越冬 ⅩⅢ
深い霧に覆われたキコナインの港は、どこまでが地面で、どこからが海なのかも覚束ない有り様だった。
沢山の上エルダールが、
恐らく北方世界の上エルダールの大半が、この港に集まっているはずなのだが、彼らは霧に包まれて、輪郭もぼやけてしまっている。
ただ、彼らの発する「厭離穢土欣求浄土」の声だけが、まるで深い洞穴から送り出される風の泣き声のように、現実味を失って響いてきた。
その霧の幻の中から一体の機械化魔道兵が立ち現れた。
「我は天龍『オルタナ・オルセン』の使いなり! 天龍『アルティン・ティータ』が去り、次に、この世界におけるゲームのジャッジを執行するのは、天龍オルタナ・オルセンなり!」
機械兵の肩の梟が翼を広げる。
「貴様らの主人、ヤシン・アングバンドの子、ヤシン・ソルヴェイグへ伝えよ! 理を覆すため、精々足掻くが良い。しかし、棋戦の超越を目論むそなたら親子の試みも、所詮は盤面の駒運びの一つに過ぎないと知れ! 四神の戦いから外れようとも、それも大いなる神々の遊戯の範疇なのだ。たとえ盤面から手駒が去ったとしても、また新な駒が配置される。お前たちの懊悩も煩悶も苦闘も、ささやかな勝利と繁栄も、凡ては『操作者』の興を買うための傀儡の演舞なのだから!!」
梟は羽ばたき、機械兵の肩を離れる。
「オルタナ・オルセンは評価しているのだぞ! ただ闇雲に潰し合うことしかしなかった、四神たちの戦いに、操作者の方々は飽き飽きしていたのだ! つまらぬ棋戦の行方に、お前達はあらたな打ち筋を示してくれたのだから! ハハハハハーハハハ!!」
灰色の空に梟は溶けるように消えて行く。
地上に立つ機械兵は、ガシャリと大きな音をたてて、その場に崩れ落ちた。
「……別に、ヤシン坊っちゃんの子分になった訳や、ないんやけどな……」
ダリオスがポツリと言った。
「海底公! これは一体どういう事でしょう?! 皆、霧か霞にでもなったように、触れることが出来ないのです!」
カラリオンは上エルダールの船出を阻止しようと、皆を引き留めようとしていたが、いくら声をかけても聞き入れないばかりか、霧に写った影のように掴もうとした手は空を切るばかりで、船出を急ぐエルダールに触れることすらできなかった。
「さっきまで普通に話していた仲間に、触れることもできず、声も届かない。これは夢か幻か?」
カラリオンは霧の中で手探りをする人のように奇妙な動きで辺りをさ迷う。
「この世界を放棄する宣言をした者が、幽世に取り込まれてしまったんや! 幽世のクリンゴンに乗って幽世のアルノオルに行ってしまうんや!!」
もう、ダリオスやカラリオンの声は、エルダール達に届かない。
彼らは幽霊のようにぼんやりとした影になり、ノロノロと船出する。
沖からは彼らを迎えるように角笛の響きが何筋も流れ聞こえる。
輪郭のぼやけた船の群れは、沖で待つ大きな船の影の中に消えていった。
「……ああ、行ってしまう。ダリちゃん!」
「……しゃあない。あいつら、望んでそうなったんや。この世界から外に船出してしもうたんや……」
「……何故、わたしは連れてっていただけないのでしょうか?」
カラリオンが仲間達を呆然と見送りながら言った。
「俗っぽいからやろうなぁ。それとも、クリンゴンは禁煙ちゃうん?」
ダリオスも見送りながら呟いた。
「……ううっ、」
クリム・ドウランが目を覚ましたのは、部屋の中だった。
昨晩、毒矢を受け廃城の前で倒れた彼は、そこから記憶がない。
「ここは、?」
ドウランは自分が寝かされていた寝台より起き上がった。
立ち上がったが目眩を覚え、寝台に尻餅をつくように座わる。
その拍子に彼の寝台の隣にあるもう一つの寝台に視線が行った。
「ガイウス!」
隣の寝台には、彼の副官のガイウスの死体が横たえられていた。
「と、云うことは、ここは町長の屋敷か。いつの間にキコナインの町に戻ったのだ?」
再びノロノロと立ち上がった彼は、部屋を見回す。
部屋の隅には彼の着ていた鎧や武器などが置いてある。
彼はそれらに近寄り、鎧を着るのは諦め、マントと剣だけを持ち、ドアを開けて部屋を出ていった。
「ガイウス、すまぬ。後で必ず迎えに来る」
見覚えのない廊下や部屋を過ぎ、屋敷から外に出て、彼は町の探索に出発した。
遡ること半日前、まだ夜が明けず、海峡では海竜達の火球が飛び交っていた夜の事。
廃城で毒矢に倒れたクリム・ドウランを担いで、キコナイン村の族長の娘モレヤが町長の屋敷を訪ねた時、町長リングロスヒアは自分の娘に死化粧を施していた。
首の傷を縫合し、血の気の失せた頬に薄く紅を点す。
慈しみ、大切に、丁寧に、リングロスヒアはイトゥラリエンを扱っていた。
「イトゥラ……死んだのか?」
モレヤは呆然とそれを眺めていると、リングロスヒアはゆっくりと口を開いた。
「モレヤか……。彼はどうしたのだ?」
リングロスヒアはモレヤに担がれたドウランを見ながら問うた。
「廃城で毒矢を受けた。矢柄からして多分シラトリの毒矢だ」
リングロスヒアは一度、イトゥラリエン頭と頬を、ゆっくりと撫でた後、遺体の安置されている寝台に寄せられた椅子から立ち上がった。
彼はモレヤの傍まで来て、ドウランの肩と太ももの矢傷を調べる。
「ドウラン君は隣の部屋へ。そこで治療しよう」
イトゥラリエンの部屋を出て、隣の部屋に行くと、そちらの部屋にはガイウスの死体があった。
「リングロスヒア様。この男は何故死んでいる!? イトゥラも、この男も。ここで何があったのだ?」
ドウランをベッドに横たえ、医療魔術を施すリングロスヒアをモレヤが問い詰める。
「……もしかして、アムルイがやったのか?」
しかし、彼は答えず、まじないの言葉を唱えるばかりだった。
「……命の火が消える前に間に合った。ほどなく目覚めるだろう」
しばらくして、リングロスヒアはそう言うと、眠るドウランに毛布をかけ、二人は部屋を出た。
「モレヤよ、ついてくるが良い」
リングロスヒアはモレヤを伴い地下室に降りて行く。
地下に降りてすぐ聞こえてきたのは、アムルイがすすり泣く声だった。
声は錠前のかけられた重い扉の向こうから聞こえてくる。
「アムルイ! 私だ! モレヤだ!」
モレヤがそう叫ぶと、嗚咽は止み、鎖を引きずるような音が、扉の向こう側まで近づいてきた。
「モ、モレヤ様ぁ。申し訳ございません。申し訳ございません。……俺が悪かった。浅はかだった」
アムルイは、普段から偉大な師匠と比べられ、その反発から不遜な発言の多い若者であった。
そんな彼が、別人と見紛うほどに打ちひしがれ、口から出るのは、後悔と許しを求める細々とした声の謝罪ばかりだった。
「心を惑わす魔術が使われたのだろう。正気に戻り、自分の行いを判断できるようになって、今まさに、彼は苦しんでいるのだ」
「アムルイ! お前、何をした? 何を仕出かしたんだ?!」
窓の無いドアを叩いてモレヤは叫ぶ。
「うううう、イトゥラ……」
モレヤの問いには答えず、ドアの向こうからは再び嗚咽が漏れ聞こえ始める。
リングロスヒアは懐から鍵を取り出し解錠する。
「リングロスヒア様!?」
モレヤが驚きの声をあげるのを無視し、リングロスヒアは重いドアを開けた。