海峡 ⅩⅠ
夜になり、オーマの灯台のシル・パランは益々輝きを増し、光の帯はまるで意思を持つ者が、ヤシンに引き続きそれを操っているかのように、西に東に北に南にと、照らす先を彷徨わせていた。
はるか対岸に北之島の対の塔が微かに見え、夜になると明かりが灯ったが、その光は弱々しいものだった。
「波の音が遠いのは落ち着かないものだ。しかし、妹のことを思うと、あれが死ぬまでは、陸で暮らしてみたいと思う事もある。あれは海では生きることは出来ない。竜宮に連れて行くことは出来ない。恥ずかしい話であるが、ゾンダークがあれほど狂っていなければ、彼に後事を託し、灯台を離れ、あれが落ち着いて死ねる場所を探しに、あれの故地を訪ねて陸を旅したいものだ……。それが叶わぬのであれば看取ってくれる人に託したい。魔道王たるヤシン殿はそれに相応しく思うのだが」
長老の館の長い廊下を歩きながら、ゾファー王子は己の望みをヤシンに打ち明ける。
「ククーシカさんは人間の子だよね。どうして竜の王子の妹なの?」
事情が飲み込めぬうちに、話を聞くばかりになったヤシンが改めてゾファーに尋ねる。
「ゾファー王子。僕はゴンドオルの王の子だけど、病弱で離宮からほとんど出たことがなかったんだ。離宮でミールに育てられて、遊び相手も話し相手もミールだけ。本を読む事。菜園で草花や野菜を育てること。月と星の観察をする事。それで全部。僕の全部。後は何にも無い。本当にそれだけの子供だよ。この町に来て、魔道王とか、魔道卿とか呼ぶ人がいるけど、僕は違う。僕はただの子供なんだ。この町に来て次々と不思議な事があったり、不思議な話を聞いたりしたけど、僕には何も分からないよ。自分が何者なのかすら、ゾファー王子と長老の話を聞いているうちに、分からなくなっちゃった」
「そうか……。私は直接はゴンドオルの魔導王と見えた事はない。母とゾンダークが聞かせてくれた事しか知らぬのだ。
曰く。エダインでありながら、天龍より始祖の炉を引き継ぎ、その身に宿し者。
曰く。角を折り、人として生きる道を選んだ天龍。
曰く。老いと若返りを繰り返しながら、原初より地上に住まう神の一柱。
曰く。北神のただ一人の手駒にて、龍をも超える力を秘めし者。
曰く。劣勢に業を煮やし、盤面に降り立った北神自身。
曰く。四面の神々の棋戦を審議する『中央神』の化身……。
どれが虚で、どれが実なのか……。私にとっては、お伽噺の領分と思われる人物だ」
「それじゃあ絶対に僕ではないよ。だって僕は離宮で生れ……」
そこまで言ってヤシンは言い淀んだ。
頭に小さな稲妻が走ったようになり、言葉も考えも、先には進まなくなってしまった。
ヤシンは目を閉じ、頭の中の嵐に耐える。
幼い頃からヤシンは、時折この鋭い頭痛を味わうことがあった。
特定の事柄について考え出すと、まるでその先のことを考える事を、何者かに止められてるように痛みが走るのだ。
いつもは、その痛みを回避しようとして、無意識のうちに、その、特定の事柄については考えないようにしていたのだ。
しかし今、ヤシンは、意思の力でその痛みに耐え、眼帯を外して、今日、シル・パランの前で発露した、『竜の目』を見開いた。
竜の目から届けられるビジョンは、実際の視界と、高き灯台から見下ろされるシル・パランの視界と、幻覚のような、何者の物かも、由来も来歴も解らぬ幻影とが折り重なりあい、ほとんど理解できないものだった。
しかし、頭の痛みが幾分和らいだように思えたので、ヤシンは今まで忌避してきた事柄について、考えを巡らせる事が出来た。
──……なんで今の今まで気にも留めなかったんだ? 僕は誰から生まれたんだろう……。僕のお母さんってどんな人?
──シムイのお母さん。ウンバアル皇帝の娘。あの人は僕のお母さんではないはず……。
──僕のお父さんはゴンドオル王……。
──シムイを溺愛した父上。
──僕を遠ざけ、ミールを恐れていた父上。
──シムイのお母さんと僕のお母さんが違うなら、僕のお母さんは一体誰? 今、どこに居るの?
──……ウィストリア公は政変のとき、戦場に向かう前の挨拶でなんと言っていた?
ヤシンの耳朶に蘇るウィストリア公の言葉。
自分の娘グレタにヤシンを託し、ミールに跪き勇戦を誓った公の言葉。
『正統なる王家の転覆を図る、南方帝国の差し金の魔女! 王家の影武者、前王の子供など所詮は僭王!! 継体持統の家に何ぞ恐れることがありましょうや! ゴンドオルの正統は『ヤシン』の名の元にしかあらじ!! 今こそ古代ワラグリア諸侯同盟を復活させ、偽王の子を退け、南方の傀儡師を駆逐致します!!』
──ウィストリア公の言葉は、僕にはなんのことだかさっぱりわからなかった。どうして父上が『偽王』で、シムイが『僭王』で……、なのに、どうして僕は『正統』なのか……。
──僕と父上にはなんの違いがあるのか……?
「ミール………僕はいったい…誰なの?」
「………」
長老に抱かれ運ばれるミールは目を伏せ、ヤシンの問いかけには答えなかった。
「ミール!」
「ヤシン様……。今はまだ、その先に考えを進める時ではございません。私を信じて……、歩みを留めてください。……お願いします……」
泣き出しそうなミールの顔を見て、ヤシンは口を閉ざした。
「……ヤシン殿。何やら今夜は、色々考えを巡らせる案件がお有りのようだな。私も妹のことが気になってきた。あれの来歴を含め、詳しい話は明日にしよう。北へ渡す荷の積込の算段もな」
黙り込む二人を見てゾファーはそう言い、そこで一人別れ、ククーシカの部屋へと向かった。
オーマの館には、人化した竜や、稀に訪れる旅人のために、いくつかの部屋が整えられている。
その部屋の一つで、今夜ククーシカは休んでいた。
「ククーシカ……」
ゾファーはドアを薄く開け、中を伺う。
「……」
部屋には誰もいないように見えた。
壁際のベッドにはシーツも枕も無かったが、しかし、ベッドの横のナイトテーブルには、火の灯されたランプが置いてあった。
ゾファーはベッドまで歩み寄ると、下を覗き込む。
「ククーシカ……」
ベッドの下には、ベッドのシーツやクッションや毛布が詰め込まれ。その中に埋もれるようにククーシカは蹲っていた。
目は油断なく見開かれている。
「……お兄様……」
「ククーシカ、具合はどうだ? 病む所はあるか?」
ゾファーは優しく声をかける。
「腹が張って痛みます。でも、いつもの事……じきに治まりましょう……」
「……そうか……」
ゾファーはククーシカから視線を外し、窓の外を眺め、雲勝ちな夜空に月を探した。
──ああ、ククーシカが死んでゆく。
──ククーシカの体がプチリプチリと音をたてて壊れてゆく。
──私が瞼を閉じ、また開いた時には、更に死に近づいたククーシカが目に写るのだ。
──ああ、時よ止まらんか。
──我が母は、我を産み、力の大半を失った。
──我を産まし、我に与え、小さくなり果てて……、
──それでも母は、静かに、気高くあった。
──我の器は強大にして強固。
──我の炉は紅蓮にして灼熱。
──我の生きた時間はまだ短いが、
──我の生きる時間は永劫に続く。
──すべて母より譲られしもの
──我は兄として、ククーシカに何が出来るだろうか?
──この弱く、脆く、愚かしい妹に……。
──我が炉を差し出せば、ククーシカは生き存えるだろうか?
──我が命を差し出せば、ククーシカは生き存えるだろうか?
──我のいない世界でも、ククーシカが笑っていられるのならば、
──我は何もかもを捨ててしまおう。
自分の想像通りの形の月を、雲の切れ間に見付けたゾファーは、ため息をつき床に跪いた。
「お兄様……。お兄様もどこか苦しいの?」
まるで祈りを捧げているようなゾファーの姿を見たククーシカは、ベッドの下からおずおずと手を伸ばし、ゾファーの長衣の裾を掴んだ。
「ミール様、ミール様」
深更も過ぎた頃、ヤシンの部屋のドアが、控えめにノックされる。
「……すいません、お入りいただけますか?」
ヤシンの部屋から聞こえるミールの声を聞き、廊下で待っていた長老はドアを開け、部屋に入った。
ベッドでは、ヤシンがミールにしがみついて眠っている。
隣で横になっているミールの目は開いていた。
「申し訳ないミール様。恐らくあなたの言葉がない限り、ワラグリアのエダインの方々は収まりますまい。竜達の騒ぎを目の当たりにし、早々に立ち去ることを主張する者達と、渡海を拒否し、南方を攻めると言い出した者達とで諍いが起こっています」
ミールに顔を寄せ、ささやくような声で長老は告げた。
ミールはヤシンを起こさないよう、そっとベッドを抜け出し、あとから部屋に来た使用人に着替えを手伝ってもらい、外衣を纏うと、長老に抱かれて屋敷を出た。