海峡 Ⅱ
「……ヤシン様、包帯をお取り替えいたします」
「いいよ、ミール。自分でやるよ。その腕では無理だよ」
「…………」
北へと向かう百人ばかりの隊列に、数台の馬車。
荷馬車がほとんどで、それぞれ積める限りの荷を積んでいる。
足腰の弱った者や、病人などを運んであるものもある。
そのような荷馬車の中に1台、王都にあった頃は、王族の行幸に用いられた上等の馬車があった。
本来は4頭ほどで引く馬車のはずだが、恐ろしく体躯の大きい、斑のある大馬が1頭で引いている。
この馬には逸話がある。
この馬は、元は前王の持ち馬であった。
気が荒く、前王は在位中結局一度もこの馬に鞍をかけることが出来なかった。
しかし、前王が崩御したとき、馬は飼葉を食べなくなり、ヤシン王兄が王都を出る頃は、痩せさらばえ、歩くにもふらつく有様だった。
新王の傍らに立つ、南の帝国より魔術の顧問として招聘され、現在は宰相の地位にまでなった男は、訝しげな視線で痩せ馬を見ていた。
北領公のヤシン擁立に一度は賛同し、共に軍を興し、王都より南の封土を持つ諸貴族。
結局決定的な場面で裏切り、その裏切り故、最大の功績を上げたように見えた彼らは、せせら笑いをしながら、餞別としてヤシン王兄にこの痩せ馬を贈った。
鞍を付けることも出来ず、よろめき、馬車を引くこともできない。
仕方なく大層苦労をして馬轡をかけ、王兄が自ら引いて、王都の路地を歩き、そのまま王都の北大門を通ってゆく事となった。
王都の住人は、道の端に立ち並び、過ぎ行く王兄を無言で見送った。
ヤシンが手に引く、震えよろめくその痩せ馬に、彼の命運を重ねて見、餓えと寒さの待つ彼の赴く先に、なんの希望も未来もないことが暗示されているようで、関わり合いを避けるように、そそくさとその場を離れる者と、彼の命運のさらに先に、自分たちの未来があるのではという、薄ら寒い考えがよぎり、不安げに王城を見遣る者がいた。
しかし、その痩せ馬は、王都を離れた途端、義理は通し禊は終えたとでもいうのか、あたりの道草を食い漁り、街道沿いの農家の畑に侵入し、芋や人参を盗み食いし、番犬を蹴散らし、人家が疎らになり草原地帯に出ると、隊列から脱走し、丸一昼夜経ち、皆がどこぞに逃げ出してもう帰ってこないと思いだした矢先に、数頭の野生の馬達を引き連れて王者の様に堂々と帰ってきたりした。
北への旅路ですっかり元通りに肥え、更に二周りも大きくなり、今や並ぶ馬達がみんな子供に見えるほどの大きくなってしまった。
あまりの巨体で、釣り合いの取れる相手が無く、仕方無しに1頭で王兄の馬車を引いている。
鞍を付けることを拒み、馬丁とヤシンの言う事しか聞かない。その巨馬の名は『シャドウファクス』という。
日の射さぬ街道を行く馬車の中は暗かった。
悪路でも車内は揺れず、テーブルの盃の中の水も波立たなかった。
恐らく魔法の力が働いていると、カロンは見ているが、そのような技術は、王国では失われて久しい。
大きな馬車を飾っていた調度品の数々は、既に取り払われ、向い合わせの座席とテーブルが有るだけの車内。
片側の座席をベッドにして寝ているのは、新北領公として新しい領地に赴く王兄ヤシン。
頭に包帯を巻き、片目には湿布が貼られている。
痛々しい姿をしているが、金髪の巻き毛をもつ優しげな顔の少年だった。
ヤシン王兄の傍ら、馬車の車内に膝を付き、異形の者が彼に傅いている。
それは、元は少女の姿を模して作られた人形だった。
王宮に何人もいるメイド達が着るものと同じ意匠の、黒を基調としたメイド服と白のエプロンを纏っている。
『ミール』と呼ばれたその異形の者は、膝をついているように見えた。
が、それは錯覚で、彼女には両足共膝から下が無かった。
腕も片方は無事だが、もう片方は手首から先が無かった。
怪我ではない。人形の腕や足が外れたのと同じで、それらがあった場所には丸い穴がポッカリと開いていた。
そして頭。
『ミール』の頭と顔は三分の一ほど無くなっていた。
それは石壁に、リンゴの実を押し付けて力を込めて引いたように、削り取られていた。
頭から頬にかけて大きく欠損し、片方の眼球も失われ、黒い眼窩がポッカリとを口を開けている。元は美しい黒髪だったが、焼け焦げた部分を切ったため少年のように短くなっていた。
更に顔といい腕や足といい、人間の素肌に当たる、目に付く部分には、大小様々な刃の傷が刻まれていた。
美しい黒髪の少女を模して造られているだけに、足や腕に認められる欠落や傷の数々は痛々しく、正視に耐えるものではなかった。
彼女は生命のある人形だった。
美しく造られ、無残にも壊され、汚された人形だった。
「ミール…。そんなに悲しそうな顔をしないで。では、ミールが巻いて。僕が最後に結ぶから」
「はい! ヤシン様」
少女の面影を残すミールは、数少ない動かせる機巧を駆使し、必死に笑顔を作る。
「……文献にはこのあたりの気候のことが記してあるけど、この時期まだ雪が降っていないのは幸運らしい。今年は降雪が遅れているのかな?」
包帯を取り替え終わり、ミールが後片付けをしているのを見ながら、ヤシンは呟いた。
「確かにワラグリアの古い暦では、冬籠りの月ですね。私が王城の外を旅したのは二十世代ほどの前の事ですが、確か海竜の岬までは轌で行き来していましたわ」
「南方の農民の用いていた現在の王国の暦は、太陽の登る高さを元に、『大麦を植える月』とか『稲の苗床を作る月』とか名付けられている。……ミール。ワラグリアの古暦では。今頃を何ていうの?」
「もう随分昔から、それこそ私が出歩いていた頃には、この辺りも王国歴が発布されておりました。……確か、日足が長くなり始める始まりの月から、数えて十一番目の月の名は……モルサスムカ。『海が凍てつく月』という意味で、狩人や漁民は冬小屋に籠り、太陽が再び活力を取り戻すのを祈るのです」
「……。暦が、ズレてきているのかな?」
ヤシンは枕の代わりにしていた古い本を引っ張り出してページを捲ろうとするが、ミールは手のない腕の先端をページに差し込んで止める。
「さあ、坊っちゃま。頭を巡らすのをお止めになって。お熱が引きませんよ。お水を飲んでお休みください」
「ミール…。呼び方」
「あっ、失礼しました……ヤシン様」
「様も要らない」
そう言って王兄ヤシンは寝台に横になり、ミールはヤシンの毛布を首まで上げて胸の上に手を添える。
取り替えたばかりのヤシンの頭に巻かれた包帯は、また血が滲み、両耳の後ろが少し赤くていなった。
眠りにつくまで、ミールは手の無い腕で、ヤシンの頭を撫で続けた。