海峡 ⅩⅩⅤ
払暁迫る海峡は、未だ強風が吹き荒び、波は大地を削り脅かす軍勢の列のように、陸の狭間を走り抜けていった。
南の大陸の海岸線は、多少の岩や起伏はあるものの穏やかな地相だが、北之島は高い断崖絶壁の上に大地が乗っている。
船が拠る場所は限られていて、岩礁も多い。
僅にある泊場も、崖の下にわずかに縁取られた小石混じりの浜しかなく、そこから遥か上の大地まで登る術がない場合が多い。
南からの風は、北之島の断崖にぶつかり、西か東に逃げるしかなく、渦巻く風は高い波を呼び起こした。
小山のような波が絶え間なく生まれては砕けてゆく海面の一角に、不思議と凪いだ一角があり、その一角の中心に大きな方舟が半ば沈みながら北へ向かって進んでいた。
凪いだ一角はまるで追随しているかのように、方舟を追って北上する。
「さても、さても、久しいのぅ。この方舟渡すんは。昔ゃ魔道王様んとこのボンボンやエルダールの殿原や、お忍びで陸をチョロつく、竜の貴族なんぞ乗せたもんや。なつかしぃやー、なつかしぃや」
方舟の上におぞましい姿の異形の怪人が立っている。
一見、血肉がまばらに残る、ほぼ白骨化した人間の死骸のように見える。
洗われたような骨の、黄味がかった白が、まるで黄金のように照り映える一方、頭蓋骨の下から赤黒い蛇の群れのように、いく筋もの縄状の何かが生え伸び骨にまとわりつき、それらは骨と骨を繋ぎ、人体の四肢を括り、先にいくほど糸の様に細くなって特に指には一本一本密に巻き付いて、まるで血塗れの手袋をはいているようだった。
その赤肉の手の片方は、甲板に逆に突き立てられた矛を掴み、それを軸に、まるで踊っているかのようにくるくると回っている。
骸骨の胸、胸骨の中には、赤地に黒のまだら模様の、不気味な肉袋が蠢いている。
怪人の正体は白骨死体に潜り込んだ巨大な蛸だった。
丁度人間の臓物が収まる辺りに蛸の頭があり、その頭の先が頭蓋骨に入り込んで虚ろな髑髏の眼窩から自分の目玉を出し、外れ落ちた下顎骨の代わりにそこから蛸の足が伸びて人骨にまとわり付いているのだ。
「大波にゃ大波ぶつけぇの、小波にゃ小波をかぶせぇの……北風は南風で和ませぇの……」
怪人は、まるで口を水につけたまま喋っているように、ブクブクと水泡混じりの言葉を吐く。
空いている片手を海に向けて振るう度に、その先から色とりどりの光球が放たれる。
それらは海に落ち、方舟に迫る波とぶつかるとそれを鎮め、風に当たると空中で炸裂し、強風を鎮めた。
陸と陸とで狭められた海を、無理矢理わたる波は高かったが、方舟の廻りは凪ぎ、方舟は滑るように進んでいた。
「どうですか? 今はどの辺りです? 『ダリオス』」
甲板の天扉が開き、そこから魔道人形『5号』が顔を出す。
彼女はキョロキョロと辺りを見回した後、骨の怪人に声を掛ける。
「日が昇りきる頃にゃ、キコナインの岩礁を過ぎるよって……って、どないしたん! その顔?」
ダリオスと呼ばれた骨人は、素早く5号の隣まで移動した。
その移動方法は不気味で、一旦バラバラになり、甲板を骨が混じった粘液が流れるように進み、5号の横で再び人の形に組み立てられたように見えた。
5号は思わず悍け「ひい!」と言って体を引っ込めた。
「ほんまに、どないしたん? めっちゃピチピチやんけ! うわー、エエとこのお嬢ちゃんって感じや。惚れてまうやろ~。こりゃ、ぎょうさん声かかんでぇ! なんじゃい、可愛らしい声を出しよって。お前がそんなタマちゃうやろ!」
人間では不可能な角度に手足を曲げながら、ダリオスは5号の顔をよく見ようと首を伸ばす。
「ヤッ、ヤシン様に直していただいたの」
5号は頬を赤らめながら告白する。
「え!? ほんなら記憶戻ったん? 転生に失敗して、魔道王様アッパッパーなった言うとったやんけ!」
詰め寄るダリオスの顔を両手で押し返しながら5号は答える。
「魔道王様の記憶は一時的に戻りましたが、ヤシン様が眠っている間しか活動出来ないようです」
「……つまり、記憶喪失云々とかっちゅう話やなく、一つの体に『魔道王ヤシン様』と『王兄ヤシン坊っちゃん』つう二つの『魂』が入っとって、そいつらが体の『魄』を取り合っとるんやな」
「???」
ダリオスの説明に5号は首をかしげる。
「人の『霊』っつうもんは、『魂魄』、つまり『魂』と『魄』っつうもんで出来とるんや。魂は天に属する。だから死ぬと天に召されるんや。でも、人の霊ってのは、それだけやない。肉体を通して地に属しとる魄つーもんもあって、そいつと魂とが合一して初めて生きとる事になる。おまいら魔道人形は『魔法核』っつう人工の魄に、さ迷っとる魂召喚したり捕まえたりして、そいつを宿らすことで、かりそめの命の火が点るんや」
ダリオスは甲板で横座りしている5号の横にしゃがみこみ、両方の掌で矛を挟み、くるくると回した。
「魔道王様は昔、この世界でヤッバイ事仰山やらかして、神さん敵に回して狙われとったんや。しかし刺客として最初に寄越されたんは、人の良い天龍アルティン・ティータはんやったさかい命拾いしてな。ヤシン様は口八丁手八丁ティータはん騙くらかして、味方にして、神さんとりなしてもらっとったんや。……でも、ドツキ合うしかないこの世界で、皆んな仲良うやっとこうって魔道王様の願いは、聞き届けられるはずもなし。とうとう終いには魔道王処刑の神勅がティータはんに下ったんや。……魔道王様はティータはんに喰われるのを選んだ。そん時、魔道王様は秘術を用い、ティータはんの『炉』に自分の魄の複製を拵えたんや。ティータはんに喰われて肉体は無うなっても、ティータはんの炉に留まって、火通り冷めた頃に、魔道人形にでも入る算段やったんやろ。魔道王様がこの世に再び帰った来るためや。……しかし、誤算があったっつう事やな」
「誤算?」
「本来、どうひっくり返っても、生まれるはずのないモン。天龍と人間との間に本当の子供が生まれたんや。ティータはん、ほんまに魔道王様に惚れとったんやな。どうやったのかは解らんけど、魔法こねくり回して魔道王様との子供こさえて、その子に自分の魔力を譲ってしもうたんや。魔道王様が用意した魄の複製は、その時ヤシン坊っちゃんの方に移っとったんやな。そして、魄を失い天に召されるはずだった魔道王様の魂はティータはんが匿いながら、坊っちゃん大きいなんの待っとったっちゅうとこやろう……、」
「??」
ベラベラと調子よく捲し立てていたダリオスが急に黙り、素早く彼の持ち場、甲板の中央に戻る。
5号は訝しげに、彼の近くに寄っていった。
「どうしたのですか? ダリオス。饒舌なあなたが急に黙り込んで」
ダリオスは甲板の所定の穴に矛を突き刺し、犬が辺りの匂いを嗅ぎまわるように、しきりに頭を左右に巡らせている。
「なんや、おかしな気配のようわからんもんの追跡を受けとるの。深淵人でも海竜でも、鯱でも鯨でもない」
ダリオスは振り返り、船尾の方へ目を向ける。
時を同じくして方舟の横に海竜が顔を出した。
「ひい!」
5号は驚きの声をあげる。
「いんや、コレは違う。斥候の海竜や」
尻餅をつきそうになった5号の手を取り、ダリオスは彼女を立たせ海竜の近くへ寄っていった。
海竜が口を開く。
「ダリオス……」
「ああ、感知したで。何なん?」
「海竜だと思うが……」
海竜が言葉を続けようとした時、方舟の後方の海に雷が落ち、続けて火焔が天に向かって放たれた。
それを合図に火球が次々と方舟めがけて撃ち込まれる。
後方で警戒していた海竜が弾除けの魔方陣を展開すると、火球はそれに弾かれて近くに落ちた。
「あかん、5号ちゃん。船に入っとれ。灯台守を呼んで来たってや」
ダリオスはそう言うと5号を天窓に突っ込んだ。
「ダリオス。なんかあったのかい?」
5号と入れ代わりで今度はゾルティアが頭を出した。
「おお、丁度よかった! ゾルティアの嬢ちゃん。なんや得体の知れんもんに追っかけられとるで。心当たりないか?」
ダリオスの言葉にゾルティアは船尾を見る。
ゾルティアの一本角の中折れして膨らんでいる辺りが発光する。
「……暗黒の竜。ゾンダーク……馬鹿な、王子が殺ったはずじゃ……」
ゾルティアのシル・パランから得られるビジョンは、黒い鱗を持つ海竜。
頭を失い、その代わりに、トゲ付きの鉄球のようなものを首の先につけた海竜が映し出された。
そして、その海竜の呪腕のさきには、ローブを目深に被った魔道士のような男が立っていた。




