越冬 ⅩⅩⅩⅢ
『ひゅーーーー、』
『ひゅーーーー、』
『ひゅーーーー、』
老人の口からは苦しげな途切れ途切れの呼吸音が聞こえる。
時々痰がからむのか、『ゴロゴロ』喉が鳴り、意識のないままに、老人は苦悶の表情をする。
ベッドに横臥する老人の左右には、髪型以外は瓜二つの少女が、椅子に腰掛けて見守っている。
『ズズズズ……』
右側の少女が老人の顔を覗き込み、枕元にあった盆に置かれた、柔らかい筒のようなものを取り出し、その一方を口で咥えるともう一方を老人の口のなかに差し入れ、彼の痰を吸い上げた。
ここは、北の灯台塔の地下に広がる町の中、ゴンドオル王兄に従って北行を共にした家臣達が使う宿舎の一室。
死の床についている、年老いた馬丁を、『方舟の姉妹』が看取っているところである。
少女は口に溜まった老人の痰を、壺の中に静かに吐き出し、老人の口を清浄な布で拭う。
もう一人の少女は盆にあった水差しで、老人の口を湿らせていた。
「お姉さま。エルダラン様は……」
水差しを置いて、少女は問う。
「……」
『お姉さま』と呼ばれた少女、『5号』は、フルフルと首を振った。
「もう、後は、安らかに……。苦しくないように。眠らせてあげましょう……」
問い掛けた少女の瞳の端で、涙の粒が成長する。
「8号……。これで良いのよ。エダインの、人の一生とは……、」
そこまで言って、5号は言葉を切った。
控えめなノックの音の後、魔道王の花嫁ミールが入室した。
「…………大姉様、」
ナイトガウンをまとい、貴婦人のような出で立ちのミール。
彼女はつい先日まで、ここにいる二人の少女と同じ姿をしていた。
魔道王の術で、少女人形から、人と変わらぬ今の体に魂を移されたのだ。
「……」
5号と8号。
二人の顔を順に見詰め、その後老人に視線を落とす。
5号が席を譲ると、ミールはそこに腰掛け、老人の手を取る。
その時、老人は目を開いた。
パッチリと、眠くないのに床に入れられた子供のように。
事実老人は少年のようだった。深いシワが刻まれ、シミの浮いた肌、髪は抜け、その顔は長年の労苦に苛まれていたが、目はキョロキョロと動き回り、好奇心に満ち、この世の秘密の全てを知りたがっているように、期待をしながら輝いていた。
「母様、馬をみたよ」
5号と8号は驚きの表情を浮かべる。
今、正に死なんとしている老人が、かすれ声でうわ言を言うばかりだった老人が、ハッキリと少年のような通る声で話しだしたのだ。
「カヤンヤック。何処に行っていたの?」
ミールはベッドに腰掛けて老人の上半身をそっと抱き上げ、彼の頭を自分の胸に安らわせた。
「カヤンヤック。どこで馬を見たの?」
子に言い聞かせる母のように、優しげにミールは語りかける。
「龍神池に、石を投げてね、」
「まあ、ダメじゃない、」
「そしたらね、お池にしぶきが上がってね、僕、ずぶ濡れになったんだ。だからお池の裏の林を抜けてね、風に当たろうと草原に出たんだ。大きな馬だった! たてがみが焚き火みたいにゆらゆら燃えててね! たくさんの馬を引き連れていた。そして馬達はね、一斉に立ち止まって僕をみたんだ!!」
老人の言葉は支離滅裂であったが、その声はハッキリとして喜ばしげであった。
「すごかったなあ。あれはきっと王様の馬だよ。いや、馬の王様なのかも……」
目を輝かせミールを見詰めながら、カヤンヤックと呼ばれた老人は、ミールと話している。
その様子を見ながら、5号と8号は小声で言葉を交わす。
「大姉様、凄いわ、手を取っただけで回復なさるなんて!」
8号は驚きの表情でそう言ったが、5号は悲しげに首を振った。
「いいえ8号。大姉様は、ただ手を取られただけ。今は、臨終の時。灯火が、その最後に一層燃え上がるように、暗い暗い所に赴く人を照すように、命がほんの一時の猶予を与えたのです」
8号は立ち上がり、部屋を出ようとする。
「でも、元気があるうちに、なにか食べ物を、」
その言葉にも5号は首を振る。
「いいえ、8号。彼の言葉を聞きましょう。彼の人生は完結するのです。今は最後の思いを伝えるために、与えられた時間です」
ミールがベッドに腰掛けたので空いた席に5号は再び座り、寝具からはみ出していた老人の手をとって脈を計った。
「母様、お外に行きたいな……、…………大きな馬が……、また、……見れるかも……」
少年、カヤンヤックの声は唐突に老化し、最後の言葉は、しわがれた呻き声のようになって消えていった。
老人は昏睡する。
後はただ、なお一層苦しげな呼吸音がするばかりだった。
「……孤児だったこの子と、離宮で過ごした頃を、思い出したのでしょう。……辛かったろうに、なのに、ここまでついて来て……」
ミールは老人をそっと抱き上げた。
「さあ、母と外を見に行きましょう。あなたの好きなお馬が、きっと、……待っているわよ」
5号と8号は、扉を開き先導する。
シーツごと老人を抱えたミールは、静かに静かに歩く。
建物を出て、魔法の明かりのともる地下の町通りを行くと、北行を共にした人達が窓から顔を出し、老人を見送った。
ミール達とすれ違う護衛兵は、道を空け、胸に手を当てて哀悼の意を示した。
緩やかな石畳の坂道を降りきったミール達は、港の先の船泊に行き着いた。
先日ヤシン王兄一行を北之島に渡した方舟が、桟橋に係留されている。
その桟橋に大きな馬が佇んでいた。
馬は今、海から上がってきたばかりのように四足を海水に濡らしていた。
その背には、雨傘をさして大きな煙管でタバコ草を燻らせる、メイド姿の少女が片側に両足を揃えて騎乗していた。
少女の片目は黒い眼帯で、片腕は厳つい甲冑のような機械仕掛けだった。
「ビショップ……」
ミールは少女に呼び掛ける。
「魔道王の花嫁様。陸王様をお連れしました。世界創造の時、大海より大地が建ち上りし頃より住まう陸地を歩く者達の主。その性、酷にして、無慈悲。対峙して敵う者無し。比肩する者無し……」
馬上の少女は吸い込んだ煙と共に、さして感情も感傷も感慨も無い様子で、切り口上を宣る。
「我ら、南に赴き、北進するウンバアル軍を膺懲する予定でした。ですが……、」
ここで『ビショップ』と呼ばれた少女は、ぷかぁ、と、煙を吐き出し、「いやね、人の姿になったら、この、煙草ってのを吸ってみたくてね」などと言い訳じみたことを言った。
「ビショップ……、それは、元々私の体です。後生ですから余り燻蒸しないで下さい」
ミールは少し嫌そうな顔をしてそんなことを言った。
「……我ら、南に赴く算段でしたが、陸王様が北之島に『残念』が有ると申されまして……」
ミールの苦言を無視し、ビショップは雨傘を畳むと、甲冑のような手で自らが乗る馬の首もとを撫でた。
「……私も、貴方ならこの場に立ち会うのではないかと思いました、……私、あなたを少し見直しました」
老人を抱いたまま、ミールは少し微笑んだ。
その笑みは馬上のビショップではなくて、『彼』の乗る馬の方に向けられている。
ビショップはヒラリと馬から降り、ミールに対し改めてわざとらしいカーテシーをして、5号と8号の後ろに並んだ。
彼女の膝から下が両足とも機械仕掛けで、『ガシャン、ガシャン』と音を立てた。
ミールは辺りを見渡し、海風の余り吹き込まない場所を選び、老人をそっと地面に横たえた。
「カヤンヤック。飛影が来ましたよ」
老人の耳元でミールはが囁く。
老人の目が開き、視線はしばらく宙をさ迷っていた。
ビショップを乗せていた大きな馬、飛影が、カツカツと蹄を響かせて老人に歩み寄る。
『……!!』
視線の先に飛影を見留めた老人の目が大きく見開かれる。
そしてその目には歓喜の涙が溢れ、その潤いの中で、瞳の光は徐々に力を失っていった。
孤児だった彼をミールが引き取った。
ヤシンがまだ淵に潜む龍だった頃、ミールとカヤンヤックは親子として離宮で過ごしていた。
少年時代、草原に遊ぶ、馬の姿をした地龍『陸王』見て、彼の姿を追い馬丁となった。
ミールが少女の面影を留めたまま、老いてゆく自分に絶望し、距離をおいた晩年。
王位継承の政変に巻き込まれ、壊れかかったミールの元に駆け付け、絶望的な北行を敢行する頃には、彼は病んでいた。
それでも彼は、飛影を愛し、ミールを愛し、ここまで辿り着いたのだ。
再び飛影が現れたことにより、カヤンヤックの人生が完成し、彼は旅立ちの秋を迎えたのだ。
「……よく頑張りました」
老人の呼吸が途切れ途切れになり、遂に息を吐き出した後、吸い込むことを諦めるまで、ミールは彼を抱き締めたまましばらく待っていた。
飛影はその様子を見詰めている。
「……人間よ、地龍の名に於いて今問おう」
ビショップが飛影の首元まで進み出て、馬の頭に頬を寄せ、ミールと老人を見下ろして言挙げする。
それは、飛影の言葉を代弁しているかのように、爛々と光る大馬の視線と同調していた。
「……!! 陸王様!」
ミールは半ばの期待と半ばの不安が綯交ぜの表情で、飛影を見上げる。
「許可を求めよう、そして問おう」
『我に喰われるか否か?』
ビショップはそう告げると、後はツンとすました表情でメイド達の列に戻った。
5号と8号が驚いてビショップを見詰める。
「ビショップ様!」
「陸王様がそう思し召されました。これは、そこの老人と陸王様の、龍に関わる事柄ゆえ、我らは口出しできますまい」
冷ややかな表情で5号と8号にそう告げると、ビショップは視線を老人と馬に戻した。
「……!」
一瞬、
失われたと思っていた老人の瞳の光が、戻ってきた。
力を込めた視線が、ゴンドオルで『飛影』と呼ばれ、馬の姿に身を窶した地龍『陸王』に届き……、
その瞬間、ひとつの契約がなされた。




