越冬 Ⅵ
生きる。
ただ、それだけの事に、多大な労力が必要なこの地で、『狩人』とは男が行うすべての職能を内包した生業だった。
生きる糧を得る。
危険な『獣』や侵入者から村を守る。
罠の設置、
道具と製作と整備、
狩り場の取り決め、
獲物の分配。
狩人の仕事は多岐にわたる。
北之島南西、この地一帯で、狩人として『ヤイチャロイキ』名は知れ渡っていた。
彼こそ最強の狩人である。
エルダールの存在すら知らぬゴンドオルのエダイン達ですら、名は知らずとも、彼の事を知る者が多い。
ワラグリアでは近年、エルダールの風俗を記した旅行記の写本が、貴族を中心に読まれている。
魔道士が北之島を旅した時の見聞録なのだが、その旅行記に収蔵されていた、魔道士が現地で見描きした絵が、色付きの版画として複製され売られていた。
『北夷飛竜討滅図』
荒服の戦士が、竜に矢を射掛ける勇ましい様子を描いた錦絵を、武門を志す男子に贈る風習がワラグリア北部を中心に流行し、瞬く間に王都のめざとい貴族まで真似をするようになった。
絵の由来も、どの地方の人々の、いつの出来事なのかも判らないまま、模造品を含め、おびただしい数が刷られ、模倣された。
その錦絵の素となったのは彼である。
上エルダールと共存する、下エルダールの世界では異端であるキコナイン村が、はるかに人口の多いシラトリ村と対等に縄張りの取り決めができるのも、彼の存在かあるからだ。
飛竜を狩る。
狩人の世界で、夢物語と同義語の至難事を成し遂げたヤイチャロイキは、北方世界随一の勇者だった。
その、竜殺しの若武者も今は昔。
もう若くはない彼が後継者として育てていたのがアムルイである。
キコナインの旧市街でアムルイが凶行に走り、リングロスヒアによって捕縛される一部始終を、ヤイチャロイキは暗闇に潜み見ていた。
彼の油断ない視線は、アムルイの瞳に宿る歪な狂気を察知したが、彼の暴走を止めるには間に合わなかった。
アムルイは、年の離れたイトゥラリエンに恋慕の情を寄せていた。
しかし、イトゥラリエンの心は既に彼岸の呼び声に囚われ、誰にも向いて
はいなかった。
彼女は、彼女を連れ出すことが出来得る者なら、誰彼構わず声をかけ、そうすることを懇願した。
イトゥラリエンの父であるリングロスヒアの、彼女に対する愛情は一種異常であった。
彼は彼女を上エルダールの娘として、下エルダールの社会から完全に隔離した。
下エルダールの年齢的基準では、とうに成人し、夫を得るような年齢になっても、父親は彼女を少女として扱い、孫を得るような年齢も過ぎ、下エルダールの女達が死期を悟る時節になっても、深窓の姫君は少女のままだった。
リングロスヒアは彼の持つ医療魔法の知識から、何らかの抗齢術を編み出し、彼女に施していたらしい。
アムルイは一度イトゥラリエンをリングロスヒアの屋敷から拐い、彼女を荒野へ連れ出したことがある。
結局数日後に彼はイトゥラリエンをリングロスヒアの元に連れ帰った。
数日間の逃避行で二人の間に何があり、何故帰ってきたのか、二人は黙して語らなかった。
イトゥラリエンの嘆願でアムルイは罪には問われず、その後暫くはイトゥラリエンも落ち着いた状態が続いた。
しかし、南より、エダインであるワラグリア兵が多数訪れた時、彼女の心は再び均衡を失い、屋敷を出入りするドウランやガイウスに、駆け落ちの誘いともとれる言葉をかけていた。
モレヤとヤイチャロイキは見誤った。
アムルイは憎んでいた。
諍いの賠償として少女を取引し、結局見放した自分から見て二世代前の下エルダールを。
イトゥラリエンから下エルダールとして生きるすべを奪い、石の町に幽閉した上エルダールを。
アムルイは、ワラグリアの敗残兵にも悪態をついていたが、本当のところ彼の敗残兵へ向けられた怒りは、イトゥラリエンへの接近故であり、彼は終始イトゥラリエンしか見ていなかったのだ。
アムルイは、善悪の彼岸を越し、イトゥラリエンの望みを叶えた。
生死の瀬戸際に臨し、土壇場で生を選び、生への逃走を始めた彼女に、あの逃避行の夜、密かに交わされた神聖な誓いを無理矢理守らせたのだ。
ヤイチャロイキは、アムルイがすぐには殺されない事を確認して、それでも、まだ暗い茂みに潜み続けた。
彼の猛禽類のような目が何かを追っている。
アムルイに細く微かに絡み付く、紫電のようなモノを関知した。
────なにか、邪な働きかけがあったか……。
ヤイチャロイキの視線は、アムルイから細く伸びる紫電の流れを眼で追っていた。
それは、台地を登り、東へ向かっていた。
────廃城、灯台か……。
広場から動きだし、港へ向かう魔道騎士人形に続くように、上エルダールがフラフラと歩く広場を後にして、ヤイチャロイキは崖に向かう。
崖には数ヶ所、非常時に使う梯子かけてあり、東側にあるその一つを、彼は素早く音もなく登り始めた。
石階段を上りきったモレヤは一旦足をとめて、肩を寄せ合うように建つ目の前の下エルダールの家の群れから東に視線を転じた。
キコナイン村が管理する森を挟み、近くで見ればなかなか高いが、森を挟むと頂しか見えない山があり、その山の中腹辺りに廃城がある。
森の中を東に伸びる道は、廃城の先まで続き、やがて北の灯台塔へ至る。
モレヤからは、森の樹に隠れ廃城は見えない。
しかし、廃城のある辺りから何か『気焔』の様なものが立ち昇り、切り裂く風の音、森が風に揺られて発するザワザワとした木々の声に混じり、切迫した男達の声が聞こえたように思えた。
「……エダインの殺気を感じる」
さらに身を乗り出そうとした時、旧市街から階段を駆け登る、甲冑のけたたましい音が近付いてきたので、モレヤは立ち木の並ぶ森り口から、森に数歩足を踏み入れ、樹の影に潜んだ。
「ハアハアハア……」
息せき切って登ってきたのは、ワラグリアの騎士クリム・ドウランであった。
「……」
モレヤは気配を消して密かに動向を窺う。
「うううっ、」
ドウランは、階段を登りきったところで膝を突き、胸を押さえてうずくまった。
モレヤは思わず潜んでいた茂みから飛び出して、ドウランの元へ駆け出した。
「どうした?! ワラグリアの騎士。何を急いでいる? もう一人はどうした?」
地に伏そうとするドウランの肩を抱いて起こし、モレヤは尋ねる。
「モ、モレヤ殿か……。我が副官ガイウスは貴殿の隣りにいた戦士に射殺された。……貴殿の差し金ではないのか?」
切れぎれの息でドウランが言った言葉にモレヤは衝撃を受けた。
「リングロスヒア殿の娘イトゥラリエン殿も殺され、私も胸を射られたが、私だけが魔法で癒された」
ドウランの、魔道人形によって引きちぎられた胴丸と、その下の帷子に空いた穴から覗く胸には、小さな矢傷があり、そこが今まさに再び破れ血が滲み出そうとしている。
「……もし、この襲撃が下エルダールの総意ではないというのであれば、どうか力を貸してほしい! 私を廃城まで……ガフッ!」
ドウランは喀血する。
「この、ままでは、争いが起こる。止めねば……」
「……」
ドウランは気絶した。
モレヤは西のキコナイン村を見た。
そして東の森越しに見える山の頂を見た。
「キコナインの村衆よ! 襲撃に備えよ! 森に潜め! 足弱を見棄てるな!!」
モレヤは大声で村の方に向かってそう言うと、ドウランを担いで森の中へ踏み入った。




