越冬 ⅩⅩⅠ
ワラグリアの敗将クリム・ドウランがキコナインの旧市街に彷徨いだした頃には、海抜の低い一帯は濃密な霧に覆われていた。
そのような霧の中をドウランは、石階段のある崖に向かって進んでいく。
感覚が研ぎ澄まされている。
数本の矢を受け、多くの血を失ったドウランであるが、すでに傷の痛みはない。
足取りはしっかりとして、一足一足歩を進める度に、まるで大地から活力を吸い取っているかの様な感覚が足元から頭まで駆け上ってくる。
「……どうしたというのだ」
一寸先も見えない濃霧の中だというのに、まるで蝙蝠が洞穴の中を過たず飛ぶように、超常の感覚機能が働き、周囲の状況が把握できる。
ドウランは自分の身に何が起こったのか判り兼ね困惑した。
しかしドウランは、廃城から明らかに出陣をした様子の、矢に倒れる前に見た敗残兵達の行方が気になり、急いで先に進むことにした。
キコナイン村へと登っていく石階段の登り口に、異形の気配を察知したドウランは、屋敷より持ち出した剣を握りしめた。
『何かは分からないが、力を持つ者が二人、いや、三人。こちらには気付いていない』
ドウランふと、剣を持つ手の甲に目をやる。
『なんだコレは?』
そこには薄く光る円に囲まれた魔法陣が浮かび上がっていた。
無論見覚えはない。
『私が倒れている間に、何かしらかの魔術が、私にかけられたのか?』
よく見ると、その手の甲の魔法陣は、あたりの霧を寄せ集め、まるで風穴でも開いているかのように吸い込んでいた。
『??? 何だ? なんの意味があるのだ?』
ドウランが力を込めて剣を持つ手を握ると、それだけ魔法陣は輝き、それだけ多く霧を吸い込んだ。
霧が薄れてくると、ドウランの先の石階段にいる何者かが、ようやくドウランの気配を察知したらしく一斉に身構えたのが気配でわかった。
「あのー、どなたですかぁ?」
間の抜けた少女の声が響く。
程なく髪の長い女性と、背の高い男のシルエットが霧に浮かび、輪郭が少しづつはっきりとしてきた。
「魔法陣の光が見えます! アルノオルの刻印師、上エルダールの生き残りでは?」
ナヨナヨとした印象の男の声がする。
「私はクリム・ドウラン。ワラグリア諸侯連合軍の指揮を……、」
言い終わる前に、ドウランの目の前に少女を咥え大ダコの怪物が急接近した。
髪の長い女性の影の、その髪の毛が突然膨らみ、髪の毛に見えた影は大ダコに変化したのだ。
頭をタコに咥えられた少女は笑顔だった。
「…死んだと聞いていたが生きとったんかい」
少女を咥えたまま、モゴモゴと大ダコが言葉を発する。
「うおっ! タコの化物! 海の怪物か! 少女を離せ!」
思わずドウランは構えていた剣で斬り付けた。
その尋常ならざる剣圧に、タコの化物こと九頭竜ダリオスは咄嗟に物理防壁の魔法を展開したが、防壁は展開を完了する前に、ドウランの手の甲に光る魔法陣が『吸い込んで』しまった。
「な?」
『ズバッ』
ドウランの剣はダリオスの足の一本を皮一枚残して切断した。
「ギャー!! 痛ったー!」
ダリオスはドウランから離れた。
「きゃあー!!」
九頭竜ダリオスに咥えられた、方舟の姉妹25号、通称ニコちゃんは悲鳴を上げる。
「チョットお待ちを! 貴方、ワラグリアの敗残兵の将でしょ? 私らは、オーマにいたんです。方舟に乗ったでしょ?」
ダリオスと行を共にしていた元オーマの住人、オーマのカラリオンが慌てて間に入る。
「オーマに居たのよ! アタシに見覚えあるでしょ? ほら、この中性的な魅力に!」
奇妙なクネクネポーズでカラリオンは必死に訴える。
「……あ、あー。エルダールにも男娼がいるのかと吃驚した記憶がある。ではあなた方はオーマの方か?」
ドウランは戦闘態勢を解き、剣を下げる。
カラリオンの後ろでは、ニコちゃんが治療魔法でダリオスの足を繋げていた。
「いたたた。ここまで斬りつけられたのは、アルティン・ティータ様以来や。あんさんエダインにしてはやるの。魔道剣士か。コレ。ニコちゃん。そんなおっかない顔せんと。ニコニコしいや。」
恨めしげにドウラン睨むニコちゃんをなだめながら、ダリオスが笑う。
「いきなり斬り付けてしまい申し訳ない! いや、魔法などトンと存じません……自分でも何が何やら……」
カラリオンはドウランの手に浮かぶ魔法陣を見止め、驚きの表情でドウランの手を取り、魔法陣を見つめた。
「こ、これは! ああ! 首筋にも! おやまあ! 胸の所にも!」
ドウランの体のあちこちに、魔法陣が刻印されているのを見付け、カラリオンはドウランの服を脱がさんばかりに魔法陣を探した。
「あ、あの、これは、何なのでしょうか?」
カラリオンの様子に面食らいながらも、ドウランは問うた。
カラリオンは『暫しお待ちを』と言ったきり、ドウランの体に浮かび上がっている魔方陣の文様を夢中で調べている。
「灯台塔のエルダールが受けた知らせによると、あんさん死んだって聞いとったんやけどなあ」
「私はキコナインの町、丁度この後ろにある広場で、キコナイン村の狩人の矢を受けて倒れ、リングロスヒア殿の屋敷の侍女に魔法で癒やしていただき、その後廃城の前で再び毒矢を受けた。そこから記憶がないが、リングロスヒア殿の屋敷で先程目覚めたので、恐らく彼に治療してもらったのだろう。しかし屋敷には誰も居らず、私は取り敢えず廃城へ向かおうと屋敷を出たところです」
「この街の町長、リングロスヒア様は死にました。先程私達はその葬儀に参加したのです」
「ええ?!」
カラリオンの言葉に、ドウランは驚きの声を上げた。
「その、葬儀の場で、怪異と云うか奇跡と云うか……、とにかく驚くべきことが起こり、キコナインとオーマの上エルダールは全て消えてしまいました」
「……」
言葉を失い立ち尽くすドウランの体を、カラリオンは依然まさぐっている。
「これは……。ドウラン殿の体に刻印魔法が何重にもかけられています。リングロスヒア殿はアルノオル様式の刻印魔法の大家。私でも全ては理解できません。秘術に属する刻印がなされています。恐らく右の手の甲にあるのは、何らかの方法で魔力を吸収し、自分の魔法陣に蓄える術式です。胸の中央にある魔法陣が、龍における『炉』の様に魔法を蓄え循環させる術式です。左手の刻印はその魔力を放出する刻印です。……それ以外の体に無数にある刻印は……。私も文献を当たらないとわかりかねます」
「どういうことや?」
「ここまで高度な秘術に属する魔法陣は、刻印するだけでも多大な魔力が必要です。それを何層にも積層させていますから、恐らくリングロスヒア殿は、持てる魔力のすべてを使い切り、ドウラン殿の体に、アルノオルの遺産を記したのでしょう。貴方は生ける魔法陣図鑑です」
「リングロスヒア殿が身罷ったとは……。この一帯に降り掛かった凶事は、何時になれば収まるのか?!」
やるせない気分でドウランは叫ぶ。
「事を収めるのはわい等の仕事や、先ずは上の争いを止めなあかん。ドウランはん。手伝ってくれへんやろか? あんたはもうエダインとは呼べへん。わい等とおんなじ、あんさん達の言うところの怪物の部類や」
「無論です! ワラグリア兵を止めるのは、私の仕事です!」
「ほな、行こか」
「はい!」
合流したワラグリアの将クリム・ドウランと、九頭竜ダリオス、方舟の姉妹ニコちゃん、オーマのエルダールカラリオンは、連れ立って石階段を登り始めた。