やかな装束の裾から、鱗で覆われた三本目の龍の腕が生え、恐ろしい速やかさで魔王をつまみ上げると、引き寄せた。
「各々の器に各々の神酒は注がれます。器が満ちれば、後は零れ落ちるだけ……。魔力を求め、世界をさ迷い歩いた御前様が判らぬ道理ではありますまいに……」
龍の腕に吊し上げられた魔王は、背中を丸めて縮こまり、そのままアルティン・ティータの目の前まで運ばれた。
「……魔道王などと呼ばれてはいたが、君の魔力を借りなければ、手品程度の魔術しか出来なかった私が……。一度は自分の魔力で飛び回ってみたかったんだ……」
唇を尖らせて、抗議めいたことを言おうとした魔王であったが、思い直し、自嘲気味に言葉を続けた。
「……結局、魔力を借りていることには、かわりないか……。でも、ああ、満足だ。今度こそ満足した。では、行こうかティータ」
魔王の体は実体が無いが、その幻影のような姿はさらに霧散し、アルティン・ティータの龍の腕に吸い込まれてゆく。
「ああ、ククーシカ。そういえば、息子には伝えてくれたかい?」
薄れ始めた魔王が、ククーシカに問う。
「え? 何を?」
アルティン・ティータに抱かれたまま、ククーシカはキョトンと聞き返す。
「井に逢えば此を寿ぎ、大樹に逢えば此を抱き、川に逢えばその源流を見出だせ……と」
「???」
「なんだい、たった数日前に言伝てを頼んだでしょ?」
「おー……、???」
「加えて息子に伝えてくれ。
我は行く。
狂える神々を排斥し、
アルティン・ティータを神とするために。
お前は留まり、
大地と、大地に生きるすべての生命に、
天地創生の魔力を還すのだ。
竜を救う者がいるとするならば、
お前を於て他にはない。
竜を滅ぼし、
竜を救え。
辿々《たどたど》しく歪な竜の道を、
手繰り寄せ、
折り畳ね……、
その流れの涌出たる源と、
母成る大海に注く河口とを結び……」
魔王の体はいよいよ薄れ、霧のように覚束無くなった。
──円環へと繋ぐのだ…………。
「じ、自分で言えばいいのに!」
魔王は霧散し、アルティン・ティータは留まった。
「羨ましいのよ……。あの人こそがその役目を担うはずだったのだから……」
ククーシカの呟きに、アルティン・ティータは答える。
「アルティン・ティータはん……」
25号の頭に乗った九頭龍ダリオスがおずおずと声をかける。
「あら、海底公。お久しぶりです」
「こっちは時々、あんさんの寝顔見ぃにオーマの街には何度か出向いとったんやけどなぁ……」
ダリオスは言葉を続けようとしたが、近付く蹄の音に遮られた。
「お坊っちゃま!!」
疾駆する巨馬、飛影の背に二人の女性が乗っている。
「……? 古いミールと新しいミールが連れだって来よった」
飛影はアルティン・ティータの目の前まで進み出るが、ミールはその途中で鞍から飛び降り、地面に倒れているヤシンヘ駆け寄る。
「ああ! なんという……」
地面に伏すヤシンを抱え起こし、眼球をくり抜かれた眼窩の傷を認めると
悲鳴のような声をあげ、治癒の魔法を発動した。
「おお、アルティン・ティータ様。そのお美しい顔を再び目にすることが出来るとは、光栄の極み……」
感嘆の言葉とは裏腹に、さしたる感慨も無さげなビショップがアルティン・ティータに臣下の礼をする。
「……あなたは、灯台守のビショップですね」
「お目汚し失礼。先日の戦いで体が大破し、今はこのような浅ましい姿になりさらばえまして……」
ビショップは手に持つ煙管から一息吸い、煙を『ぷかあ』と吐き出した。
「その体は私の姿を模して作られています。つまりは私が浅ましいと?」
たおやかな笑みでアルティン・ティータが問うと、ビショップは目を丸くし眉を上げ、『それがどうかしましたか?』とでも言いたげな表情を作った。
アルティン・ティータが口を開こうとしたとき、ビショップの背後から二体の機械騎士、カルンドゥームとカルディアシデロスがビショップの腕を取り、後ろに捻り上げた。
「ふぐっ! どうした機械騎士? 私は見ての通りか弱い女中ぞ! お前達は魔道王陛下より、魔力や立派な体を賜ったのであろう? そう殺気立つな! 『敵にをも慈悲の心を、謂わんや女中をや』ではないか?!」
痛みに顔を歪め、機械騎士に引きずられるようにして、ビショップはアルティン・ティータの面前から離された。
引かれながらもビショップはもがき、叫び声を上げる。
「魔道王の花嫁の顔を見よ、愚鈍な機械騎士共! お前達も魔道王の臣下ではないのか?! 我が主を殺し賜った龍に、龍と云うだけで頭を垂れるのか?! ポーン! ナイト! もう一度云う! 魔道王の花嫁の顔を見よ!! 愛しの人を奪われ、今は更に愛しの子も奪われんとしている、ミール様の顔を見よと言っているのだ!!」
「ビショップ!!」
ヤシンを抱いたミールが絶叫する。
「……ビショップ。それにポーンとナイトも。下がりなさい」
ミールは気を失ったままのヤシンを抱いたまま、アルティン・ティータの前に進み出る。
「ミール様……」
今までの傲岸な表情は消え、気遣わしげな表情でビショップはミールに声をかける。
「ありがとうビショップ」
すれ違いざま、ミールはビショップの頬にそっと手を添える。
すぐさまビショップは、そのミールの手に、機械ではない方の手を添えたが、二人が離れる際、その手は解けてしまった。