海峡 Ⅰ
「この辺りの木々は、葉を落とさないのね……」
「ふん! 物事を知らぬなグレタ。これは寒い地方の木だ。王都の近くでも山の上の方に生えておるぞ!」
「そしてローヴェにある代々の王の奥津城所にも立ち並んでおるぞ。もの知らぬグレタよ」
「ダイモン! カロン! 寄ってたかって、喧しいね! しゃーないだろ! あたしゃ王都の外に出るのは初めてなんだから!」
「かかかかか、そしてわしらは、もう王都へ戻ることは無いのじゃ。これからは、これらの樹木に慣れ親しみ、おぬしらの子は、葉を落とす木を見て腰を抜かすのかもな」
「しかしグレタよ、王都に居た頃は、社交場の華と謳われていたお前が、変われば変わるものよ。なあカロン」
「ワシは白亜の塔に引き篭もっておったので、今のグレタしか知らぬ。じゃが今のお主を見て、北領公の姫君だったとは誰も思わんだろうのう」
「そんな気位、この三月の旅で木っ端微塵さ! 領主の娘なんてお題目、なんの役にも立たなかった。父上も死に、北領南方の寸土も、『新王』に取り上げられた。今じゃあたしは文無し娘さ、文無し、土地無し、父無し、無し無し無し……」
北へと向かう街道は、左右から覆い被さるように茂る木々が、天蓋のように空を隠し、昼だというのに薄暗く、影ばかりだった。
とぼとぼと進む、百人ばかりの人の連なりから、少し離れ先を進む3騎。
先頭を進むは、大きな体躯の黒い軍馬にまたがる武者。
銀色の甲冑は傷だらけで、戦場から落ち延びたままのような姿をしている。
その後ろを、元は白かっただろうドレスの裾を、腿のあたりでちぎり取り、下に乗馬ズボンを履き、手甲足甲をつけるという、かなりチグハグな格好をした、赤髪の若い娘が続く。そのドレスが降ろしたてだった頃は、娘も、その美しさを褒めそやされていたのかもしれない。
今は薄汚れ、顔も、生来色白だったのだろうが、日に焼けて赤くなり、鼻の辺りにはソバカスが目立つ。しかし、時折見せる笑顔は活き活きとし、今の出で立ちに相応しく、王都にいた頃より、親しみやすく感じる者も多い。
二人の後ろを行くのは、茶色の幅広帽とローブを纏った老人。鞍の後ろには、小袋が沢山ついた大きな鞍袋が付いていて、その鞍袋の上に大きな本が数冊、括り付けられている。
幅広帽でも隠しきれないのか、大きな鼻だけ日に焼けて赤くなっている。
彼らの他に馬に乗っているのは、数少ない護衛の兵たちだけで、ほとんどの者は徒で行く。
他にも大きな荷物を積んだ馬車が数台。
王都を出た頃はもっと多かった。人も馬車も荷物も。
車軸の折れた馬車を打ち捨て、荷物を移して重くなった馬車は、またすぐに壊れる。
とうとう食べるもの以外は全て、街道沿いの宿場町で売り払い、売ることを拒んだ者たちとは、荷物ごと別れた。
そうやって身を削りながら三月北へと進んできたのだ。
元々は北領の実質的な全領土、『ワラグリア』と呼ばれるこの辺り一帯は、二年前の政変で新王北方領と名を変えて、王家の直轄地に編入された。
そのワラグリアも、ここまで北に来ると人家は絶えて無く、あとは北の果の港町まで、尖った木々の連なりが続くばかりのようだ。
森林にしがみつくように建つ、開拓民の丸太小屋を最後に見たのが三日前、それからは野宿が続いた。
開拓民から狼の話を聞いてから、夜は街道に馬車を四角く並べ、荷台に不寝番を置いて警戒している。
付き従う者たちの疲労の色は濃い。
「どこか開けた土地があったら、何日か休もうかのう」
「いや、港までもう少しで辿り着けるはず。先を急がねば! 冬になったら港から北に向かう船は無い。春まで港は閉ざされてしまうぞカロン」
灰銀の鎧武者ダイモンは、赤鼻の老人カロンに、先を急ぐよう促す。
しかしカロンは首を縦には振らなかった。
「ヤシン王兄の容態が思わしくない。何処かでお休みいただかなくては」
三人は揃って集団の中心にある、屋根のある大きな、馬車に目を向ける。
そこには彼らの君主、王都を追われ、新たな北領の領主となった新王の兄が乗っていたのだった。