越冬 Ⅰ
その日、キコナインの町は日没頃から雪が降り出した。
冬の始まりに降る水気の多い大振りの雪は、先程までの雨で濡れた地面に落ちた途端に消えていったが、北風が吹き込んでくると辺りの気温はどんどん下がり、落ちた雪が溶け消えるまでの時間が少しずつ長くなっていった。
とうとう先の雪が消える前に、後の雪がそれに乗り上げ、それらは積み重なっていった。
さらに冷気が強まると、船泊の木枠の上、古い古い石畳の上、海を鎮めるために呪い師の奉じた御幣の上など、水捌けの良いところでは、雪が積もりだし、時折強く吹く風に吹き飛ばされるまで、白い塊を作っていた。
近年冬の訪れは遅くなり、この雪もまだ根雪にはならないであろうとモレヤは予想する。
キコナインには、二種類のエルダールが住んでいる。
エルダールとは、『長命人』と後年呼ばれることになる、寿命の無い人間の事を指す。
老いることが無く、病毒によく耐え、重大な怪我や傷を負わなければ永劫に生き続ける人間である。
竜がこの世界を物理的に形作った種族だとするならば、エルダールはこの世界の摂理を整えた種族であったと伝えられる。
神が与え、天龍が用いた原初の力を、『身口意』つまり体の働き、言葉、意志の力として発露させる、魔術の基本原理を解きあかし、『魔法使い』という職能を生んだのはエルダールだった。
彼らエルダールは竜の次に、この世界に現れたという。
言語、文化、統治、人の営みの基礎を整え、船を作り、様々な土地を探索したエルダールであったが、不死の血統は、後に勃発した海竜との戦争で大部分が失われ、僅かの生き残りが細々と命脈を保つ一方、血統自体が衰微し、不死性を無くしたエルダールも多かった。
ちなみに、普通の人間をこの時代には『エダイン』と呼んでいた。
言葉を解し、文化を育む種族が多数あるこの世界で、後発の種族エダインは、強力で偉大な戦士達の激突に紛れ込んだ子供のように翻弄されるばかりだった。
キコナインの町がある『北之島』は、エルダールが最初に現れた場所と伝えられている。
エルダールはここから船を出し、当時東にあった大陸に移り住み、そこに『アルノオル』という国を作った。
その過程でエルダールは二つに分かれることとなる。
二種のエルダールとは、まず、オーマから移り住んだ『上エルダール』。
太古の昔、上級王の呼び掛けに答え、北之島を脱し、王と共に東の大陸に赴いたエルダール達である。
上級王とは、アルノオルの建国時からアルノオルの只一人の王として、海竜との戦いでアルノオルが滅亡するまでの間統治した偉大なるエルダールの王『フェアノオル』のことを指す。
アルノオルの最盛期、エルダール達が植民都市を沿岸に次々と創建した時代。
アルノオル本国から移住し、オーマに都市を作った者達がいた。
そして、そのオーマの住人の一部が、対岸の北之島に謂わば里帰りし、移り住んたのがキコナインの歴史の始まりである。
アルノオルの遺臣達を上エルダールと呼ぶ。
海竜との戦争の末期、アルノオルの位置する東の大陸と共に、上エルダールの大半は海に没した。
各地に散らばった植民地も、本国の滅亡を契機に、海竜との和解を待たずに攻め滅ぼされたり、現地人との混血でエルダールの力を失い、エダインと区別のつかぬ種族の集落となった都市もある。
北方より渡来した『魔道王ヤシン』が暫く滞在したことにより、オーマとキコナインは、凋落するエルダール植民地の中では、命脈を保った方であった。
魔道王のとりなしで海竜との盟約が成された後、上のエルダール達は再び外洋に船を出した。
アルノオルのエルダールが船を出すのは、専ら探検と征服のためであったが、魔道王は、別の目的で航海をすることをエルダールに勧めた。
『交易』である。
『方舟』と呼ばれる全天候型の大型外洋船が何隻か建造され、海竜の協力を得て、エダインの国ワラグリアや、ワラグリアの南に建国された魔道王の新興国ゴンドオルとの物資の交換が盛んに行われた。
さらに、西海に散らばる島国や、アルノオル大陸の没落後に勃興した、さらに東にある大陸のエダインの国との交易も行った。
上エルダールの着る服の絹地や、彼らの好む葡萄酒は、遥か東の大陸から入手している。
しかし、彼ら上エルダールの人口は、平和な世にあっても増えることはなく、北之島で飛竜や野獣との戦いで命を落とす者、航海のはて、オーマの港に帰らず方舟ごと消息を絶つ者は多かった。
上エルダールは、長身で肌が白くほとんどの者が直毛の銀髪だった。
感情をあまり表には出さず、老人はいなかった。
長い時間をかけて成人し、成人後に老いることがないのだ。
蚕の繭糸で織られた秀麗な衣服をまとい、冬は羊毛のフェルトで作られたコートやマントを羽織ることがある。
病気と無縁で、華奢な体に似合わず怪力、あらゆる体術に精通していた。
しかし、不老不死の身故か、子供を授かることはごく稀であった。
時代が過ぎ、大乱の時代が過ぎ、エダイン、つまり人間の時代が始まって、全てのエルダールがこの世界を去った後に、エルダールは下位の神として、伝説の中で語られる存在となる。
船泊のある海岸線は当然海抜が低く、北之島の高い大地まで急で長い坂が続いている。
古い石造りの町を見下ろす、坂を上りきった高台には、ハンノキなどで木組みをし、屋根や壁を茅で分厚く覆った木造住居に『下エルダール』が住んでいた。
太古の昔、フェアノオルの呼び掛けを拒み北之島に留まった結果、高度な魔法文明の恩恵を受けること無く、広野や森で狩猟をして、太古と変わらぬ暮らしている者達である。
キコナインの町も今となっては人口の大半はこの北之島土着の下エルダールで、残り少ない上エルダール達の大部分は、港周辺の旧市街に住んでいた。
下エルダールは、上エルダールと似た白い肌を持つが、彼等ほど背が高くはなく、人間から見れば、少年少女に見えた。
上エルダールと違い銀髪は稀で、大概髪は金色をしている。
森の木々や葉の色に似せて、季節で服装の色を変えるので、森のなかで下エルダールを見つけるのは容易いことではない。
上エルダールと同じく、老いることはないが、定命を持つエダインと同じく、子を成し、その子が成人し、その子に子が生まれる頃には、命を失う定めを負っている。
大抵の男は狩で命を落とす。
そんなとき『山の神の供物となる』と彼らは言う。
女もある時期が来ると人知れず山に分け入り集落へは帰らなくなる。
そんなときも『山の神の供物となる』と彼らは言う。
また、難産が多く、出産時に命を落とす女も多い。
彼らは弓矢の名手で、呪文は知らずとも、その一撃には魔力が宿っているのか、遠射、曲射、樹上射、自由自在で、特に『気』を込めて放つ『遠当て』は、まるで標的を追いかけるように飛び、射られた者は剣や盾で払い落とすか、急所以外に自分からわざと当たりに行くしか生き残る術はないと云われている。
キコナインの町は、道を分けた二種のエルダールが同居する唯一の町であった。
上エルダールと下エルダール。
彼らは近くで暮らしているが、お互い干渉することは少なく、上エルダールは主に海で、下エルダールは主に高台の原野で、それぞれ生活の糧を得ていた。
旧市街の石組みの家屋は暖房に魔力を使う必要があり、呪文を知らぬ下エルダールが住むことが無かった。
上エルダールも、下エルダールの家屋を『掘っ建て小屋』などと呼び、入ることさえ忌避する者が多かった。
『キコナインの町』と云うのは、上記の理由から厳密には上エルダールの住まう港周辺海岸の旧市街を指し、高台の、下エルダールが住まう集落は『キコナイン村』と呼んだ。
金髪美しきキコナイン村の村長の娘『モレヤ』は、言問の使として、護衛の男衆を二人連れて港までの坂道を下っていった。
互いに不干渉が日常の上エルダールと下エルダールであるが、ここ数年不和が生じ、関係は悪化している。
主な原因は南からやって来たゴンドオル旧北領の敗残兵にある。
方舟の往来も少なくなったとはいえ、上エルダールとゴンドオル旧北領、ワラグリア地方とは長年の交流があり、その縁ゆえにオーマの上エルダールは敗残兵を匿い、方舟で北之島に渡した。
しかし、負傷兵を取り残してまで本土を後にした敗残兵達が恐れていたゴンドオルの兵馬は、いつまで待っても現れなかった。
昨年の、いわゆる『離宮の惨劇』の首謀者として、ゴンドオル国民の信を失い、貴族の不興を買い、宰相ニコラウスが一時的に失脚したことで、ワラグリア諸侯同盟討滅の兵はオーマまでは来ず、さらに、ゴンドオル新王シムイの臣下として、北領公ウィストリアと懇意のヤシン王兄がやって来るとの知らせもあり、キコナインで冬越しをした旧北領の敗残兵達は、再び南へ渡り、オーマ周辺の森林地帯を開墾し、ワラグリア再興の足掛かりを作ろうと計画していた矢先だった。
結局のところ、彼ら敗残兵の楽観的な見立ては誤っていた。
ニコラウスは、ゴンドオルの兵を動かせないので、表向きは交戦をしている彼の生国のウンバアルの騎馬兵団をひそかに動員し、兵を偽装させた上でゴンドオル王家の旗を掲げさせ北に進めていたのだ。
後に述べるが、この兵団も壊滅し、オーマにたどり着くことはなかったが、ニコラウスの意志が、依然北を向いていたことは確かであった。
北之島に渡海した500人程の敗残兵は、当初、キコナインの町の旧市街、石の家に滞在していた。
兵達は、指揮官の厳命の元、規律を守り訓練を行い、キコナイン村の許しを得て森林を伐採し、木材を港まで下ろし、上エルダールの指導で大型の輸送船の建造をしていた。
敗残兵とエルダールの関係はおおむね良好だった。
『クリム・ドウラン』という名の敗残兵の指揮官は人格者で、兵をまとめ規律を守らせ、エルダールとの軋轢を最小限にとどめていたのだ。
しかし、ひとつの事件をきっかけに、事態は急変する。
敗残兵の一人が、キコナイン村の女を拐かしたのだ。
その、下エルダールの女は、夫も子もある夫人だった。
事件は指揮官ドウランの知るところとなり、主犯者は斬首され、女は村へ返されたが、貞節を失った絶望から、女はその日のうちに断崖から身を投げ死んでしまった。
数日後、夜に一人で出歩いていた兵が行方不明になる事件が起こり、射殺された上、海に投げ捨てられたのか、海岸の岩場で死体となって発見された。
そのような事があっても、上のエルダールのとりなしと、ドウランの制止で、最悪の事態は避けられていたが、敗残兵と下のエルダールの関係は険悪なものとなっていた。
上エルダールとドウランは協議し、敗残兵を移動することにした。
上エルダールはキコナイン村から離れた古い砦跡を宿営地として提供した。
敗残兵の輸送船は上エルダールが引き続き造り、春になり次第、その船でオーマへ戻ると云うことで敗残兵も下エルダールも合意したが、上エルダールが招き入れた敗残兵が、死人まで出した事件を起こした事で、敗残兵ばかりか上エルダールに不信感を抱く下エルダールも多くあった。
近々北之島へ来ると云うオーマの方舟に敗残兵を乗せて、春を待たずにこの地から退去させる。
それが下エルダールの総意として、言上されるのだ。
「たとえ本土人だろうと、我らは困っている者を助け、この地で生きるやり方を教える。しかしあの南の侍達ときたら、この地で生きる覚悟もなく、南での戦の事ばかり口にしている。我らの蓄えを喰らうその口でだ! 『シトリリ』もあてにはならん」
モレヤに付き従う下エルダールの若い狩人は、吐き捨てるように言った。
シトリリとは、上エルダールを揶揄して呼ぶ時に下エルダールが使う言葉で、『のっぽ』程度の意味である。
「遥か昔、我らの祖先は北から来たカンナ・カミィから様々な教えを受けた。そのカンナ・カミィが南へ去り、本土人の国を作ったと言い伝えにはある。太古から生きる上エルダール達は、そのカンナ・カミィを崇めているのだ」
モレヤは激昂する若い狩人に諭すように言う。
若いと言っても、外見は三人とも人間から見れば少年少女にしか見えない。
振る舞いや服装の装飾などで、下エルダール同士ならば大体の歳が解るものらしい。
「カンナ・カミィと言えば、最近シラトリ村に、雷を操る本土人が来訪し、北方で暴れるウェン・カミィを狩っているという。シラトリ村の古老達は、カンナ・カミィの再来だとその本土人を拝め、凱旋の度に祭を行っているらしい。シラトリの使者が、お前の父君にもオムシャを促していたぞ」
もう一人の年嵩の狩人がモレヤに話しかける。
「ああ、それは知っている。その本土人は、我らキコナインの下エルダールに、アルノオルの上エルダールからの庇護を離れ、カンナ・カミィ化身たる自分の庇護に入れと、言下ろししているらしい」
石を蹴飛ばしながらつまらなそうにモレヤはそう言うと、ちょうど坂を下りきったところで、三人の目の前には旧市街の境界、石門がそびえていた。
「さて、ここからは上エルダールの町神の領域。町神もお聞きになる。慎もうではないか」
年嵩のエルダールがそう言うと、三人は揃って石門を通過した。