海峡 Ⅴ
背の高い樹は次第に疎らになり、棘の多いハマナスや、既に黄色くなった薄が目立ち始めてきた。
その先では、とうとう緩やかな下坂が始まり、薄の原の先に、鈍色の海が見えてきた時には、誰からともなく歓声が上がった。
王都を夏の終わりに出立し、今はもう辺りは冬の始まりの景色である。
王兄ヤシンの一行は、王国の北を縦断し、とうとう海が見えるところまでたどり着いたのだ。
海を発見し、喜びを噛み締めているヤシンと、グレタの家臣やその家族達から離れ、護衛兵達は一塊になって休憩をとっている。
その護衛兵からも少し離れ、見晴らしの良い坂道の上に、黒い軍馬に跨がった灰銀のダイモンが、若武者ディロンと二人で、残りの道程を見下ろしていた。
「お前達の言いたいことは解っている。王兄に、と云うかグレタについて行きたいと言うのであろう」
護衛兵を代表してディロンはダイモンと話している。その成り行きを護衛兵達は心配げに見守っていた。
「お頭。初めは隊を抜けて、俺一人で行こうと思ったんだ。だけど他の奴等の話を聞いたら、みんなおんなじ事考えていたらしい。だからコレは隊の奴等の総意だ。姫様がいるから、ヤシン様がいるからとかだけじゃない。あいつらだけを行かせるなんて、冗談じゃない! 男じゃない!」
海を見ながらディロンは語る。
「俺が主君から請け負った仕事の内容は話してあったな」
ダイモンも視線を海に向けながら話す。
「知ってるさ。俺達はあんたの部下になって悪事を働くように雇われたんだ。でも、それがどうしたって言うんだ?」
「報酬はなし。それどころか、ゴンドオル以南お前は追われる身となるぞ」
「……あんたじゃないか! 自分の直属の部下八人を殺ったのは。その後は王兄の騎士のようににらみを効かせて、俺達のような、南方領主達に金で集められたゴロツキから、王兄達を守り続けた。あの時、俺はあんたがイカれたと思ったよ。正気の沙汰とは思えなかったんだ。もう今さらだぜ、今さら王兄と姫を殺しても、あんたはニコラウスに殺される」
「…………」
「俺は信じている。あんたが俺達と同じように、あの方達の事が何より大事になったんだって! あんたが一番、それを俺たちの目の前でやって見せたんだから!! あんたがあの方達に剣を向けたら、俺は躊躇しねえ! 俺は俺の居場所を見つけたんだ! 例え来年の春を拝めずに、あいつらと北之島で凍りついたっていい! あいつらが難儀している時に、俺がそばにいないなんて、我慢できる訳ねぇだろ……」
ディロンは絞り出すようにそう言うと、ダイモンに挑みかかるように睨み付けた。
「お前達がどうしようが、兎や角は言わん。好きにしろ」
「お頭!」
ディロンの表情が明るくなり、安心したように笑みを浮かべる。
「だがな。……だが、俺はこの先には行かない。お前達がそうなら、お前達とは此処までだ」
「お頭!!」
「ディロン。悪いがグレタとミール殿を呼んでくれ。ヤシン様には気取られぬように。それとこの辺りの人払いを」
「お頭…」
「早くしろ!」
「……」
「今日は良い日だな……」
ヤシンの馬車へ駆けて行く、ディロンの後ろ姿を目で追いながら、ダイモンは呟いた。
可愛らしい爪草の原にミールは座っている。
ミールはディロンに抱き抱えられ、ここまで運ばれてきた。
ミールの傍らにはグレタが座り、二人は白爪草の冠を作りはじめた。
「どうしたの? ダイモン。怖い顔して突っ立って。用があるんでしょ?」
グレタは、出来た冠をミールに被せながら問う。その後少し思案を巡らせてポンと手を打つ。
「やっぱりあたしお邪魔だったじゃないの? 本当はミールとだけお話がしたいんじゃなくって? とうとうダイモンも勇気を振り絞る時が来たのね」
「……」
「ダイモン?」
軽口に反応しないダイモン。
グレタは心配げに声をかける。
「殺せ」
短くダイモンは言う。
「俺はニコラウス宰相の配下。王兄ヤシンと北領姫グレタの暗殺が宰相より与えられた任務だ。俺を殺せ」
ダイモンは剣を抜く。
「まずはグレタを狙う。ミール殿! 俺を止めねば彼女もヤシン王兄も死ぬぞ!!」
ダイモンはヤシンに駆け寄る。
グレタは突然のことで、驚き、一歩も動けない。
ミールは一瞬悲しそうな顔をして、座ったまま動かず、目を伏せた。
「お頭ぁ!!」
グレタとミールの後ろに控え、十分警戒していたディロンは、剣を抜き一切の躊躇なくダイモンを袈裟に切った。
「え?」
切って驚くディロン。
ダイモンはいつの間にか、常に身に付けていた灰銀の鎧を、脱いでいた。
「ぐぼっ!」
ダイモンはミールの足元に突っ伏す。
爪草がみるみる血に染まってゆく。
「あああ! ダイモン!」
グレタが叫び声をあげる。
「ミール殿……、ミール! ぐぐ、」
ダイモンはうつ伏せのままミールの名を呼ぶ。
「すいません。グレタ様……」
ミールはそう言うと、ダイモンの元まで這いずり、彼を抱き起こす。
「いけませんな、……ミール殿。何時刺客が現れるやも、あの時のように。冷酷にならねば……。裏切り、寝帰り、騙し討ち……、ぐぐ」
痛みに呻きながら、ダイモンは切れ切れに言葉を続ける。
「ミール殿。離宮での戦い……お家騒動の折り、ヤシン様の離宮を襲ったのは私でございます。あなたはヤシン様の部屋の前で、60人の私の部下と一人で戦い、私がヤシン様を人質に捕るまで、52人を討ち倒しました」
「ダイモンがあの『離宮の惨劇』の指揮官『銀の鎧武者』だったの?!」
グレタの顔にみるみる血がのぼってゆく。
「では! では、お前がミールを、ミールを! 今の今まで気付かないなんて、あたしがバカだった! ダイモン! どの面下げてミールの前に現れた!! あんたがやったんだろう! ミールの腕や足を引き抜き、体をズタズタにしたのはお前だ!!」
グレタは鬼の形相で自分の突剣を抜き放つ。
「グレタ様!」
「!?」
ミールが大声でグレタを制する。
「良いのですグレタ様……。旅のはじめから存じておりました」
心配げにグレタを一瞥した後、ミールは言った。
「!! まさか…」
ミールの言葉に驚くダイモン。
「あの戦いの後、降伏した私を、生き残った貴方の部下八人が凌辱しました。私は手と足を引き抜かれ、服を切り裂かれました。私が殿方を喜ばせるような体ではないことを知った兵士達は、私の体に剣で切れ込みを入れて、その用を為そうとしました。その後私は、足を貴方の馬の鞍壺に結え付けられ、王宮まで引きずって行かれました。私の頭はその時に削ぎ取られました。あの時貴方は、兜をかぶり、恐ろしげな面をされていましたね。離宮から王宮までの道中、私に見えたものと云えば、石畳と、青い空と、あの時はきれいな銀色だった貴方の鎧くらいでしたもの」
ミールは淡々と話すが、その内容は常軌を逸していた。
「お頭……。あの、『離宮の惨劇』の指揮官、あんただったのか! あたら兵を死なせた無能な指揮官。その余りの残虐行為に、仲間の南方領主すら、命を下したニコラウスを非難した。……俺が雇われる前の話だ」
倒れるダイモンを見下ろしながらディロンは呟く。
「ダイモン様。私は貴方に感謝しております。貴方はあの時、私の懇願を聞き入れ、ヤシン様に手荒なことはなさいませんでした。離宮の顛末を知る者からの非難を浴び、ニコラウスは一時的に失脚し、同情から、ヤシン様は極刑を免れ、流刑同然ではあるものの、辺境伯として、生き永らえることが出来たのですから」
そう言うと、ミールはダイモンの胸を慈しむように撫でる。
彼女の手が、彼の血まみれのシャツの胸のポケットで止まり、ポケットの中から血塗られた作り物の眼球が取り出される。
「貴方は魔道人形と云うものをご存じない。貴方があの時から、失われた私の眼球をお持ちなのは存じておりました。何故なら、この目は離れても見えておりましたもの。……私は少し、意地悪をしたのです。……これは還してもらいますね」
血塗られたままの眼球を、ミールは空ろな自分の眼窩に嵌め込むと、眼球は途端に元々ある目と同じく、キョロキョロと動き出す。
瞼も眼窩の周りの肉も無いので、ミールが俯くと眼球はポロリとこぼれ落ちてしまった。
「あら。やっぱりいけませんね。いかに鋼鉄とラピスラズリで作られた眼球でも、入れる器が壊れていては……」
ミールはクスリと笑う。
「ミールさ、ま、」
多量の血が流れ、ダイモン顔は蒼白になっている。
「射られたものが、射手を恨むことはあるかもしれません。でも、刺さった矢まで恨むものは、あまりいないと思います。お気になさらなくてよかったのに……。あの時、私を破壊した八人の兵達。北行の護衛兵として紛れ込み、旅が始まって何日も経たないうちに、街道沿いの廃屋に私を拐って行った者達を、すべて討ち倒し、私を救ったのはあなたでしょう」
眼球に付いていたダイモンの血が、先程嵌め込んだ際溜まったのだろう。ミールの眼窩から伝い落ちてきた。
「……愚かだったのだ。何百年も宮中に巣食う、魔物を討てと言われ、正に魔物の如き戦いを目の前で見せられて。……貴女を鞍壷に結わえた私は、竜を打ち倒した英雄のような心持ちで王宮に凱旋したつもりだった。王都で受けた非難の数々もあの場に立ち会わなかった愚か者の戯言だと………。……ディロン! 私にとどめを! それか、このまま私の足を、我が馬の鞍壺に括り付け、港町まで引きずって行け! もう私はこの世に立つ瀬がない! 自分の迷妄が……我慢ならんのだ!」
ダイモンは泣いていた。震えて泣きミールに抱かれていた。そしてそのまま静かに目を閉じた。
「……?」
ディロンはダイモン見て首をかしげている。
ミールはそんなディロンを見て、彼に向かって一つウインクをした。
片目なので、それがウインクだったのか瞬きだったのかは、後の顛末を彼が知るまでは、判らなかったが。
「本当にカロン様のおっしゃる通りですね。勝手に生まれ、暴れに暴れ、先を争って死んで行く……。ディロン様。そこに転がる私の目を拾ってください」
ミールに言われるまま眼球を拾うディロン。
「ああ、そうだ。そうだろうさね」
その目玉をまじまじと見詰め、ディロンは納得したように声をあげた。
「ディロン様。カロン老師を呼んでください怪我人が出ました」
「了解しましたミール殿」
馬を置いてきたので、ディロンは駆け足で坂道を下っていった。
ミールはダイモンの頭を慈しむように撫でた。
「うふふ、早とちりな子」
ディロンの斬りつけた太刀は、ダイモンの肩骨を砕き、胸まで達していたが、致命傷ではなかった。胸にあったミールの眼球には、僅かな刀傷がある。
それがディロンの太刀を受けとめ、彼は太刀を振り切ることが出来なかったのだ。
馬車の中、寝台に足を伸ばし座るヤシン。
その向には、ヤシン同じような格好で、寝台に括り付けられているダイモンが眠っていた。
二人の間にはミールが床に猪の毛皮を敷いて座っている。
馬車はつづら折れの坂道をゆるゆると下り、下りきった所から始まった石畳を進んで行き、報せを聴いて大きく開け放たれた門をくぐり町に入っていった。
王都から遠く離れ、王国の威光も届かぬ土地。
大陸側に残された唯一の北領伯の領地。
つまりは、そこはヤシンの領土である。
とうとう彼らはたどり着いた。
しかし、困難を極めた旅はまだ終わらない、一行はこれから海を渡るのだ。