海峡 Ⅳ
「姫様! 姫様! どちらでございますか?」
所狭しと張られたテントを周り、太めの婦人が、白い息と共に声を張り上げる。
早朝。
当直の護衛兵以外は、昨夜の酒のせいか、まだ寝静まっている。
婦人は護衛兵に声をかける。
「ちょいと、グレタ様を知らないかい?」
聞いた護衛兵は、少し下卑た笑みを浮かべて言った。
「グレタ様なら、昨日一番の大物を仕留めた、ディロンと一緒のテントだろうよ。グレタ様が『褒美をとらす』なんて言いながら、ディロンと肩を組んで歩いてるところを見たぜ。……チキショウ!! あいつ俺の獲物を横取りしやがったんだぜ!! あそこで矢がもう一本があったら、俺がグレタ様のご褒美を……くぅ!!」
最後は半泣きで悔しがる護衛兵を残し、婦人はため息をつきながら辺りを見回す。
「あれだね……」
婦人は大猪の皮が裏返しで乗せてあるテントを見付け、歩み寄った。
「姫様! 姫様! 起きてくださいまし! 洗濯の時間でございます。お召し物を取りに参りましたよ!」
婦人は大声でそう言うと、テントの入り口に今まで抱えていた洗濯かごを置く。
「うぇーい、」
気だるげなグレタの返事があり、テントから手だけが出てきて、既に脱いでいたのであろう、たいして間を置かず、服や下着がぽいぽいと、洗濯かごに投げ込まれた。
何故か男物のズボンやシャツまで混じって、洗濯物の量は二人分だったが。
「…………」
片眉を吊り上げた婦人は、洗濯物をグレタが入れ終わるのを待つ。
「ハンナ、あたしの替えの服は?」
手首から先は黒いが、それ以外は驚くほど白いグレタの腕が、蛇の鎌首のようにさ迷っている。
ハンナと呼ばれた婦人は、下着とシャツだけその手に持たせた。
「あんがと」
そう言ってグレタの蛇は引っ込んだ。
テントの中から若い男の声がする。
「グ、グレタ様! 俺の服は?」
「昨日の猪の毛皮があるよ~。生乾きだけどね」
「え?」
「男でしょ!? チッチャイ事は、その……。色々チッチャイ事は気にしない!」
「えぇ? 今、何で言い直しました?」
「あっはっはっは……、あー、頭いたい、」
「……あの、グレタ様。昨日言った事考えてもらえますか?」
「いつつ、んー? 私んとこに婿入りするってやつ?」
「俺、俺、隊を抜けて北之島までついて行きます! 俺の嫁になってほし、痛ってぇーーー!」
「北之島までついて来るっていう、あんたの心意気は嬉しいわ! でもね、あたしは今でもワラグリアの筆頭『ガルボ家』の当主よ! 馬鹿にしないで。あたしの気を引きたいなら、もっと強くおなり! せめてダイモンより強くなってよ! コレ引っ張られたくらいで泣くような男は、これ、ちぎりとってやる!!」
「あぎゃーー!!」
テントの中から股間を押さえた若い男が飛び出し、涙をキラキラなびかせながら、絶叫と共に走り去っていった。
「……はあ、……洗濯しましょかねぇ」
ハンナは白いため息をついて、川に向かう。
ハンナの大声でそれぞれのテントから出てきた女達も、グレタとディロンの顛末を目届けた後、銘々が洗濯籠を持ちハンナに続いた。
街道沿いに流れる川は、海が近付いたせいか、かなり太くなり、木々の間をゆるゆると流れている。
洗濯娘達は、細い中洲に挟まれた浅瀬を見付け、其処を洗濯場にすることにした。
「いぎぇー! 冷たいぃ!」
「嫌ねえ、水が冷たいと油の汚れが落ちないのよねぇ」
「昨日の騒ぎでもうみんな脂まみれ! カロン様がいらしたら、お湯を作って下さるのに」
「でも、カロン様って。その後私達のお尻を、ずーっと眺めてるじゃない」
「『ほーれほれ!裾が濡れるぞい! もっとたくし上げんかい! にょほほほほー!』」
「に、似てるー!!」
「あははははー!」
娘達はひっきりなしに喋りながら、大きく平らな石の上に洗濯物を並べ、木の棒で叩いていた。
ヤシンの北行に加わる前、彼女達は王都のガルボ家の邸で働くメイドであった。
動乱の折、身寄りのないメイド達は主人のグレタと共に、新領地に行くことを決めたのだ。
「ほれ! 囀ずるのは多目に見るけど、手は止めんじゃないよ! 珍しく晴れてるんだ! 早いとこ干しちまうよ!」
そんな娘達の母親代わり、ガルボ家メイド長ハンナが、叱咤する。
「それにしても。今朝の。見た?」
「見たわ、見たわよ……。ディロン様……、護衛隊一番のイケメンも、とうとう姫様の餌食か、」
「うえっへん!!」
懲りずに会話を再開した娘達は、ハンナの咳払いでピタリと会話を止める。
これは、宮廷で仕込まれた、近くに高貴な方が来た事を知らせる符丁の様なもの。
ハンナの背後、噂の主のグレタが大きな桶を担いで現れた。
グレタの横には恭しくミールを抱きかかえているダイモンが、ダイモンの後ろには、杖を持ったカロンが続く。
「ここでいいか?」
ダイモンがぶっきらぼうに聞く。
「有り難うございます。ダイモン様」
ミールは、大きな岩の上にそっと下ろされた。
「なんの。軽いものだ。人払いをしている。……終わったら呼んでくれ。ではな」
ダイモンは、片手をあげて振り返り、もと来た道を帰っていった。
ミールの両足は、膝から下がなく、片手は手首から先がない。
肩から下げていた袋から苦労をして洗濯物を出している。
洗濯物を手首が残された方の片手で掴み、川面に突っ込むと手首から先を物凄い早さで回転させている。
「ミール様。洗濯は私達でやりますよ!」
ハンナがそう言ってもミールは首を振る。
「いいえ、ハンナ様。お坊ちゃんの服は私にやらせてください。」
そう言うとミールは作業に戻った。
「ミール。洗濯は任せてさ、あたしと一緒に水浴びしよ! 二人で入るにゃちいとばかり小さいけどねぇ」
「……いえ」
ミールはチラリと、桶を頭に載せたグレタを見たが、また作業に戻った。
「そう。気が変わったらおいでね。ミールもちょっとは綺麗にしないと。サッパリしたらヤシン様、見とれるかもよ」
「…………」
俯向いてしまったミールを残し、グレタは中洲の向こうに行き、大桶を置くと、手桶で水を汲み始める。
「ちょっとカロン! 手伝ってよ!」
グレタが中洲の向こう側からカロンを呼ぶ。
「ちょっと待っとれ」
ハンナとカロンは、浅瀬の上流に石を積んで流れをせき止めていた。
「水の中の精霊の子供達を揺するぞ! それ! はしゃげ! それ! 暴れろ!」
カロンが、せき止められた浅瀬の水の前で、小躍りをしながら囃し立てると、水がさざ波を立て始め、やがて湯気が上がってきた。
「次は岩を熱するぞ!」
塞き止めるために置いた石ではなく、はじめからそこにあった大きな岩を、カロンが杖で撫でながら、ブツブツと呪文を唱えると、岩の周りの水に接する部分が、ごぼごぼと煮立ち始める。
「こっちはしばらく熱いからの。気を付けるんじゃぞ」
辺りには、もうもうと湯気が立ち込める。
上流の熱水がゆっくり下り、洗濯娘の辺りまで来る頃には、ぬるい水になっていた。
「有り難うございます。カロン様」
娘達は口々に礼を言う。
「グレタよ。桶に一つ大きめの石をいれておけ」
浅瀬の仕事を終えたカロンは、今度は中洲のグレタのもとへ向かった。
「さあ! カロン様が温めて下さったよ!! 早いとこ仕事をしな!」
ハンナの掛け声で、娘達は洗濯を再開する。
ミールは、洗った洗濯物を今度は持ち上げて、手に持ったまま回転させる。
水しぶきが飛び、洗濯物はあっという間に乾いていった。
乾いた洗濯物を袋にしまうと、ミールは次の洗濯物に取り掛かる。
「…」
「あーあ、ディロン様。あたし狙ってたのにな」
懲りもせずにおしゃべりを再開する娘達。
「これで、護衛隊のイケメン達全員が姫様の『御手付き』になったってことかしら?」
「選り取りみどり。羨ましい」
「最初はあんなに厳めしかった野盗崩れのゴロツキ達が、今じゃ姫様の影すら踏まないように、ついて歩いてさ! 犬みたい!」
「みーんな姫様の気を引こうと、年寄り背負ったり、子供あやしたりして」
「姫様の男遊び、王都ではあんなんじゃ無かったのにねぇ…」
ハンナやグレタに聞こえないように、洗濯娘達はささやくような声でおしゃべりを続ける。
「男遊びですか……。それではグレタ様も報われない……」
ミールがポツリと呟く。
洗濯娘達はミールの方を見る。
皆の視線を集めていることに気付いたミールは、突然頭を川面に突っ込んでずぶ濡れにし、ブルブルと振った。
「ミール様……、どうしたのですか?」
突然の奇行に驚く娘達。
「私は、怒りを表す機構が破壊されておりますゆえ、水を被ることによって、それを表しております」
声は普段と変わらないミールはそう言って、娘達を睨め付けた。
「貴女方の御主人であらせられるグレタ様が、この旅の間、何と、どのように戦い、何を守り、何に勝利し、何を失ったか、貴女方はなにもご存じないことが判明しました。私は嘆かわしく、辛いです」
「???」
「貴女方は今、ご自分で仰いました。厳つい破落戸が犬のようになったと、……それは誰のせいと?」
小首をかしげ質問の意を表すミール。
この場に5人いる洗濯娘のうち、一番気の強そうな一人が答える。
「……姫様です」
「我らと行を共にする護衛兵達は皆、王家の近衛でも、ワラグリアの兵でもありません。あなた達の見立てのように、出自は、南方から王都に入り込んだ山賊か、盗みや殺しを生業とする者達でしょう。南の領主達か、もしかしたらニコラウス宰相が差し向けたのです」
感情の消えた声でミールは語り続ける。
「ヤシン様は、動乱の最初から一切の抵抗をせず、病に臥せり、離宮で恭順の意を示しておりました。ヤシン様を排除する口実の無い宰相ニコラウスが、私達王兄派が北方領に着く前に亡き者にするために送られた刺客が彼らです。護衛兵とは名ばかりの暗殺者……。おわかりですか? あなた方の首には、死神の鎌がかかっていたのです。門をくぐって王都を離れてからずっと」
「…………」
娘達は驚き、顔を見合わせる。
「懐柔……。本来は、私がその役目を負うはずでした。ですが、資産もすべて奪われ、動乱の折、すでに破壊された私のこの体では、その任、その責を負うことが叶わなかったのです」
「ミール様?」
「尊き血筋に生まれることを、好運とお思いですか? 皆にかしずかれ、我もそうなりたいとお思いですか? 貴女方未婚の娘を守るため、自分の体と血筋を武器に、自分を殺そうとしている兵達の気を引き、体を預ける。少しでも苦にしたり、嫌がったりすれば、私のように切り刻まれるのですよ。 楽しそうに、本当の恋人のように、相手の出方をうかがい、情報を引き出し、睦言を言い、……嬌声をあげ……。自分が死ねば兵達は後戻りしない。全ての女たちを犯し、全てを奪うまでは。……そんな中、グレタ様は一人で闘い抜いたのです。………私には出来なかった。……私は、悔い恥じています」
震えながらうつむき話すミールの虚ろな眼窩から、先程被った水の雫が滴る。
「その位で勘弁してやって下さいまし。娘達も。ミール様ご自身も」
ミールの震える肩にそっと手を置いて、ハンナは囁く。
「あなた達も子供の頃、耳にしたでしょう。数々のお伽話を。姫や王妃が剣を手に、勲を立てたという物語を。私に言わせれば、男の真似をして男に驚かれ、男達に褒められたというだけのことです」
ハンナの諌めを受けても、それでもなお、ミールは言葉を続ける。
「あなた方、女の方には分かっていただきたかった。グレタ様の闘いと勝利を。私は長く王都で過ごし、王家に仕えてまいりました。生まれては死にゆく人々が織り成す歴史を見てまいりました私ですが、グレタ様ほど困難な戦いを勝利した方を、私は多く知りません。グレタを慕いついて回るあの兵士達。彼女を殺そうとした暗殺者達は、今や自分の故郷を捨て、グレタ様のために一緒に死地に赴こうとしているのです、あなた方に出来ますか? 己の身を晒し、暗殺者を飼い慣らすことが! 殺し殺される事に、なんの痛痒も感じない愚かな男達に、年寄りや子供を気遣う心を教え、自分のためだけではなく、そう云う者のために、命を投げ出すことを教え込んだのです。あの兵士達の心は既に騎士の心です。真に高貴なる者に仕える騎士の心です。……あなた方のご主人様は強く美しく慈愛に満ちた方。騎士が争って剣を捧ぐ方です。あなた方は誇りに思うべきです。あなた方もまたグレタ様にお仕え出来る事に……」
「な~に怖い声出してるの? 朝っぱらから」
激高し、膝から下のない足で立ち上がり、なおも話し続けようとするミールを、背中から全裸のグレタが抱きしめる。
「んっふー、寂しいから来ちゃったよ。ほれほれ、男共が寝ているうちさ! 水が冷める前に、ひとっ風呂浴びなよミール! あたしもご一緒するからさ! 脱いだ脱いだ!」
後ろから肩越しにボタンを外しにかかるグレタ。
「あ、グレタ様。やめて、自分で出来ますから」
身をよじり抵抗するミール。
「その手じゃ無理でしょ。知ってんのよ! ヤシン様にボタンかけやってもらってるでしょう」
「あ、う、」
「ほら、お前達も脱ぎなさい! 裸になればみんな同じさ!」
洗濯もそこそこに水浴びを始める女達。
中洲で存在を忘れられたカロン老師がボンヤリと眺めている。
「美と慈愛の女神が立つのは睡蓮の花弁。睡蓮は汚泥の中から立ち、清き花を咲かせる。生まれながらに清いものが、清いままでいられるのは、ただただ幸運だっただけの事。本当の尊きものは、汚泥の中に立ち上がり、それでもひたすら清くあるもの。勝手に生まれ、暴れに暴れ、先を争うように死んでいく若い男達を、この世に繋ぎ止めるのは、女神達の仕事よのう。……にょほほほほほー!!」
「『にょほほ』じゃないよ! 煩悩坊主! あっち行きな!」
カロンの顔に、グレタの投げつけた誰の物とも知れぬ男物の下履きが、ベショリとへばり付いた。