越冬 Ⅹ
私は眠っている。
私は弱くなった。
人形だった頃、わたしの魂は自由で、眠りも不要で、私は魔力の許す限り活動し、計算と分析と記憶だけをしていれば良かった。
今、私の魂は、肉体の魄に囚われている。
栄養を欲し、快楽を欲し、汁をたらし、腐り、乱れる肉の塊。
今、私の体は、惑い、うろたえ、とうとう疲労に耐えられなくなり、眠ってしまった。
これは、あの方の罰なのだろう。
あの方に作られた身ながら、あの方を裏切った私への、これは、やはり罰なのだろう。
世界革変の戦いに身を投じた大魔道である、あの方を支えるために作られた私が、擬似的な心を与えられた私が、その心の赴くままに、自分の欲を満たそうとして、あの方の『器』を奪ったのだ。
眠らせたはずのお坊っちゃまの心。
起きてはいけなかったお坊っちゃまの心。
それを私が呼び起こしてしまったから、あの方の魂の帰る場所は失われてしまった。
あの方は、私を深く恨んでいるだろう。
笑顔のまま、優しいままで、私を破滅させるだろう。
事実私は今、罰を受け、その破滅を噛み締めている。
私は、思い知った。
長の間ゴンドオルの王宮に仕え、人の生き死にを見てきた私は、自分でも知らずに、エダインを見下していたのだ。
精霊魔力の根元は、この世界と云う物語を楽しむ『操作者』なる存在が世界に影響を与えることで発現すると、あの方は仰っていた。
私はその異世界で我らを読む『操作者』のように、エダイン達の煩悩や狂奔や、喜びや幸せを、とるに足らぬ他人事と見下していたのだ。
私の魂は、エダインと同じ体に納められ、煩悩し、狂奔し、とるに足らぬと皆が笑うだろうささやかな幸せだけを両腕に抱き、これから、この暗闇をとぼとぼと歩いて行くしかないのだ。
この体が腐れ果てるまでの間。
愚かなエダインの苦悩。
愚かなエダインの判断。
愚か故のエダインの末路。
理解に苦しんだエダイン達の様々な営み。
今なら判る。
彼らは彼らの心で、彼らなりの決断をしたのだと。
結果はどうであれ、それらは蔑むものではないと。
私も、私の心に依り、私なりの決断を下さなければならない。
私への指令。
あの方からのオーダーは既に失われてしまったのだから。
私の心?
私の魂?
それはいつ生まれたのであろう?
その心さえなければ、私は人形のままでいられたのに!
あの方はこう言うだろう。
『私は神々との戦いに赴く為に、神々を越える存在となろうとした。その器として造られたのが、君の懐に抱く『それ』だ。『それ』に心は不要だったのだ! 今、正に、君が心を持て余しているようにだ!』
私は、私の欲望を満たすためだけに、永劫の時の中で狂える神々を討ち滅ぼすことの出来る千載一遇の好機、一瞬の油断を突く好機を逸してしまったのだから。
「まあ、そんなに気に病みなさるな! 相変わらす心配性だなミール」
「……? 誰?」
「誰って、僕だよ。君のご主人様の声を忘れたのかい?」
「……アングバンド様!!」
元魔道人形、ミール
本来、『ミール』とは、魔道王が造り出した少女メイド型魔道人形の総称なのだが、彼女が『魔道王の花嫁』の体を得たことにより、彼女の個体名として記録されることになる。
ミールが閉じていた瞳を開くと、そこは春の花の咲き乱れる庭園だった。
彼女は自分でも知らぬ間に、庭園の芝生に突き立てられた大きな日傘が作る蔭の下に据えられた長椅子に、ゆったりと腰かけていた。
彼女がほとんど寝るようにして寄りかかっていたのは、耳の後ろから角を生やした青年で、彼はミールの枕を勤めながら分厚い本を読んでいた。
「やあ、ミール。久しぶり」
読んでいた本をパタンと閉じ、少しおどけた優しい笑顔で彼はそう言うと、慈しむ手つきでミールの髪を撫でた。
「うっ、ふっ、うううっ」
仰向けで青年を見上げていたミールの瞳に涙は溢れ、涙は間を置かず睫を決壊し、彼女の頬を伝った。
「そんなに自分を責めないで。今となってはこれはコレで良かったと、私は思っているんだ。君は私の作り給うた者。私は君を愛し、君の為す事も、君の為した事も、共に愛すよ」
「アングバンド様ぁ! あああああぁぁぁー」
長い年月この世に在った人形は、いつしか心を持ち、その心の侭に、ミールは泣いた。
アングバンドと呼ばれた青年は、彼女の泣き止むまでの、それは長い間、彼女を撫で、彼女を慰めた。
「……ここは?」
しばらくの後、ミールはおずおずと青年に問うた。
「君の仮説は?」
「……『夢』……でしょうか? 眠った者が見ると云う」
「んー、厳密に言うとちょっと違うけど、大体あっているよ。ここは、私の新しい借り住まい。昨日まで私は、ティータの龍炉に魂魄を宿らせ過ごしてきた。しかし彼女は死んで、狂った神々の集う『棋戦の間』に帰ってしまった。私もその時に消滅するはずだったのだが、死の直前に我が息子がティータの元を訪ねたのが幸いした。私は息子に乗り移り、息子の龍炉に宿った。ここは、ヤシン王兄の炉の中だよ」
青年は、長椅子に寄せて配置された小テーブルに置かれた、湯気の立つカップの香茶を啜った。
「まあ、ここでは時間はあまり関係ない。ゆっくり休みなさい。君の喜ぶことをしてあげる。どうだい? せっかく生身の体を手に入れたんだ。私と交合でもしてみようか?」
無邪気な笑顔で青年は言う。
「お戯れを。ティータ様が悲しまれます」
ミールはクスリと笑い、そう言うと、吹っ切れたような表情で彼から離れ立ち上がった。
「それより、このあとの指針をお聞かせください。私達はこの地で何を成せば良いのかを」
ミールの温もりを惜しみ、少し残念そうな青年も立ち上がった。
「……教えないよ」
「???」
「……だって僕抜きでなんとか出来るから、僕の息子を起こしたんだろ? 僕はもう『操作者』と同じ。より楽しくなるようにちょっかいは出すかもしれないけど、ああしろ、こうしろは言わないよ」
「そんな……、」
青年は意地悪そうな笑顔で、困惑するミールの頬をプニプニと突く。
「ミール。疲れたら眠るんだよ。そして僕に会いに来て……」
青年は、ミールの目の前でどんどん幼くなり、その姿はヤシンと全く同じになった。
「お坊っちゃま……?」
「ミール、、」
「ミール、、」
「……」
「……」
「ミール!」
「ミール!!」
「……アングバンド……様?」
「ミール! しっかりして!!」
ミールはヤシンの腕の中で目を覚ました。
ここは北の灯台塔の下にある港。
昨日の夜、上エルダール達はここから船出をし、キコナインの港に入った頃、少し遅れてヤシン達を乗せた方舟が、キコナイン沖の岩礁を通り、この港に入ったのだ。
ほんの少し遅れたばかりに、上エルダール達とすれ違ってしまった。
「ミール。覚えてる? 僕と話している間に気を失ってしまったんだよ」
「ミール。大丈夫? 青い顔しちゃって」
二日酔いと船酔いで、負けず劣らずの青い顔をしたグレタも、心配げに覗き込んでいる。
「……すいません。お坊っちゃま。失礼しました」
慌ててミールは立ち上がった。
「今は? そして、状況は?」
その、ミールの問いには、方舟の船員、『方舟の姉妹』の筆頭、ミールが『離宮の惨劇』で傷つく以前の姿そっくりな『5号』が答える。
「大御姉様。今偵察のため、ゾファー王子とゾルティア様、カルンドゥーム卿とダリオスと25号が出ております。彼らなら単体でも全軍を相手にできます」
「……まさか、何処か一方に与力するために」
「いいえ。争いを止め、戦争を煽る敵を倒すためです」
「……争いを煽る敵?」
「昨晩、ゾルティア様が海峡で戦った魔道士。恐らくウンバアルの稲妻使い『トルバヌス・アルバヌウス』です」
「トルバ……?」
聞き慣れぬ名にミールは首をかしげる。
「あの、一つ心配なことが……」
方舟の姉妹。
以前のミールと似た顔立ちだが、髪を後ろで束ね馬の尾のように垂らした『8号』が発言する。
「なあに? 8号?」
5号に促され、8号は言葉を続ける。
「ダリオスが、船を転進させ、キコナインではなくこちらに入れたことを、酷く気に病んでいました。……そのせいで戦闘が起こる前に、止めることが出来なかったのだと、、」
「そんな、詮無き事に……」
「兎に角、偵察隊が情報を持ち帰るまで我らは越冬の準備をしましょう」
ミールは組分けをし、大陸から持ち込んだ積み荷や、オーマから移した食糧の検分を始めた。
クリム・ドウランが、矢に撃たれ、北の灯台塔が海竜に破壊され、ゾンダークは死に、夜が明けて方舟は新生魔道王と共に北之島に辿り着いた。
しかし、灯台のエルダールはキコナインに向かい未だ帰還せず、戦いの趨勢も不明だった。
『ザッザッザッ』
森の中を得体の知れない多脚の怪物が駆け抜ける。
下草も灌木をも蹴散らしながら、馬に勝る早さで突き進んで行く。
体は豹紋の浮かび上がる生々しい軟体。
それは蛸の体だった。
八本の足は先に行くほど固くなり、まるで蜘蛛のそれのようだった。
八本の足を疾駆する馬の足のように動かして、方舟の船頭、九頭竜のダリオスは駆けに駆けた。
「……ワイのせいや! ワイの……。ワイがそのまんまキコナインに船入れとったら、こんなヤヤコシイ事にはならんかったんや!」
ド派手な赤黒模様の神輿に足が生えて、勝手に走り出したような不気味さで、ダリオスはキコナイン村を目指す。
「ダリちゃん。ダリちゃんのせいじゃないよう! だけど喧嘩は止めないとね」
ダリオスの八脚の根本、その集中点に突き刺さるように、一体の魔道人形がぶら下がっていた。
彼女は、九頭竜ダリオスのガールフレンド、方舟の姉妹25号、通称『ニコちゃん』。
タコを被ったメイドなのか?
メイドに喰らいついたタコなのか?
二人は森を抜け、キコナインの十字路に差し掛かった。