海峡 ⅩⅤ
「……外から雷のような音がする。また、竜が火の玉を吐いているんだ。町を燃やしているのも竜なのかな?」
遠雷のような、くぐもった響きを聞きながら、ヤシンはククーシカに手を引かれ暗い廊下を歩く。
やがて二人は、廊下の幅が太くなりホールのようになった場所の、両開きの大きな扉の前で立ち止まる。
「ここ。アルティン・ティータの部屋」
「え? そうなの?」
ヤシンは思わず聞き返す。
「起きているといい。……お話が聞ける」
ククーシカはそっとドアを開ようとする。
「ダメだよククーシカ! ノックをしなきゃ」
ヤシンは肩に手をかけて止めようとするが、ククーシカは意に介せずドアを開けてしまった。
「そんなことしたって、もうアルティン・ティータには、何も出来ないわ」
屋敷の他の部屋より大きく、上の階まで吹き抜けの室内には、町とその向こうの海を見渡せる窓があった。
上の階の部分には奇妙な丸扉があり、屋敷の外に通じる筒状の、まるで大蛇の通り道のような、通路に続いている。
天蓋の付いた大きなベッドが、窓に寄せて据えてあり、清浄な白い掛け布と、羽毛が詰められたクッションに半ば埋もれるように、真っ白い麗人が横たわっていた。
ククーシカに手を引かれ、ヤシンは恐る恐るベッドに近づく。
「白いミール……?」
大人びて、真っ白い事を除けば、その女性は驚くほどミールに似ていた。
彼女は恐らく初めから白かったのではないだろう。
長い歳月か、体を蝕む何らかの病苦か、悲しみや苦しみか、或いはその全てによって彼女は少しずつ漂白され、今に至り、純白になってしまったのだ。
そうであろうと、ヤシンは考えた。
アルティン・ティータは年老いてはいない。
ただ、幾世代も前の少女の石像のように、若い面影のまま、風化してしまったようだった。
「アルティン・ティータ……、まだ生きている?」
ククーシカが呼び掛けると、ベッドのアルティン・ティータは口を少し動かした。
ククーシカはベッドに乗り、アルティン・ティータの口許に耳を寄せる。
「…………だめ、もう聞こえない」
アルティン・ティータの目は開かない。
ククーシカはしばらく彼女の言葉を待ったが、そのうち諦めたように首を振ると、ヤシンの顔を見た。
「お話、してあげて。アルティン・ティータはもう死んでしまうから」
ククーシカはヤシンに手を伸ばすと、寝間着の裾を引いた。
「お、お話って言われても……何を話したら、」
ヤシンは困惑する。
「話す事がないのなら、傍にいてあげて……。寂しくないように。だけどもう、触れてはいけない。崩れてしまうから……」
ククーシカは悲しげな表情をしながらそう言うと、ヤシンに場所を譲った。
窓の外では、オーマの町が赤く燃え上がり、火球の炸裂するズズンという震動と、魔弾が射出される閃光が走る。
しかし、この部屋は、外界と切り離されたように不思議と静穏としていた。
「この人は、龍で、初代の魔道王のお妃だった。つまり僕の遠い先祖なのだろうか……?」
そのようなことを考えながら、町を襲う災禍も忘れて、ヤシンはアルティン・ティータにそっと顔を近付けた。
『!!』
突然、ヤシンは頭を何かで殴られたような衝撃が走り、何も見えなくなった。
「魔道王、どうしたの?」
ククーシカの呼び声が遠く響くが、ヤシンの意識はオーマの屋敷の一室から離れ、小さな光に先導されながらどこかに飛んでいった。
大きな大きな、気の遠くなるような大きな盤面には、原初に海があり、見る間に大陸が浮き上がり、山が隆起し、雲が湧き上がり、雨は大陸を削り、雨は集まり川となり、その流れは石土を海まで押し流した。
その盤面は、まるで世界の縮図の様だった。
中央は角の緩やかな四角で、四つの辺には一回り小さな四角が突出し、盤の全体は丸みを帯びた十字の形をしている。
十字の各々の突端には巨大な四人の異形の神が座し、腕とも触手ともつかないものを、時折盤上に伸ばし、駒を動かしている。
神々が集い、遊戯盤を囲むその場所で、ヤシンは、果てのわからぬ天へ向かって伸びる、幾本かの柱を飾る浮き彫りのように纏わり付いている龍となり、永劫ともとれる時間、四神の棋戦の行方見守り続けた。
龍は遊戯の観戦者であり、裁定者であった。
神々のゲームは複雑で、その一手一手が熟考と慎重な審議を伴い、ともするとその解釈に、人の感覚で一生を費やすほどの時を要した。
西と東の神が、激しく応酬をする中央の盤面に、南方の神がじわじわ駒を押し上げてくる。
北方神は固く自陣を守っている。
石柱の彫刻のようになって戦いの行方を見守るうち、ヤシンの意識までまるで石のように硬直し、ただ視線だけがキョロキョロと盤上をさ迷いつづけていた。
そして、どの位時が経ったであろう。
ある時、自陣の固めをひたすら続ける北神が、自らの駒を取り落とし、駒は北方より中央へとコロコロと転がり出でた。
北神は駒を取り戻そうと手を延ばしたが、柱の龍の一柱が細く火焔を吐き、北神の手を押し止めた。
北神は苛立たしげに盤を手で叩くが、過ちで置かれたとしても、神聖な棋戦に於て、それを訂正する事は許されなかった。
ヤシンが憑依した龍は、柱から解け、中央の盤へと転げ落ちた北神の駒の行方を追うために、盤の中へと入ってゆく。
盤に近付けば近付くほど龍の体は縮み、盤の世界は拡がっていった。
ここでヤシンの意識は途切た。
再びヤシンが目を覚ましたとき、彼の視界には黄金の麦の実る広大な畑が拡がっていた。
彼の意識は麦と同じ色をした、ククーシカが身に付けていたものと良く似た、ゆったりとした服を着た女性に憑依していた。
視覚と聴覚を共有しているが、ヤシンは体を自分で動かすことは出来ない。
既に過去の、誰かの体験を追体験しているようだった。
ヤシンはこの記憶の持ち主が、アルティン・ティータであろうと考えた。
ヤシンの、アルティン・ティータの傍らで、背の高い偉丈夫が立ち上がった。
聖堂僧の法衣をまとい、片手には作物の束を一房持っている。
彼の耳の後ろからは、竜と同じ角が生え、竜と同じ縦長の瞳孔の瞳を持っていた。
はじめ、彼はアルティン・ティータの視界に入っていなかった。
彼は屈んで、作物の出来栄えを確かめていたのだ。
偉丈夫とアルティン・ティータから大分離れた所に、数人の人影がある。
見知らぬ人達の中には、ミールの姿もあった。
誰かに取りすがり、彼女は泣いていた。
「ああ、満足だ。……では、いいよ」
澄んだ偉丈夫の声がアルティン・ティータの耳朶を打つ。
彼はアルティン・ティータの方に向き直り、優しげな笑顔を浮かべ瞑目した。
アルティン・ティータの体がみるみる膨れ上がり、彼女は天を覆うような龍となり、空に一旦飛び上がると、うねうねと畑の広がる平野を一巡し、彼の元に戻ると急降下し、彼を一呑みにした。
『この世界は、何者かによって、争い合うように作られ、憎しみ合うように仕向けられている。不寛容の理、相剋の理の世界だ。あなたが教えてくれた棋戦の因果が、そうさせているのならば、然もありなん。……私は抗い、相生の世界を作りたかった。しかし、それが、神々の意に反するならば、是非もなし。……しかし、私は種を蒔いた。豊穣を観ることは叶わなかったが、私はこれで満足しよう』
彼女の感情なのか。
呑み込まれた偉丈夫の感情なのか。
ヤシンに流れ込んでくるそれは、深い愛情と、深い悲しみだった。
「ヤシン様! ヤシン様!」
ヤシンが元の少年の姿に戻り、オーマの長老に肩を揺すられて目を覚ました時、アルティン・ティータは既に息絶え、彼女の横たわっていた場所には、塩の塊があるばかりだった。
※※※※※※※※
「ワンノナカハ、カイリュウデ、アフレカエッテイマス!!」
両腕から猛烈な砲火を放ちながら、灯台守ポーンは叫ぶ。
火球も火焔も吐けなくなった竜まで、先を争って死に逝こうとしているかのように、灯台守達の射程圏内に入り込んでくる。
灯台守ルークは崖を飛び降り、洞穴の入り口に仁王立ちをして、竜を迎え撃っている。
「……まるで、今夜、この場所で、種族が死に絶えようとしているかのよう……」
ミールはそう呟くと視線を遥か沖に移した。
其所では強大な二匹の竜が戦っているはずだった。
「広域魔法を使い、湾内の海を凍らせます!! 少しの間持ち堪えて!」
「「ハッ!!」」」
彼女の銀の右手の指先から膨大な熱気が噴き出され、逆に掌にある射出口には冷気が集められていく。
耳障りな金属の擦れる音と共に、冷気は辺りを凍てつかせるまで強まり、ミールの足元の水飛沫を凍り付かせた。
「圧縮冷凍砲!!」
『ドドドドドド!!』
ミールの掌から白煙をまとった魔球が次々と放たれ、それらは海に没すると近くの竜も巻き込んで、たちまちそこを凍りつかせていった。
多数の魔弾を発射し、あっという間に湾内を凍らせたミールは、最後に大気から奪った熱を、上空へ纏めて打ち上げた。
オーマの泊は完全に凍り付き、その結晶の中で竜達は体内の炉の最後の灯火を消した。
「この海域の竜は全滅ですか。……まあ、私がやったのですが……」
ミールは哀しげに、崖の突端から氷の世界を見下ろした。
その背後の灯台で、シル・パランは輝きをつかの間取り戻したが、光線はすぐに、東の崖下を指し示した。
悪意あるものが、町に侵入したのだ。
そして、その悪意は熱烈なものであった。




