海峡 ⅩⅦ
オーマの町を、東西から挟むように南から伸びる崖は、そのまま海に突き出して岬になっている。
西の崖には削り出すように階段が掘られ、海峡に乗り出す船の舳先の甲板のような、灌木が疎らに繁る崖の上の草原まで昇ることが出来る。
灯台塔はそこに建っている。
東の崖も、西の崖より小さいが同じような形をしていて、こちらにも階段が作られたようだが、かなり以前に遺棄され、所々崩れ、人の足では、もう上までは登る事が出来なくなってしまった。
鳥か、極希に北之島から渡り来る飛竜くらいしか、今となっては足跡を記すものはいない。
灯台塔を冠のように頂く西側の崖の内部は、かなり大きな洞穴となっている。
洞穴は海に向かって大きく開いており、外洋船がそのまま乗り入れることが出来るほど深く底が掘られ、実際に一艘の、オールもマストも無い方舟が停泊している。
それは、海竜が引いて海峡を渡る船で、かなりの年代物であるが、この宿り場を棲みかとする竜達は、船を大切に整備補修し、保護の呪いを絶えずかけていたので、いまだに輝くばかりの船体は、海上の宮殿のようである。
現在オーマの人々は、海竜の襲撃の報を受け、護衛兵の指示のもと、西の崖の洞穴に避難している。
海への開口部からなるべく離れ、海側からは最深部になる聖堂のような大広間に一塊になっている。
町のあちこちで火の手が上がる中、馬車は無論、身の回りの物も宿場に残して、着の身着の侭で避難した王兄北行の旅人達は、開口部から縦に細くみえる海に、時折、赤やオレンジ色の閃光が走ったり、振動を伴った炸裂音が響く度に、どこからか悲鳴が上がった。
沖の砲撃戦が激しさを増した頃、海竜が数頭、方舟の泊まる辺りに顔を出した時は、ゴンドオルの旅人や、ワラグリアの敗残者からも悲鳴が上がったが、オーマの数少ない住人が、彼らは王子派で、普段から方舟を守っている竜であると説明し、やっと落ち着いたところだった。
その後、崖の上から灯台守のルークが、洞穴の開口部に飛び降りてきた。
ルークは王子派の海竜と共に洞穴の防衛を開始する。
海竜は弾除けの呪いをかけ、ルークは光弾で火球の迎撃を行う。
子供達は歓声を上げ、どうにか、戦いを覗きに行こうとして、親に襟首を掴まれた。
「やれやれ、おっかないところだねぇ」
北行の道中に歩けなくなった数名の老人と病人はベッドに寝かせ、護衛兵数人がかりでベッドごと担ぎ、洞穴に運び込んだ。
その、歩けない人達の世話をしているのは、ガルボ家のメイド達だった。
「ここは何だか、抹香臭い場所だけど、暖かくて助かったわ。こんな冬の夜に外に放り出されたら。それだけで病人が出そうだもの」
ガルボ家のメイド長ハンナは、灯りが無いのに明るいホールの天井を、不思議そうに眺めながら呟いた。
「馬達が心配だのう……。飛影様はご無事だろうか……」
道中ヤシンの馬車の馭者を勤め、馬丁として馬達の世話をしてきた老人は、オーマの目前で体調を崩し、床から出られなくなってしまった。
彼のように北行の旅の途次、怪我や病に伏すものは多く、中には、一行の迷惑にならないように、自分を置いて先に行くように訴える者もいた。
普段は意見や主張などを全くせず、同行の意思を無くした者を引き留めることもしないヤシンだが、身寄りの無い病人や怪我人を見棄てることを、一度も許さなかった。
離脱の申し出があった場合、ダイモンとミールの取り決めで、希望者はヤシンと面談する。
ヤシンは、北行に加わる者全員の、名前は無論、彼らの離れて暮らす家族の所在や、加わる際までの来歴、旅の道中でヤシンやミールと交わした、ほんの些細な会話の一言まで記憶していて、迷惑をかけまいと、その場しのぎの嘘などをついて離脱をしようとしても、「だけど、あの時はこう言ってたよね」とか、「そんなこと言っても、頼るあては無いでしょ」などと、彼らの事情をすべて言い当てて、離脱の許可をしなかった。
病人怪我人は馬車に乗せ、可能であれば旅を続け、重篤な者が出た場合は、一行の足を止めて街道に留まり続けた。
ミールやカロンのように、医療魔術を使える者がいるので、軽い怪我や病気はすぐに治してしまうが、エダインに定められた宿業である、『老い』は、医魔術でもどうすることもできなかった。
「逃げ出す時に、馬屋は開け放ったから、きっとうまく逃げてるさ。王兄の馬は大きくて賢いからねぇ」
この、病臥する馬丁の老人が、飛影の事を、まるで神の如く崇めていることをよく知るハンナは、心労を与えないためにも、話を合わせる。
その時である。
オーマの市街地へと続く、奥の大扉の方が騒がしくなった。
護衛兵が大扉を開けると、『カツカツカツ』と沢山の蹄の音と共に、普段護衛兵が騎乗する軍馬を先頭に、馬車を引いた馬達が次々と入ってきた。
しかし、騎馬も馬車も無人である。
騒然とするホールの中の人々を尻目に、馬達は整然と行進をし、あらかじめ決められていたかのように、ホールの一角で止まった。
馬車で旅の一行を囲み、方陣を組む。
旅の間、野宿をする際にやっていた事であるが、馬達は人の手を借りずにそれを行った。
「誰?! 馬を連れて来たのは……」
ホールの一角で、オーマに残留したワラグリアの貴族達と、言い合いを続けていたグレタも、馬達を呆然と見つめる。
「……誰も乗っていない。騎馬も馬車も無人だ!」
「……し、しかし、下ろしたはずの荷物が全部積まれているぞ!」
「一体誰が……?」
ベッドから顛末を見ていた馬丁は、拝むような仕草で馬達を迎えていた。
「ああっ、馬達が来た。飛影様じゃ! 飛影様がお導きになられたのじゃ! 有り難や、有り難や!」
「でも、その飛影は、一向に入ってこないねぇ……」
ハンナは大扉へと向かうグレタを目で追いながらそう言った。
グレタは、大扉のある洞穴の際深部に行き、そこから馬達が来たオーマの町の方を見る。
沖合いの竜達と、崖上のミール達との砲撃戦は激しさを増し、市街地には流れ弾が時々落ち、そこには爆炎が上がった。
「グレタ様!」
ちょうど、外階段をおっかなびっくり降りてきたディロンと鉢合わせをした。
「ディロン! 無事だった? ミールは?」
ディロンを扉の内側に引き入れながら、グレタはディロンに問う。
「ミール様だよ、上でブッ放しているのは。海獣と怪獣の戦いだ。……おっかねえ」
二人は町の方、火の海を見遣る。
オーマを焦がす炎の向う側に、二匹の狼を従えた巨大な馬の陽炎が揺らめいたように見えた。
「ヤシン様、ククーシカ様、一先ず洞穴へ向かいましょう。現在、ゾファー王子が沖で造反した竜達と戦っておいでです。ゾンダークとゾルティアは、上の灯台の宝玉を狙っています。さあ!」
オーマの長老は、少年と少女の手を引き、三人の家政婦を従えて屋敷を出た。
崖の中程の、岩を削って作られた階段から、オーマの町を見下ろすと、両の崖の狭間の湾は凍てつき、町は火の海だった。
「ああ、海が凍てつき、オーマが燃える……」
長老は絶望の声をあげる。
驚きと云うよりも、恐れていたが予見されていた事が、現実となったのを目の当たりにしたような、諦観が声色から伺えた。
長老は革袋を一つ肩から下げていて、その袋の中には、塩が詰めるだけ入っていた。
「アルティン・ティータ、死んだ。死んで塩になった……」
長老に手を引かれながら、ククーシカは泣いていた。
「…………」
アルティン・ティータのベッドに倒れていたヤシンは、目覚めてから、言葉を発せず、夢遊病者のように言われるままに長老に手を引かれている。
彼の目は開かれているが、その瞳は、何も景色を映してはいなかった。
「足元にお気をつけて。この外階段を降りたら洞穴への入り口があります」
長老はヤシンの顔を覗き込み、注意を促す。そして、手を引いて階段を降りようとしたが、屋敷から出た途端ヤシンは動かなくなった。
「……ヤシン様?」
「……エルダラン……」
ヤシンは東の崖を見ている。
灯台の灯りは、それに呼応するかのように、崖を照らす。
「……あれは?!!」
ヤシンにつられる形で同じ方向に視線を転じた長老は、町を四分する十字路を、東から西へと進軍する、不格好な人影の群れを認めた。
「結界石を越えて深淵人が町に入るとは……。もはや海竜とエルダールが交わした古の盟約は、破却されたと云うことですか……」
呻くように長老はそう言った時、石階段をガチャガチャと慌てて降りる足音が響く。
「お坊っちゃまー!」
段抜かしでミールが外階段を駆け降りてくる。
「ああ! ご無事で……」
新に接続された腕や足から、蒸気を吹き出しながら、ミールはヤシンの目の前で膝を付き、彼を自前の片手で抱き締める。
「……」
そんなミールの頭を、ヤシンは撫でる。
「……?」
初めは『(*´ω`*)』こんな顔で、ヤシンに頭を撫でられていたミールであるが、異変に気づく。
「……お坊っちゃま?」
恐る恐る上目使いでヤシンを見る。
ミールはヤシンをじっと観察する。
「……ん? ああ! ……怖かったよミール!」
ミールの頭からパッと手を離し、ヤシンはミールに抱き付く。
「ミール様。海竜達は如何された?」
長老が尋ねるとミールは我に返った。
「え? ああ、沖と洞穴に王子派の竜が十ほど。造反した湾内の海竜は全て凍らせました」
今だ凍て付き冷気を放つ、オーマの港を眺めながらミールは答える。
「ミール様。灯台が東方を照らしています。深淵人が上陸し、結界石を越えました。間もなく十字路に辿り着きましょう。……町は終りです。竜との盟約は破綻し、アルティン・ティータ様が御隠れになった今、エルダールがここに住まう理由も無くなりました。オーマの町は放棄いたします。灯台からシル・パランを外し、灯台を封印した後、方舟で北之島に脱出いたしましょう」
長老はヤシンとククーシカの手を引いて、ミールに呼び掛ける。
しかし、ミールは東方を見遣りながら首を振った。
「北のシル・パランを取り返します。あれが海竜や南方人の手に渡るのは避けねばなりません」
「ですが……ミール様、宝玉を呑んだ竜を倒すことなど、我々に出来ましょうや?」
「それが出来なければ、開拓民を伴って海竜の海を渡ることも叶わないでしょう。北之島と断絶され、我々がオーマに取り残されたなら、ゴンドオルを併呑したウンバアルの南方人達にほどなく攻められ、浄福の国に住まった最後のエルダールの血脈も絶えてしまいます」
「…………」
崖上から灯台守が二体、石階段を降りてくる。ポーンとナイトである。
「アア! マドウオウカッカ!」
「シコウノ! キミヨ!」
灯台守達は、それぞれヤシンを認めるなり感嘆の声をあげ、駆け寄ろうとするが、それをミールは遮った。
「お坊っちゃまは、ゴンドオル国の王兄であらせられます、同じ名前であろうとも決し…て………、」
ヤシンの前に立ち、灯台守を遮ったミールの後から、ヤシンが耳元に『ふっ』と吐息を吹きかけると、ミールは途端に気を失い、崩れ落ちそうになり、ヤシンはそんなミールを軽々と抱えた。
「久しいなポーン。ナイト。長い間よく灯台を守った。お前達の忠義を誇りに思うぞ」
ミール抱いたヤシンは灯台守達に労いの言葉をかける。
「モッタイナイオコトバデゴザイマス!!」
二体の灯台守は深々と頭を下げる。
「今は時が惜しい。ポーンはエルダランと共にミールとククーシカ殿を連れ、洞穴の聖堂に入り、皆を方舟へ乗せなさい。一刻の後に湾の凍結を解除する。それまでに私とナイトでゾルティアから輝見石を取り返し、ゾファー王子を救出する。王子は沖でゾンダークと戦い、手酷い傷を負った。ゾンダークは老いと衰えの最後の際で、魔玉の誘惑を退け、戦士として王子に挑むことを選んだのだ。ゾンダークは自らを囮とし、輝見石をゾルティアに託した。彼女の秘められた暗い狙いは、ククーシカ殿を殺し、ゾファー王子の関心を自分へ向け、王子と共に死ぬことにある」
急に人格が変わったように長老や灯台守達に語るヤシンを、魔物を見るような目つきでククーシカは睨んだ。
「では、エルダラン。皆を頼む」
未だ気を失ったままのミールを、ポーンに手渡しながらヤシンは長老に語りかける。
「ああ、魔道卿! 記憶が……」
「いいや、エルダラン。アルティン・ティータより受け継いだ魔力の源、『眼球』『角』『炉』に刻まれた私の記憶は、完全ではない。この子が弱り、意識を手放さなければ、浮上できないのだ。それに、私は欺かねばならない。まだこの世にとどまっている事を……」
長老の問いに、ヤシンは何者かの盗聴を恐れるかのように、囁き声で答える。
「さあ、早く行きなさい。それからポーン。シル・パランを回収し、灯台基部の宝物庫から私のチェストを方舟に移してくれ。では早速取りかかれ!」
ヤシンの号令で、ポーンとナイトは行動を開始した。
「敵は強大です。人手が必要では?!」
エルダランが訴える。
「無用である」
しかし、ヤシンは一言そう言っただけで、後はナイトと共に階段を降りると、振り返らずに東に向かった。




