越冬 ⅩⅣ
ドアのすぐ向こう側に居たはずのアムルイは、ドアが開いたことに恐れを抱いたように、暗い部屋の奥に逃げていった。
「ああああ!」
彼は血塗れで傷だらけだった。
壁や床にも、彼の血の痕がある。
彼の両手には手枷がはめられているが、それは脱走や暴動を警戒していると云うよりも、自傷を止めるための措置だった。
裸の胸や腕には、彼自身の爪痕が走り、壁にでも打付けたのか額からも血を流していた。
「戒めを解かん」
リングロスヒアが命じると、アムルイを拘束していた手枷がカチャリと音をたてて外れ落ちた。
「う? え?」
アムルイは狼狽えて視線を彷徨わせる。
「リングロスヒア様、何をしている! 本当にアムルイが、エダインとあなたの娘を殺したのであれば、操られていたとはいえ、アムルイは罪人だ! 裁かれねばならん!」
モレヤが慌てて山刀を構えてアムルイとリングロスヒアの間に立つが、リングロスヒアはモレヤの前に進み出て、いつの間にか手にしていたアムルイの武具を彼の前に置く。
「リングロスヒア様、……狂ったか?」
自分が置いたアムルイの山刀に視線を落とす無言のリングロスヒアの横顔を、信じられらないものを見るような顔でモレヤは見つめる。
「狩人アムルイよ。お前は解っているだろう。我が娘の想いが、お前に添うた事は終に無かったという事に。お前の願いに、我が娘が応えることが無かったという事に」
冷たい表情だった。
まるで死神が宣告した命を刈り取るために、死に逝く者の前に立ち現れたように、リングロスヒアはアムルイの前に立つ。
「あれは、イトゥラリエンは私を愛していたのだ。あれは、一途だった」
リングロスヒアの声色には隠しきれない憎悪と侮蔑の感情が配合されていた。
超然とした上エルダールの彼から、そのような負の感情が滲み出すということか、モレヤには信じ難かった。
「あれは、お前の事など、歯牙にもかけていなかったのだ、……あれは、私を愛していたのだ」
既に邪悪と表現しても良いような顔つきで、リングロスヒアはアムルイに言い放つ。
「そこまで判っていながら、何故イトゥラの想いに応えてやらなかった!?」
モレヤが堪りかねて叫ぶ。
「イトゥラの願い、下エルダールの女の願いなんて、長生者の貴方にとってささやかなものだったろうに……。愛しい男の帰りを家事をしながら待ち、食事をつくって食べさせ、同衾して眠り、いつか子を孕み、産み育てる。……それだけで良いのだ。それだけがイトゥラの願いだったのに! 貴方はイトゥラの気持ちを知りつつ、娘としか扱わず、家事もさせず、ただただ飾り立て、まるで棚の人形のように無為に過ごさせたんだ! それなのに、アムルイと会うことも許さなかった。……そんな貴方に何が言える!」
モレヤの訴えにも顔色を変えず、リングロスヒアはアムルイを凝視したまま彼女に見向きもしなかった。
「下エルダールの人生など、私の興味の外だ。お前にしろ、イトゥラリエンにしろ」
リングロスヒアの言葉を聞きながら、アムルイの瞳には仄暗い炎が灯る。
発作的に彼の手は、目の前の山刀に伸びる。
「アムルイ! やめろ! リングロスヒア様! アムルイを挑発するな!」
再びモレヤはアムルイの前に立とうとするが、リングロスヒアは後ろから何らかの魔術を使用し、彼女を昏倒させた。
「下らん。お前達。下エルダールなど……。私は我慢ならなかったのだ。仮にも娘とした者が、そのような存在であることに! ただ腹を満たす物を集め追い求める為に、荒野をうろつく貴様らの下らん生きかたなぞ……」
崩れ落ちるモレヤを、そうなってから初めて視線で追い、リングロスヒアは、彼女の白い顔を自分の足で踏み、アムルイを再び見据える。
「下らん……」
『……!』
アムルイは、山刀を握り締め、山で大熊と戦う時のように、体ごとリングロスヒアにぶつかった。
「ふごっ!」
奇妙な声をあげ、リングロスヒアは喀血する。
彼の体を、幅広の山刀が刺し貫いた。
「太古の悪魔め! 去れ!」
アムルイはリングロスヒア足蹴にして山刀を引き抜いた。
床にリングロスヒアの血が拡がる。
「……」
部屋の隅まで転がり、リングロスヒアは壁を背に座り込んだ。
もう、言葉を発することは出来ない。
ただ、先程までの狂気の表情は消え、不思議と凪いだ表情でアムルイを見詰めたまま、次第にリングロスヒア顔から生気が消えていった。
「モレヤ!」
アムルイはモレヤを抱き起こす。
モレヤが失神しているだけであることを確認し安堵すると、彼女を肩に担ぎ、屋敷から脱出した。
既に夜は明け、昨日から一転、凪いだ海から立ち上る湯気のような霧が辺りを覆い始めた旧市街を、人目を避けながらアムルイは走る。
彼は石階段の近くの崖前の茂みにモレヤを横たえ、彼女の持っていた弓と矢の詰まった靱を奪い、彼女を置いて一人、石階段を駆け登っていった。
海の水気を過分にはらんだ大気が茂みの葉を濡らし、結実した露が滴り落ちモレヤの頬を濡らす。
彼女が目を覚ました時には、辺りには人影はなかった。
「……血?」
リングロスヒアが刺殺された時、床に伏していた彼女の衣服には、彼の血が付いていた。
「弓がない……アムルイは?」
モレヤは自分の目覚めた場所が、崖下の石階段の登り口近くと判ると、どちらに進むか逡巡した。
「村が心配だ」
彼女は意を決し、階段を登り始めたが、上から何かが駆け降りてくるのを目にし、慌てて茂みに飛び込んだ。
降りてきたのはメイドを咥えた巨大な蛸の怪物だった。
茂みに潜み怪物をやり過ごす。
怪物に咥えられながら、笑顔の少女を見て、モレヤは戦慄した。
「キコナインを怪物が闊歩している。上で何があった?」
再び一人になったモレヤは階段を登り始めた。