海峡 Ⅸ
「はあ、はあ、はあ、うううう……」
元々、人が歩くために設えたものではない。
ただ、大きな竜に付いて回るような小竜が、奥の荘厳なホールを真似て、遊び半分に洞窟を拡げようと掘り進み、途中で飽きて放棄した、壁の凹みのような道を、ククーシカは涙を流しながら海に向かって走った。
「お兄様! お兄様! ああ!」
肌を刺す冷たい風が、先程海水を浴びたククーシカを冷し苛む。
洞穴を出て数歩も進まぬうちに、岩礁に打ち寄せる波に足をすくわれたククーシカは、海に呑まれそうになって、岩の縁にしがみつく。
沖の方で時折、何匹かの海竜が火球を放つ。
そのうちの一つが、崖のすぐ先の柱のような岩礁の根元にあたり、石礫を撒き散らしながら大爆発を起こした。
「きゃああああああー!!」
人の頭ほどの大きさの石が数個、ククーシカめがけて飛んできた。
「ククーシカ!!」
海中から突然、白い大きな腕が波間をかき分け飛び出し、岩礁に横たわるククーシカを掌で掴み、その場所から攫っていった。
一瞬遅れて殺到した石の塊と、その後に飛んできた爆散した火球の欠片によって、ククーシカのいた岩場は粉砕され、海底へと崩れ落ちていった。
ククーシカは海中から突き出された、一本の白くて巨大な腕によって、鳥のように早く、沖へと運ばれて行く。
そのうち、腕と並走するように、大きく立派な角を生やした竜の頭が、海面に姿を現した。
「竜王の名代として命ずる!! 火球を放つのを止めよ!! 従わぬ者は、我が炉の太古の焔にて、魂まで焼き尽くすぞぉぉ!!」
荒れた海のうねる波濤の音を圧し、竜の叫び声が響く。
『コォォォォォオオオオ!!』
竜が大量の息を胸一杯に吸い込む。
『ゴバアァァァァァ!!』
空に向けて、竜の口から火焔が吹き上がる。
炎の柱は崖の上の灯台よりも高く聳え、先端はオーマの町をスッポリ包むほど拡がった。
その熱量は尋常ではない。
目の前で火山が噴火したような熱波が空気を歪め、上空にきのこの形に広がる。
熱風が渦巻き、空に登ってゆくと、たちまち雷雲を呼び、辺りに竜巻が起こる。
「お兄様!」
ククーシカは、海を並走する海竜の頭へ両手を伸ばす。
手と頭が接近するとククーシカは海竜の頭へ跳び移った。
「ククーシカ、何故オーマの町から出た? ああ! 身体が冷えているだろう! 町へ戻るのだ、今夜は町で眠りなさい。決して海には近付かないように。知恵を失った者共が海で暴れている」
若い海竜は、そう言いながら、緩やかな熱風をククーシカに送り、ゆるりと旋回し、灯台塔に向き直った。
「お兄様、ゾンダークがお兄様への言伝を。魔道卿がそろそろ塔を降りてくるって……」
「ククーシカ! 泊まり場の竜に近付くなと言ったであろう!」
オーマの町と岬の灯台塔に泳ぎ寄る竜を警戒しつつ、海竜はククーシカを頭の上に乗せる。
「ゾンダークが町までやって来て、宴の準備を申し付けたの。長老は不在で町の人はひどく怯えていたわ。だから私が届けたの」
「……そうか。塔へ行くとするか。ククーシカはオーマに戻りなさい」
「お兄様。側にいさせて……。オーマの人も、お兄様以外の竜たちも、私を受け入れてはくれない……。私には居場所が無い……」
ククーシカは竜の頭にしがみつく。
──ああ! また、ククーシカは血を流している。
竜の目は、ククーシカの足元に流れる血を見留めた。
──ククーシカの命が失われてゆく!
──ククーシカが死んでゆく……。
竜の瞳には深い悲しみの色が宿っていた。
上の階の足音と、重い鉄扉の開く音を聞き付け、ゾンダークは奥のホールの壁際にある、白い階段に視線を移した。
「魔道卿が来たの?」
没薬の煙を纏いながら、ゾルディアもゾンダークと並び階段を見遣る。
「皆のもの、服を着ろ。なんでもエルダールの礼儀にあるらしい。高貴の者と会合する時は、体の凹凸宜しく隠すべし、と」
ゾンダークが胸元に自分の手を添えると、掌から液体が溢れ出し、ゾンダークの裸体を覆った。
液体に色が付き、忽ちそれは布地に変わり、白い長衣へと変化した。
「面倒くさ……」
ゾルディアや他の竜たちもゾンダークに倣い、皆一瞬で同じような服装に変身する。
はじめに階段を降りてきたのはオーマの長老だった。
「おお、服を着ておりましたか」
それが彼の第一声だった。
長老に続き、ヤシン、カロン、ディロンとミールが降りてくる。
「……ゾファー王子は何処へ?」
水から上がり整列した人化した竜達を見渡し、長老はゾンダークへ問う。
「ああ! これは失礼! 我が家臣たちの中に魔道卿とまみえる事を心待ちにし過ぎて、…その、些か羽目を外したものがおりまして、今、王子は、その不心得者共に、礼儀というものを教えている所でして…ク、クカカカ」
慇懃な物腰で長老に接するゾンダークであるが、彼は明らかにエルダールの長老を見下していた。
人化した竜の周囲からも、忍び笑いが漏れ出している。
人の姿をとってはいるが、魔法の心得を知らぬディロンですら、彼らが恐るべき力を秘めていることは、容易に想像できた。
有角の魔人たちの背後には、話し声を聞き付けた、食事を終えた人化出来ない竜達が、長い首をもたげこちらを見ている。
ディロンはそんな集団を前にし、一刻も早くこの場を逃げ出したい衝動を必死に抑えていた。
そしてチラリと、好奇心を隠さず竜達に見入っているヤシンを見て思った。
──王兄は、あちら側の者なのか。
──我らとは異質の者なのか。
人外の化け物を見るような目で、ディロンはヤシンを見据えた。
「これはこれは魔道卿! お久しぶりでございますな! 『西王母』が家臣、衞士ゾンダークにございます!」
ゾンダークはヤシンを見止めると、顔を輝かせ、恭しく礼をした。
隣のゾルディアも礼をすると、他の人化竜も一斉にそれに習う。
背後の竜達も首を項垂れる。
「え? あの、……僕は初代王の遠い子孫で、本人ってわけじゃ……」
竜達の様子に、ヤシンはすっかり驚いてしまい、慌てて言い訳めいたことを言う。
「クク、クハハハハ……。……全く。過ぎし日、まさにこの場で、卿自身が予言された通りの物言いですな。素晴らしい!」
ゾンダークは満足げに頷く。
「……?」
「我ら竜の目は縦の目。時間と次元を見通す目です。あなたが魔道卿ご本人である紛う方無き事実は、隠し通せませんぞ。まあ、お体が些か縮んていらっしゃるご様子ですが。それに色々お忘れのご様子。まあ、我等にはどうでもいい事ですし。クククク、ああ! 違う違う! どうでも良くはございませんでした!」
ゾンダークは大げさな仕草で、何かを思い出したようにポンと一つ手を打った。
「代価の事でございます。こればかりはお忘れになられては困ります」
ニッコリとゾンダークは笑みを浮かべ、片膝を付き、ヤシンの目線まで降りてくる。
「ゾンダーク様。随分とおやつれのご様子ですね」
今まで黙っていたミールが、口を開く。
その声を聞き、ゾンダークは目線をディロンの方、正確にはディロンに抱かれたミールの方へ向ける。
「おお、ミール殿! これまた懐かしい顔だ。どうされたのです? 人などに抱き抱えられ? 手は? 足は何処?」
はじめてミールの存在に気付いたように、ゾンダークは驚いた様子でミールを気遣うふりをする。
「お久しゅうごさまいますゾンダーク様。」
表情を変えずミールは言う。
「ミール殿。北からアングマアルの艦隊が押し寄せた報せは、南のゴンドオルまで届いてはおりませなんだか? あやつらは最近、夏の間に海の氷を割り、この近海まで姿を現すようになりました。北之島のどこかにあやつらの停泊地がありますな。我は手勢を率い、南下した艦隊を何度か退けました。それらの海戦で、我が配下も打撃を受け、炉を湿らせて知恵と分別を失い、哀れな長虫に成り果てたものがおりましたぞ。些か火球を放ちすぎましてな。我が炉も焔が乏しくなりました」
悲しげにゾンダークはそう言うと、視線をヤシンへと戻す。
「南の海の安寧は、我ら海竜の誠実なる誓言の履行により、保たれておるのですぞ。少しは感謝して頂けないか?」
「謝辞は王子に述べましょう。王子はいつお戻りに?」
長老は辺りを見回しながら言う。
「……。そのご様子ですと、先程、我が敬愛する西王母の御曹司が放った大爆炎は、ご覧になられませんでしたか。我ら一同この場で眺め、肝を冷やしたのですがね。ゾファー王子は、ほれ、只今戻りましたぞ」
王子の名が出ると、舌打ちをしかねないような渋面でゾンダークは答える。
その時、海から一本、少女を頭に乗せた竜の首がやって来る。
「遅参の段、御免なれ。西方竜の元締め、西王母が一子、ゾファーである」
竜の首は一旦沈み、再び浮上した時には、ククーシカを抱いた背の高い少年の姿になった。
彼はククーシカをそっと、床に立たせると、ゾンダークを睨み据えた。
「どうやら我が家臣が、何やら粗相をしたようだな。ゾルディア。竜達を海へ出せ。ゾンダーク、お前もだ。自分の配下を黙らせろ! オーマとこの岬に近付けるな!」
言葉と一緒に熱と火の粉を吐きながら、ゾファーは人化した竜達を睨む。
「魔道卿との会談は、西王母様より私が任じられておりますれば、遠ざけること無きように……」
「黙レェイ!! 灯台守を襲い、魔法核を奪い、それを喰らったのはお主であろう! お前は年老い、炉を湿らせ、分別を欠いたのだ!!」
ゾファーが吠えると、ゾンダークは一瞬ゾファーに挑みかかるような表情を浮かべたが、すぐに抑え、笑顔に戻った。
「それは残念! お力になろうと張り切っておりましたものを! では、我らは海に控えております。なにかございましたなら、火球をこちらへ放ってください。では……。さあ! 行くぞ! 散れ! 能無し共!」
丁寧に礼をしたゾンダークは、ゾルディアと人化した竜達を追いたてながら、海へと去っていった。