海峡 ⅩⅡ
東西の崖に守られたオーマの港は、今夜のような風の強い夜も、それほど波は高くはなかった。
しかし、両側の岬の沖では、小山のような三角波が、西から東に向かって次々と渡り過ぎて行った。
その、波間に時折閃くものがある。
それが高ければ紅く、低ければ海をくぐり紫がかって見えた。
また、恐ろしい早さで波の山々を撃ち貫き、火球が走ることもあり、決まって終いには、腹に響く轟音とともに爆発が起こり水柱が上がった。
子細を聞き分けることはできないが、野太い胴間声で何事かを叫んでいるのが、微かに沖合いから聞こえる。
また、引き裂かれた獣の絶叫のような叫び声も時折混じる。
『おわあぁぁ、おぎゃああぁぁ、おわあぁぁぁ、』
「……?」
「……気がついたかの?」
カロンはダイモンの顔を覗き込む。
夕刻、灯台塔を降りたカロンとディロンはヤシン達と別れ、オーマの町並みを散策しながら、護衛兵達にあてがわれた、元々は船乗り達の番屋だったらしい、大きな建物へ来た。
負傷したダイモンを見舞ったときに、彼はちょうど昏睡から目覚めたのだ。
「老師……。老師も死んだのか?」
「馬鹿を言うな。わしゃまだくたばらんわい。ここは煉獄でも辺獄でもありはせん。オーマの港じゃ。地獄の獄吏より、いっそう怖い閻魔様よりのお達しじゃ。ダイモン。お主は早う傷を治し、後は体の動く限りヤシン様を扶け、ヤシン様のために死ぬべし。じゃと……」
カロンがダイモンの傷口を確かめていると、肩の後ろからディロンが顔を出す。
「斬り付けたことは謝らんぜ、お頭……。南方育ちで、寒いのが嫌なのはお互い様だが、自分だけ温い場所に隠居しようとしたって、そうは烏賊のなんとやらだ。乗り掛かった船を勝手に降りちゃあ、ヤシン様もミール様も困るだろう。北之島も無人ではないみたいだし、渡った奴等も、潰しの効く連中ばかりではない。何やら悶着がありそうだ。此処っからがあんたの腕の魅せ処じゃあねぇか。……それに、この泊にも、うじゃうじゃ居るぜ。あんたが討つのを夢見てた、竜、竜、竜!! 聞こえるかい? あの叫び声、あの音! おっかねえ、おっかねえ!!」
ディロンは肩をすくめ、ベッドを離れていった。
「…………夢うつつに聞こえていた。老師……。あれは竜の声か?」
ダイモンは顔を傾け、仲間の兵達に合流するディロンを目で追いながら、自分の腕を上げ下げしているカロンに問うた。
「左様。恐ろしい連中じゃ。目の当たりにし、その言葉を聞いたワシは、少し漏らしてしまったわい」
「人間世界を遠く離れ、竜の泊まり場まで来てしまった。……もうここは、常世なのかもしれないな」
「いいや、ダイモン。少し違うな。ここより北にも人の営みはある。この町だけが、大海の小島のように、時の移り変わりに取り残され、上古の時代、神話の時代のままなのじゃ」
「そういうものか」
「そういうものじゃ……そして、ミール様もヤシン様も、そういう処から人の世に出でて国産みをし、そういう処に再び帰らんとされておるのかも知れんのう。さあ、熱は引いたようじゃ。起き上がることが出来るのであれば、なにか腹に入れるんじゃな。……それにしてもこの町の長老は医魔術の大家じゃ。お主の砕けた巨骨(鎖骨の別名)を繋ぎ、傷を塞ぎよった。ここの逗留が長くなるのであれば、是非とも弟子入りしたいのう!」
ベッドから少し離れた所で、ディロンは護衛兵達と話している。
「俺の姫様は?」
「今、この町に残っていた北軍の敗残兵たちと会っている。前北領公の陪臣達さ。中には一軍率いていた将軍や、小領主もいるそうだ」
護衛兵の一人の言葉を聞いて、ディロンは顎をしゃくる。
「将軍や小領主ねえ……。もしかして揉めてる?」
ちらりと目だけを動かし、ディロンは護衛兵に尋ねる。
「揉めてる」
「……だろうねえ! ……で、俺が出しゃばれば?」
「ヒューー……ボッ!」
護衛兵は、一度掲げた手を上から下ろし、下で何かが弾け、メラメラと燃え上がるような手真似をした。
「……ですよねぇ!! でも、グレタ姫の騎士としては放っとけないねえ」
己の剣に手を架け、番屋を出ようとするディロンを護衛兵は手で制した。
「姫に己が剣を預けてから、日の浅い見習い騎士君。我ら古参の騎士達を、ちいとは信頼してくれ賜え! グレタ姫の脇侍としてゴーギャンとナバロンをねじ込んだ。それに、会館の廻りに弓勢を伏せてある」
「ゴーギャンの旦那とナバロンのじいさん! お偉い面々と殺し合いになるんじゃないの?! あの二人の姫ラブ尋常じゃないよ。まったく、娘か孫かってほど年が離れていなさるのに」
そう言いながらディロンは外に出ようとする。
「ディロン! おめぇ聞いてんのか?! すっこんでろって言ってんだよ!!」
慌ててディロンを引き留めようとするが、
「悪いな、事の顛末目届けてくらぁ!」
ディロンはそう言うなり、霙混じりの雨を避けるように小走りで、町の中央に建つ寄り合いに使われる会館を目指して、闇夜に飛び出して行った。
大きな会館のホールといっても、三十人も入ればすし詰めになる。
立場も目的も違う者達は、各々代表を立てて話し合いをすることとなった。
オーマ迄逃げては来たが、島へは渡らなかった北軍の陪臣達の集団が一塊。
対峙するのはヤシン王兄北行の一団。
北の各領主が、王都に持っていた屋敷の使用人達
ヤシンを慕い王都を脱出した王家の家臣達。
北行の道中、田畑を捨てて加わった小作人や自由開拓農民。
あまりのひどい扱いにヤシンが見かねて買い取った農家の奴隷。
代表はグレタと護衛兵。
それぞれ他のものを説得できる立場の者が、集まっていた。
壁際にオーマの長老が立っている。
「ヤシン王兄はお越しくださらないのかな?」
オーマに逃げ込んだ旧北領の領主が口火を切る。
「ヤシン様は先程まで海竜の王子と会談し、お疲れのようでしたので既にお休みになっております。私が名代としてこの場の顛末を、ヤシン様にお伝えいたします」
片手をあげてオーマの長老がそう答えると、オーマの町に残っていた敗残兵たちから疑問の声が上がる。
「何故オーマの長老様が……。そもそも、ヤシン王兄とあなた様との間にはいったいどのような縁が……?」
「私は魔道王ヤシン陛下に忠誠を誓う者です」
一言そう言うと、長老は後は聞き役に徹するつもりか、口を閉ざしてしまった。
「今こそ、北に渡った家臣を呼び戻し、ガルボ家の本拠地グルビナのビエラカミン城を奪還するための兵を募りましょうぞ!」
隻腕の厳つい老将軍が、立ち上がり皆を見回す。
しかし、彼の飛ばした檄は、彼が期待したほど皆の心には届かなかったようだ。
「…………」
無言の一堂を見回し、「腰抜けどもが、」と小さく罵声を吐いた老将軍は、着席した。
ここで、グレタが片手をあげて発言する。
「我ら一行は、ゴンドオルの法に従い、王の任命で任地に向かうのです。私達は、王兄の助命嘆願により死一等を減じられ、王の認可で王兄の家臣に取り立てられました。私は既にワラグリア諸侯同盟盟主ウィストリアの娘と云う肩書きを負ってはおりません。北領公ヤシン様の陪臣として此処におります」
グレタの発言に、敗残者達は顔を見合わせる。
「我らウィストリア公の掲げる王旗の元、奸臣ニコラウスを廃し王の正統を取り戻さんがために此度の戦を……。それを盟主ウィストリア公の娘である貴女が……」
軍用馬の産地チジヤーチの小領主が狼狽えた声をあげる。
「ゴンドオルの事はこの際どうでもよい! グレタ様が起てば、ワラグリアの民はこぞって剣を取りましょう!」
将軍が、グレタが恐れていた言葉を言い放つ。
オーマの長老は暫し思案し、そっと会堂から出て行った。
「あー、そりゃあ止したほうが良いなぁ。ニコラウスの思う壺ってやつさ、うぎゃ!」
長老と入れ代わりで、ドアから顔を覗かせたのは、若武者ディロンだった。
「ディロン……、あんた」
遅れて会館に現れたディロンは、グレタの隣に座ろうとして、老戦士ナバロンの脛蹴りを喰らい。よろめきながらグレタの椅子の前にしゃがみこんだ。
「ニコラウスは王都の北にかなりの数の騎兵団を伏せているぜ。伏せた上でワラグリアの蜂起を誘うため、欲の皮の突っ張らかった、南方貴族の次男、三男坊に領地を切り売りしてやがる。馬の司チジヤーチ。森林地帯ギャルボイ。ガルボ家本拠の穀倉地帯グルビナ。山嶽地帯スーワにまで、新しい代官が入り、奴らは早速、関所を作ったり、荘園をニコラウスに献納したり、いそいそと南領と同じ事をしていやがる。やりたい放題見せつけて、痺れを切らした、あんたらみたいな血の気の多いやつらをあぶり出そうとしてな」
剣の腕は月並みだが、顔と弁は自信があるディロンが、良く通る声で語る。
ここまで話して彼は後ろを振り返り、チラリとグレタの顔を見る。
グレタは片眉を吊り上げ、ゴーギャンとナバロンは腕を組み直し、手甲を同時にガチャリと鳴らした。
「なぜその様なことが言える? なぜ知っている?」
チジヤーチ領主の問いに、ディロンは平然と答える。
「何故って、ほんの一月くらい前までは、ニコラウスの手先だったからだけど? 兵団の移動は新王即位の前からだし、新代官だって俺達が王都を出立するはるか前に、新任地に向かって行ったから……。別にニコラウスの一派でなくても、わかるでしょ? あんたらそんだけ血気盛んなのに、斥候くらい出さなかったの?」
ディロンは頭の後ろで腕を組み、場の中央に進み出た。
「俺ぁ、ゴンドオルの南方チンゼイの出でね。これでも祖父はウンバアルとの戦の功で王から爵位をもらい、小さいながらも土地を持っていたのさ。だけど、雀の涙の土地も、親父の代にはニコラウスに散々やられて、取り上げられたよ。親父もバカなもんさ。ウンバアルへの備えとして、ニコラウスの指示で、借金しながら領民虐めて、砦を三つも建てさせられて、できた頃合いに、工夫がウンバアルの手引きで蜂起して、同時にすべて奪われたのさ。その責を問われ、お家は取り潰し。お陰で俺の代まで回ってきたのは、やさぐれた親父の拵えた借金ばかりさ。……しっかし。作っている最中に気付かんもんかね? 門も、堀も、北側ばかり立派だったって事にさ……」
ディロンは肩をすくめ、身を乗り出して話を聞いているワラグリアの残党の顔を見回す。
まるで一人一人の勇気の度合いを量っているように。
「……奴ぁ手強いぜ。奴の耳は至る所にあって、奴の腕は遠くまで届く。やつの口から出そうな台詞が、あんたらの領地の農家や町中、果ては城内で、聞こえてきやしなかったかい? あんたらが戦に出た時、土地の農民、在野の豪族はどうしてた? 見送るその目は醒めていやしなかったかい? 王都で負けたあんたらは、何で自領に戻れずにこんな北の果てまで落ちていかねばならなかった? 何故領民は門扉を閉ざし、あんたらが入るのを拒否した?」
敗残兵達の顔から、脂汗が吹き出している。
「俺のなけなしの金貨を賭けても良いが、あんたらの領民達は、領主の首が挿げ替っても、気にも留めないばかりか、新しいボンクラ領主共を、拍手喝采で出迎えてるぜ」
口を開くものはディロンの他に誰もいない。
皆、彼の次の言葉を待っている。
「あんたらは、自領を取り戻す正義の戦いとかなんとか言いたいのかも知れんがね、領民かりゃすりゃ知ったこっちゃない、前の戦じゃあんたらは南の王都に攻め入って負けた。つまり戦は領土の外だった。だが、今度は元自分の領地に攻め入るってか? あんたらが領民から貰うのは、石つぶてと鍬やフォークさ…………!」
さらに言葉を続けようとした、その時、かなり近く、港の辺りで大きい爆発が起こった。