樹海へ走る
男は東京から樹海に向かって走る。
およそ100km近い道程を、自分の両の脚だけで、どんな交通機関にも頼らず、一心に走る。
男が走る理由はただ一つ――自殺するためである。愛媛といえばミカンを連想するように、自殺といえば樹海。そう結び付けたのである。
死に向かう男の走りは、躍動感に満ち、生命力に溢れていた。
学生時代は陸上部に所属し、全国大会でも長距離走で優秀な成績を上げ続けていた。走ることに関しては日本でも屈指の能力を有しているといっても過言ではない。事実、少しでも陸上業界を知る者であれば彼の名は必ず耳に入るほどの知名度であったし、今所属している会社でも、仕事は午前中のみで切り上げられ、午後は練習に専念できるほど優遇されている。
そんな男が突如自殺を思い立った理由は、挫折や厭世ではない。環境に不満は一切ない。
一言で言うならば"過程"であった。もっと噛み砕いて言うなら、死ぬまでの過程で全力を出し切り、燃え尽きることに意味を見出したのである。それもある日突然に。死の形は、首吊りや餓死であってはならない。自分が最も得意とする走りが最も相応しい。そして樹海へ向かうまでの間に全生命力を使い切り、着くと同時に力尽きる。死んだ後は鳥獣に食い荒らされようが構わない。
過程を輝かしい死のビクトリーロードにするために、男は走る。休まずに走る。昼も夜も、生命力を燃やして走る。
『俺は、樹海で死ぬのだ。死ぬために全生命力をかけて走るのだ』
髪の毛から足の爪、隅々まで充満する喜びが脳内麻薬となって、平時を大幅に上回るペースであるにも関わらず、男から疲労という概念を忘却させていた。あくまでも忘れていただけであり、男は確実に消耗していた。これもまた男の望み通りである。
流れゆく景色は走馬灯。すれ違う人々は葬送の参列者。ほとばしる汗は流れ星。命を燃やす男は煌めいていた。
結論を言うと、男は一切ペースを落とさずに完走した。樹海の入口付近、二つの樹の幹の間に張られた白いビニールテープを切って、男は勢いのまま地面に倒れ伏す。体と頭を、草で覆われた固い石でしたたかに打つが、痛みなどどうでもいい。
と、痛みを感じた時点で、違和感に気付く。男はまだ生きていたのである。心臓は破れそうなほど激しく拍動し、豪雨に打たれたように全身は汗だく、目の下には隈が浮かび、唇は青ざめ、手足は脳の命令を受け付けないほど衰弱していたが、男の生命の火は未だ消えていない。
すなわち、男の自殺失敗を意味していた。
男の顔に、汗とは異なる液体が浮かび、重力に従って下へ流れていく。何たることだ。これでは意味がない。何のために命を賭して走ったのだ。普通のマラソンと変わらないではないか。
「おめでとう」
――と、そこに、上から声が降りかかってきた。こんな場所で話しかけられるおかしさに疑問さえ抱かず、男は目玉だけを動かし、声のした方向を探る。
過程こそ違えど、辿り着こうとしている結果は同じであろう同志――志願者と思われる中年男が、拍手を送っていた。
「おめでとう」
中年男は、再度同じ言葉を繰り返した。
「おめでとう」
今度は別の方角から違う声がする。男はまた目玉を動かす。若い女が立っていた。
「おめでとう」
「おめでとう!」
「おめでとう……」
あちこちから声、声、祝福の声。目玉をぐるぐる動かす間もない。動かしたら目を回してしまいそうな勢いだ。
男は疲れ切っていたこともあって面倒だったので、真上の空を見ることにした。背の高い木々から張り出している枝葉が、どんよりした夜空を隠している。
枝葉と夜空を、更に志願者たちの顔が上書きした。老若男女バラエティに富んでいるが、表情は一様に明るく無邪気だ。志願者にあるまじき明るさであった。
「おめでとう」
「お疲れ様」
「コングラッチュレーション」
口々に出てくる賛美の言葉を、至近距離で思う存分浴び続けて、男は汗まみれの顔をほころばせた。そして未だ整わない呼吸でただ一言、こう呟いた。
「ありがとう」