越冬 ⅩⅩⅩⅠ
南に広がるエダインの国々がある大陸と、北之島の間。
後にエダインの世界の北限を指すことになる海竜の通り路。
海峡は今夜も波が高かった。
北之島の南端、キコナイン沿岸の海域には深い霧が立ち込め、深淵人の幾人かは、その霧の中に恐ろしく巨大な船と、それに付き従う小舟の群れを見たと訴える者もいた。
海峡にはキコナインの岸を縁取る岩の他にも、潮の満ち引きで現れる、礁や瀬がいたる所にあり、エダインは無論、沿岸に住まう上のエルダールすら、波の穏やかな日中しか船を出さない。
海竜の水先案内がある方舟だけが、渡ることができる。
海峡のほぼ中央、岩礁の塊、岩の小島に深淵人の集落がある。
海竜の眷属として、その呼び出しにすぐに応じるべく、彼らは常に海にいた。
海竜に従い相反した彼らは、ゾンダークの死後、魔道王に許され、この島に帰ってきた。
深淵人達は早速、魔道王より承った海峡の監視を始める。
とはいっても、元より海峡は彼ら深淵人のテリトリーなので、パトロールなどをするわけではなく、定期的に各支族長が族長キナポに報告をあげることと、渡海者を発見した時は、『通信』を送ることを決めた。
『通信』とは、彼ら深淵人が遠くの者と連絡をとる際に使う手段で、水中で響く音を発し、それを聞いた者が同じ音を発し、素早く伝達することで、地上の狼煙のように素早く知らせを送ることができる技である。
キナポとそのような取り決めを行うと、支族長はそれぞれの海域に帰っていった。
昆布をかじりながら、大人達の会話を盗み見していた子供達の頭を撫で、キナポは一つ気泡を吐いた。
海竜の内乱、エダインの渡海、魔道王の帰還、キコナインに現れた霧と船……。
問題は山積ではあるが、明日を迎えることはできる。
願わくば、これ以上の厄介事は起きないでほしい。
そのようなキナポの願いも虚しく、早速取り決めをした連絡網を使って急報が入った。
「大きな、角の無い鹿に乗った、魔道王の人形と、獣の群れが、オーマからキコナインを目指して、泳いでいた?」
「誰が誰何した?」
「南の灯台塔で、エダインと街の火消しをしていた者です」
「それで何と?」
「魔道王に届け物があるので北の灯台塔へゆくと……昨日のことでございます」
魔道王の元へ行くのであれば、報せは不要と思えたが、仕事を疎かにしていない証しとして、キコナインへ使いを出すべく、キナポは泳ぎの達者な若者を呼ぼうとした。
しかし、渡海者の知らせから幾ばくも間を開けず、キコナインの異変を告げる報告が入った。
「霧が晴れた後、キコナインの浜へ上がった者が、旧市街を訪ねたところ、上エルダールの家々はどれももぬけの殻だった」
「……、ならば、キコナインの東、北の灯台塔へ赴くのだ」
しかし、先程の人形が、昨日、灯台塔へ向かっていたならば、既にたどり着いている可能性が高い。
「そこに魔道王がいたならば、遅れを詫びて知らせを伝えよ……」
船ならいざ知らず、泳ぎ渡る者の取り締まりは難しい。
キナポは、急を要する報せは自分の判断を待たず、すぐに魔道王へ知らせるように改め、各支族に伝えようと心に決めた。
北之島。
灯台ヶ森。
人の形をした炎、カルディアシデロスは魔王と対峙する。
「魔王アングバンド。貴方はミール様のお心を勘案されたことはおありか?」
『人形魔道兵ポーン』の、先ほどまでの無機質な歯車の軋み音のような声ではない。
『カルディアシデロス』の声は、怒りを押し殺し、心の内の焔を押し止め、歯軋りと共に絞り出すようなものだった。
「天龍アルティン・ティータ様の身代わりとして生まれ、あなた様が密かに器を入れ換えるために用意した御子の卵を守り、一人ゴンドオルで戦い続け、政変の折には、その身を引き裂かれても御子を守り抜いたミール様の事を……」
一歩一歩、魔王に歩み寄るカルディアシデロス。
彼の背後では飛竜達が腹這い、そのさらに後ろには、異変に気づき引き返してきたダリオスをはじめとした魔道王の臣下や食客が合流する。
「ああ、だからこうして今、私は新しい体を手に入れ、新しい力を手に入れることができた。私の願いは彼女により正しく叶えられたのだ。感謝しているよ」
魔王は満面の笑顔で答える。
カルディアシデロスの片腕には焔の鞭が握られている。彼自身を焼き苛んでいた焔が手の先に集まり、それを形作っていた。
「アルティン・ティータ様の願いも、踏みにじるというとですか?!」
カルディアシデロスの背中から背光のように焔が吹き上がり、それは筒を持つ短い腕のような形になった。
その四本の筒を魔王に向けると、筒の先からは光線が吹き出した。
「!!! 魔道砲か?」
魔王は飛翔の魔法を発動させ回避しようとしたが、光線は魔王を追尾してネジ曲がり、魔王に命中した。
更に彼は焔の鞭を振るい魔王の足に絡めると、それを渾身の力で引いた。
光線は照射されたままである。
魔王は光線を防御魔方陣で防いでいたので、焔の鞭への反応が遅れ、避けきれず鞭に拘束されて地面に叩き落とされた。
「ぎゃ! 痛い!」
地面に突っ伏していた魔王は、顔をさすりながら起きると、埃を払うとカルディアシデロスを睨み付けた。
そして、『深淵の窓』を展開し、カルディアシデロスの光線を防ぎながら立ち上がる。
「カルディアシデロス!! どういうつもりだ?! 私が防御しなければ、息子が死んでしまうではないか!! お前の使命は、……私に逆らってまで果たそうとしている使命はなんだ? この体。我が子ヤシン・ソルヴェイグの体を私から奪回したいのであろう?」
大げさに痛がり、笑いながら魔王はカルディアシデロスをからかう。
「飛竜も後ろの者達も聞くがよい!! 私は、お前達をここまで導いた。私はお前達を謀っていたのだ。極北の地にあるとお前達が信じるアングマアル。しかし、ここより遥か北、オヤルルの地にあるのは、アングマアルではない」
めり込んだ穴からカルンドゥームが這い出してくる。
魔王は言葉を続ける。
「彼の地にあるのは只の入り口だ。アングマアルとこの地を繋ぐ唯一つの門。如何様な魔術を用いても生ける者を通すことの無い『絶断の路』。……我只一人が、魂を保ったまま、その路を通り抜け、この地までたどり着く事が出来た。我はアングマアルより遣わされた尖兵だ。機械兵を組織し、この世界を席巻し、四神の戦いを北方神の勝利に導くべくこの地に来たのだ! オヤルルの地には私がこの世界に訪れ最初に作った工房がある。機械兵を生産するためのプラントだ」
ここにいる全員が魔王の言葉に耳を傾けている。
そのなかには下エルダールのモレヤもいた。
「モレヤ。討つべき獣は定まったか?」
『!?!』
彼女の至近、耳元で話しかけられ、モレヤは飛び上がるくらい驚いた。
彼の後ろには、狩人ヤイチャロイキが立っている。
その手には鋼鉄で出来た槍が握られていた。
「神弓……」
モレヤが呟く。
「この『神弓』を譲り受けるとき、疾風公グフゥは言った」
『この地に後、民を脅かす暴悪が立ち現れた時、この神弓にて悪の真髄を射抜くべし』
「審判者モレヤよ。悪は定まったか?」
他の者は皆、魔王の口上に気を取られ、ヤイチャロイキが現れたことに気づいていない。
「ヤイチャロイキ、魔王を撃って」
モレヤの言葉に、狩人は槍を持ち直し、中程を掴んで弓のように構えた。
「して、悪の真髄は何処ぞ?」
「…………」
彼の問いに、モレヤは視線を魔王に向ける。
「……もう少し待って、」
彼女はそう言うと目を細め魔王を注視した。
モレヤの見詰める先、魔王の語りは続く。
「……私が彼女に会ったのも、そのオヤルルの地での事だった。彼女は龍の姿で私の前に現れ、私をその大きな前足で掴んで拐い、大空に舞い上がりると、そのまま世界を廻り、その営みを私に見せて回った。私は驚いたのだ。アングマアルの地から這い出でて、この世界を攻め滅ぼすことしか考えていなかった私には、時に戦い、時に和し、命を育み、文明を興し、混じり、分かち、……たいして力はないものの、大地に根付き生きて行く人々の生きざまを目の当たりにして。そして、この、棋戦の前の、駒を並べるような世界が、永く続くことを切に願う天龍がいることに……。そう、この世界は、争い、滅ぼし合う定めの遊戯。その裁定者であるはずの天龍アルティン・ティータは、この世界に反逆を企でていたのだ」
魔王の瞳。
片方はオーマの灯台塔で王兄ヤシンがシル・パランに触れた時に龍の目へと変化している。
もう片方は人と変わらない目。
その人の目に理性の光と慈愛の輝きが一時戻るのを、モレヤは見逃さなかった。
「悪の真髄が定まった」
モレヤが声をあげたのはその時だった。