海峡 ⅩⅩⅣ
ミールは昏睡から覚醒した。
仰向けで目を見開き、見知らぬ天井を眺めている。
「記憶に欠落があります。……動作確認開始」
ミールは仰向けのまま、両腕を天井に向けて上げ、その手をじっと眺めた。
「……」
彼女の腕は、手首から先が欠落した元の腕でも、ビショップから受け継いだはずの機械仕掛けの腕でもなく、両手とも労働をしていない王侯貴族が持つような、か弱くきれいな手だった。
ミールの得意技、手首から先をクルクル回す動作を行おうとしたが叶わず、ミールは不思議そうな顔をしながら、手首から先をヒラヒラとさせただけだった。
「これは、人の手ですね……。何故、私の手は?……」
ミールは起き上がる。
木造でこぢんまりとしているが、建付けがしっかりとしていて、調度品も上等の室内を見て、ミールは記憶の中から、ここが方舟の船内であることを知った。
ミールは視線を自分の手に戻す。
「……てふてふ、あきつ、しらぬい、はくだ……」
ミールがぽつり、ぽつりと単語を言う度に、彼女の指先から赤や青の光が飛び出し、あるものは羽をヒラつかせる蝶のように、またあるものはトンボや鬼火のような形になり、ミールの手の周りを舞いだした。
「魔力が良く通る……。それに、片目が治っている……。この体、どうしたのでしょう? まるで人間のよう……」
ミールは視線を自分の胸元へ落とし己が全裸であることに気付く。
体のあちこちをまさぐり、髪の長さや、腕の可動領域などを調べ、立ち上がろうとしたが動かない。
寝具を捲ってみると、腰元ではヤシンが無邪気な顔でしがみついて寝ていた。
「……」
ミールは、しばらくぼんやりとヤシンを眺めていたが、急に辺りを見回して、部屋に誰も居ないことを確認した。
「……」
ミールは、自身の、以前より断然豊満な乳房にそっと手を添えると、それを恐る恐るヤシンの顔の方に持っていった。
ミールの唇はとんがり、『ε』になっている。
『トントン』
「大御姉様。お目覚めになりまして?」
「!!!」
早めのノックから間を置かず、ミールそっくりのメイド姿の少女がドアを開けた。
飛び上がるほど驚き、狼狽えながらも素早くシーツで己の裸体とヤシンを隠し、枕を投擲する姿勢をとるミール。
「……どうされました? 大御姉様」
ミールと瓜二つのメイド『方舟の姉妹』の一人は、ミールの痴態と狼狽ぶりを、さほど表情を変えずに観察でもするように見詰めながら問い掛けた。
「……見ましたね」
人形の体だったときは出来なかった仕草。
見えている肌の部分が全て茹で上がったかのように赤面し、プルプルと体を震わせ、目に涙を浮かべながら、ミールは片手で持つ枕をブンブンと振り回した。
「……大御姉様。お久しぶりでございます。方舟のメイド長の『5号』です。方舟にシル・パランが接続され、方舟船底の玄室で休眠していた私達『方舟の姉妹』にも魔力が供給され、久々に起動しました。これまでの経緯などは、シル・パラン経由で情報共有しました」
『5号』と名乗ったミール型メイドはミールの言葉を聞き流し、深々と頭を下げた。
「現在、方舟は、海竜に曳航され海峡の中程を航行中です。目覚めたらエルダラン様の元の向かうようにと言付かっております。お着替えをお持ちしますね」
「待って」
退室しようとした5号をミールは呼び止める。
「私はオーマの灯台で海竜と戦い、その後崖の階段を降りて、お坊っちゃまを見つけて……。記憶に欠落があります。私はどうしてこのような体になってしまったのでしょうか?」
ベッドに座ったまま、ミールは5号に問い掛ける。
「それらについては、おそらくエルダラン様よりご説明がありましょう。…………大御姉様、」
5号は言葉を切り、ベッドの空いている所に腰掛け、ミールの片手を取った。
「……何?」
片手で寝具を胸元まで引き寄せ、ミールは少し狼狽えながら、5号の言葉を待つ。
5号は、ミールの手を暫く弄ぶ。
指の一本一本を慈しむように撫でてゆく。
5号は手に手袋をしている。
休眠していたとはいえ、長い年月船倉で保管され、古び荒れてしまった手を隠すためだった。
5号の顔や腕、あらゆる肌はひび割れ、人形であることがはっきり分かるように干からびていた。
「私達の『方舟の姉妹』の体は、長い休眠で劣化し、恐らくほどなくして機能を停止してしまうでしょう。でも、大御姉様の新しい体は、アルティン・ティータ様のために魔道王様が残された……。『魔道王の花嫁』です。恐らく魔道王は、これから始まる大戦の、その後の世界に、私達『ミール』や『灯台守』などの魔道人形を残しはしないでしょう。旧世界の遺物として私達は海に沈み大地に埋まる定めなのです。魔道王御自身がヤシン様に全てを託し去って行かれるように……。ですがその体は新世界で生きていく方のために魔道王様がご用意されたもの。大御姉様。大御姉様は私達の希望です……。どうかヤシンお坊っちゃまに末永くお仕えして、添い遂げてください。……私達の分も、新世界を生きてください……」
表情をハッキリと動かす機能はすでに壊れているのだろう。
無表情で5号はそう言うと、立ち上がり礼をして退室した。
「……」
暫くミールは物思いに沈みながら、『5号』が退出したドアを眺めていた。
「ん……。ここ、どこ?」
寝具をかけて隠していたヤシンが、モゾモゾと動き出した。
「あ! お坊っちゃま! すいません。息苦しかったでしょう」
ミールは慌てシーツを捲ると、中からヤシンが顔を出した。
「うーん。……あれぇ? 何してたんだっけ? あっ! ククーシカ! ククーシカは? ……え? ミール? ……ミール……ですか?」
普段から一緒に寝ていて、しかも声はそのままなので、元のミールであると思い込んでいたヤシンは、ミールの顔と体を見て、面影はあるものの、いつもと姿が違うことに気づき、それが本人であるか怪しんだ。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私も判らないうちに、体を入れ換えられてしまったようです」
「大丈夫? どこか痛いところとかない?」
ヤシンは、ミールの体のあちこちを触り傷がないか調べ出した。
「ミール、何だか本当の人間みたいだね……。肌がスベスベだよ。……それに、お腹の傷がないし、お肉がふよふよしてないねぇ」
ヤシンの言には他意はないはずであるが、ミールは恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「あの、それは、腹部に長いこと卵が入っていたから……」
「僕は好きだったのに。ミールのお腹に顔をくっつけてふにふにするの……」
ヤシンは残念そうにそう言ったが、急に赤い顔をしてミールの裸体にシーツをかけた。
「ゴゴゴ、ごめん! ミール! 裸をじろじろ見ちゃって」
「……いえ、まあ、大丈夫です。ヤシン様でしたら」
5号がミールの服をもって再び部屋を訪れた時、ヤシンとミールはベッドの上で正座し、うつむきながら正対していた。
「……ヤシン様。お目覚めですか?」
5号は着替えをミールに渡すと、ヤシンに恭しく礼をした。
「…………ミール? あれ? ミールなの?」
ヤシンは5号を見て、驚き、ミールを見返し、5号を二度見した。
「ヤシン様。……初め、まして。大御姉様…ミールお姉さまの妹、5号と申します」
言葉を選びながら5号は挨拶をする。
「ゴゴーさん。へー。ミールって妹がいたんだ」
「私達は全て同じ方、初代魔道王様に作られました。ですので姉妹です。私達はオーマに残り、大御姉様だけが魔道王様に従い、ゴンドオル建国のため南へ行かれました。ですから、私達が再会したのは、おおよそ600年ぶりでございます」
ヤシンはベッドから起き上がり、5号の側まで歩み寄り、その顔を両手で押さえた。
「……、な、何か? 不快でしたか? ヤシン様。このような浅ましい姿でお仕えする事……」
当然の接触に驚き、5号は目を白黒させる。
「……黙って。……可哀想に、ゴゴーさん。こんな姿になるまで待たせるなんて」
瞑目するヤシンの胸の辺りから、水晶を金床で打ち砕くような澄んだ『パキンパキン』という音がした。5号の頬に優しく添えられた両の掌は急に熱を帯びる。
「古に、人は土塊から創り出された。レーシー、ルサルカ、ドモフォーイ…、地の精霊達よ。太古の御業を、今一度ここで示し給え。神より預けられし、天地創造の奇跡の力の一端を……」
ヤシンが静かにそう唱えると、5号は突然輝きだした。
「それは、長老が私にかけた術式! ヤシン様……」
「ミールも静かに。ゴゴーさん。思い出して、自分がどんな姿だったか」
ヤシンの掌から光の奔流が5号に注ぎ込まれる。
「ああ、魔力核が溢れ返る! 理が覆る!」
膝をつき、祈るような仕草の5号の前に立ち、ヤシンは両手をかざす。
閃光の後、目の眩んだミールが、かざしていた手を下げると、視線の先には輝くばかりの美しさの、完璧な造形をした、少女の人形が立ち、傍らには、強大な魔力を秘めた魔道卿が立っていた。