海峡 ⅩⅩⅨ
北之島南端の町『キコナイン』。
町のすぐ脇を流れるキコナイン川(「潮飲川」の意。河口部の干満の差が激しく、海水が逆流する事があるために名付けられた。現地の言葉で「ナイン」が「川」なので、正確にはキコ川)が海に注ぐ位置にある。
北之島の南沿岸、キコナイン周辺の沖には、陸地を縁取る帯のように岩礁があり、船を通すことが出来る場所は限られている。地元の船頭でないと、特に大型船を入れるのは難しい。
ダリオスの操る方舟は、その岩礁の隙間を難なく通過した後、真っ直ぐキコナインの港には向かわず、進路を東に向けた。
岩礁を過ぎた辺りで、朝日が海から顔を出し、まぶしい朝焼けに照された海面は、方舟を黒く際立たせた。
海鳥達が物珍しげに方舟に集まり、甲板に降り立ったり、上空をくるくると旋回したりした。
「ギャアギャア」と海鳥は喧しかった。
ダリオスへの差し入れとして壷酒を持参した5号が、天窓から再び甲板に上がってきた。
「真っ直ぐキコナインには行かないのですね」5号は酒の入った壷をダリオスに渡し、海鳥を眺めながら言った。
「昨日の夜ゾンダークが北の灯台塔を襲ったんを、キコナインの町衆は遠くに見とったんとちゃうかの? それにゾンダークとゾファー王子やゾルティアがこの沖で戦っとんのも見たかも知れへん。南の灯台塔が隣接するオーマと違って、キコナインの町は、北の灯台塔からだいぶ離れとるが、今、海竜連れてキコナインに方舟を入れるんは得策やない」
骸骨の体はそのままに、自由になる数本の足を伸ばして酒樽を受けとりながら、ダリオスは言った。
「エルダラン様の話では、キコナインの町はワラグリアの敗残兵が渡ってから、色々問題があるらしいですね」
「せやな。エダインとエルダール、特に北之島に元々住んどったエルダールと悶着起こして、ワラグリアの敗残兵はキコナインの町をおん出されたらしいの。内陸の高台にある古い砦跡を占拠して、山賊みたいになっとるらしい」
甲板にしゃがみ込み、ダリオスと5号は並んで海岸の崖を眺めている。
北の灯台塔はキコナインの町から陸路だと徒歩で一日かかる。
岩礁と切り立った海岸の崖との狭い狭間を、大きな方舟が通過して行く。
「!?」
前方で方舟に繋いだ綱を引いていた海竜が不意に止まり、張っていた綱が緩み海に沈んでいった。
「ありゃ! こりゃいかんの!」
ダリオスは前面の光景を眺めてピシャリと頭を叩いた。
昨日の竜の襲撃で、北の灯台塔は基部を残して崩落していた。灯台基部や近くの下草灌木は未だ燻ぶり、煙は崖上の強風に吹かれ散り散りになっている。
白い石組みで建てられた灯台の上部は半ば崩れて、灯台の丁度真下にある方舟の進路、船泊へと続く細い水路を埋めてしまっていた。
「どうします? キコナインまで引き返しますか?」
5号が問うとダリオスは首を振った。
「…………うんにゃ。船は入れる。今、この船には、他でもない魔道王、ヤシンの坊っちゃん乗ってはる。それに、他のお客はんも、旅の後オーマで焼け出されて慌てて船乗った人達や。これ以上待たせたり、怖がらせたりは無しや!」
ダリオスは矛を傍らに置き屈伸運動などを始めた。
「でも、どうするの?」
ダリオスは身に纏っていると云うか、纏わり付いているというか、絡み付いている骨を離し、骨の山とぐにゃぐにゃの水蛸の本体に分かれた。
「5号ちゃん。骨、拾っといて」
どうやって声を出しているかは不明だが、蛸のダリオスはそう言うと骨の山を残し甲板の縁の方へと向かった。
「そこいたら水被るから、骨拾うたら方舟ん中入って天窓閉めとき」
「は、はい……。ダリオス。本当に大丈夫なの? 誰か呼んでくる?」
ダリオスの骨を拾いながら5号は尋ねる。
「『船頭多くして船、山を上る』言うやろ。九頭竜ダリオス、今はこんなんな酔っ払いでも、昔はここらの海でブイブイ言わした旧支配者や。こんな瓦礫すぐに退かしたるぁ! ……いんや、これからこの辺りも物騒になりそうや。方舟はしばらく封印しとこ。いい機会や、瓦礫はそのままに、方舟をこのまま船泊にブチ込んだるぁ!」
そう言うとダリオスはポチャンと海に入った。
「あわわわわわ、ちょちょちょとととまままっっってててて」
方舟の周りの海が、振動と共に波打ち始め、5号はへっぴり腰でダリオス骨を抱えて天窓までヨタヨタと歩いていった。
「あー、海竜の皆さん。ちょっと離れとって下さい。船、片しますさかい」
5号がやっとのことで船内に待避した頃には、海は泡立ち始めていた。
海の色は急に変色し、赤地に黒のまだら模様に変わった。
「狭!」
ダリオスの声は、辺りを響もす大音声となって、南岸の崖に当たり南へ響いた。
「持ち上げるで!!!」
ダリオスの声と共に、方舟の右舷と左舷から前後二本づつ、計四本の巨大な蛸の脚が海中から天に向かって伸び、前後二本づつの足が、まるで抱き締めるように方舟に絡み付いた。
「は、どっこいしょ!!」
巨大な蛸が方舟を頭に乗せて海中から立ち上がった。
海竜の二十倍はありそうな体をくねらせて灯台塔の瓦礫を乗り越え、帽子のように頭に乗せていた方舟をそっと係留岸壁の近くに下ろした。
海竜達は蜘蛛の子を散らすように船泊から離れていった。
巨大な蛸は、辺りから大岩をひょいひょいと拾い上げ、小型船ならば通れそうだった岩礁の狭間を埋めてしまった。
「うーん。こんなもんかの」
自作の潮溜まりの出来映えに満足すると、ダリオスは海中に没した。
方舟に船内。
厠の内室。
個室の扉の前に北領姫グレタとガルボ家メイド長ハンナが立ち、個室内部の様子をうかがっている。
「…………」
「……どう?」
「……どう、と言われても……」
「……どれ、ハンナが擦ってさしあげますから、入れて下さいまし」
「いまさら恥ずかしがってんじゃないわよミール。……何ならあたしが目の前でやって見せようか? 」
「い、いえ! 自力で何とかします! 事象としてはお坊っちゃまを始め王室の方々のお世話で何度も見ておりますし、……どこから出てくるのかとか、原理は理解しています。……まさか、自分で行うことになるとは思ってみませんでしたが……」
「なんで解かんないの? 赤ん坊の時には、ジャジャ漏れだったんじゃない……ああ、赤ん坊の時なんてミールには無いのか……。……兎に角開くのよ。水門みたいなもんをパカーンって」
「何て云えばよろしいですかねぇ。わたしの感覚では『開く』と云うより普段閉じているものを緩ますって感じかしらねぇ」
「おしりの穴をキュっとするのに近いわ。ねぇハンナ」
「お、おしりですか?」
「そうでしょうか? 姫様」
「わかったわミール! 私がおしりの穴に指を突っ込んであげるわ! それで感覚をつかんで!」
「姫様……。なんの意味があるのですか?」
「あっ、ちょっと待ってください! 何かが」
「来た?」
「来ましたか?」
「ああっ」
「…………」
「方舟は北之島灯台の船泊に入港しました。重力、慣性制御を解除します。シル・パランからの魔力供給停止。艦内大型魔力球へ切り替えます。空調、光源、上下水道、バラストレベル維持……停泊モードに移行します」
ボロボロに崩れかけた人形だった方舟の姉妹達は、航海の最中ヤシンに癒してもらい美しい姿を取り戻したが、一人だけ持ち場を離れることが出来ず壊れかけの魔道人形のままの姉妹がいた。
25号である。ちなみに愛称はニコちゃん。
彼女は方舟の操舵手で、操舵室に一人、据え付けられた制御用の大宝玉二つにそれぞれの手を添えて、不動の姿勢のまま航海を終えた。
「ニコちゃん。ご苦労様」
操舵室に5号が入ってきた。
ニコちゃんは咄嗟に傍らに置いてあるかわいいタコの姿を模した帽子に手をかけるが、入ってきたのが5号だと判ると安堵の溜め息をつき、その手を戻した。
「お、お、お姉さま」
代わる代わるに休眠していた他の姉妹と違い、方舟の運航を担っているニコちゃんは、方舟の建造と共に生まれ、以後不休で稼働を続けていたため、特に損傷が酷かった。
頭髪をすべて失い、頭部は表皮が失われ、骨格が剥き出しになり、手足もひび割れがひどかった。
服装は他の姉妹達が気にかけ綺麗なものを着ていたが、容姿を気にし、すっかり引っ込み思案になってしまったニコちゃんは、方舟の姉妹と一部の人以外に会うことを恐れるようになった。
「お邪魔しまーす……」
5号の後ろからヤシン顔を出す。
「ひぃ! まっまっまっ魔道王陛下!!」
ニコちゃんは、慌てて帽子を被り、5号の後ろに回ってヤシンの視界から隠れようとした。
「君で最後だね。さあ、こっちに来て」
両手を差し出しニコちゃんの手をとろうとするヤシン。
「あわわわわ、はわわわわわ、」
しかし、ニコちゃんはオロオロするばかりで、一向に5号の影から離れない。
「恥ずかしがらないでこっちに来て。ずっと働いていた君達に今の僕にはこれしか出来ないんだ」
「あうう……」
疑うことを知らないヤシンの真っ直ぐな瞳に見詰められ、逃げ場を失ったニコちゃんは、とうとう観念しすごすご前に出た。
「こうすると早く良くなることが判ったんだ。ゴメンね」
そう言うとヤシンはニコちゃんを抱き締めた。
「ひゃわわわわわーー!」
ニコちゃんは頭部を無意味に回転させた。
『パキン、パキン』
澄んだガラスの割れるような音がする。
ヤシンの髪が逆立ち、光の粒子のような物がヤシンの周囲を漂い始める。
最初の数人には唱えていた、エルダランの唱じた呪文も、既に詠唱を省略しても効果があることを知ったヤシンは、ただ瞑目し、力の奔流が胸の辺りから両手の掌まで移動することを意識した。
「ひゃう!」
ニコちゃんの体が光を放ち始め、光量は忽ち直視できないまで輝きを増した。
「さあ、思い出して。生まれたときの君の姿を……」
ヤシン囁きを耳元で聞きながらニコちゃんは失神した。
「……ああ、」
5号が失望の声をあげる。
「……あ、手が綺麗……」
気が付いたニコちゃんが自分の手を見ながら言った。
「ああ、……ゴメン。髪の毛は……」
ヤシンは泣きそうな声でそこまで言うと声を詰まらせた。
ニコちゃんの体は、他の姉妹と同じように製造されたときの美しさを取り戻したが、髪の毛は失われたまま、元には戻らなかった。
「……」
唇を噛み締めながら、5号はニコちゃんに手鏡を向ける。
「……いいの。それでも嬉しい。お顔は戻ったもの。私にはこのダリちゃん帽子があるもの……」
タコの帽子を被ってニコちゃんは、にっこり笑った。




