安部公房について考える
『異端者』という存在になってしまった作家が、安部公房であろう。
「安部公房というのは満州人だ」
と評された意見を見ると、何とも言いがたいものを感じます。
『昭和という時代人』の、柄の悪さ。
そう言えるかもしれない。
安部公房は、
時代の裂け目
国家の裂け目
主義の裂け目
集団の裂け目
人間の裂け目
ありとあらゆるものから、疎外され、『孤立』していたんじゃないか。
若い頃に受ける、社会からの圧力というのは、安部公房の受けた圧力から比べると屁でもないでしょうな。
安部公房の経歴を辿ること自体、文学にもなる。
ただ、それをもって、
「安部公房は、日本人でもあるし満州人でもあった」
と結論づけるのは、何かズレてる感じがします。
「安部公房は『本物の異端者』であった」
という評価を見たとき、私はその意見こそが安部公房を最も表現していると思いました。
安部公房は、ファッションとか流行で『異端』を気取っているのではない。
彼自身のあずかり知らぬところで、『異端者』になった。そして、安部公房は『自分自身』を確立させた。
『満州』という言葉は、現代人には何を言っているか分からないと思います。知識として持っている方はどうなんでしょうな。
『砂上の楼閣』だとか『砂絵』。
そういうものでしょうか。
しかしですね。
『満州語』があるんですね。
私は、司馬さん(司馬遼太郎)の韃靼疾風録で知りました。
そういったことから、『草原を駆け抜ける風』のようなものを『満州』から感じますね。
『風立ちぬ、いざ生きめやも』と堀辰雄が表現したのは、こういうことにも通じるんじゃないか。
さて、安部公房に戻す。
安部公房の魅力は、まさに『孤立』にあります。過去との断絶、あるいは『未来』とも断絶しているかもしれない。
『異世界』の魅力を、伝えた人間ではないでしょうか。
『現実』という要素から、邪魔なものを取っ払ってゆく。そこから『必要なもの』だけをとって世界を構築した。『異世界ファンタジー』の原点かもしれないですね。
『指輪物語』や『ナルニア国物語』が、『異世界ファンタジーの原典』とも言う人がいますが、どうでしょうか。これらは、世界大戦と無関係ではありません。あるいは、キリスト教と密接してます。ナルニア国なんかは、作者の信仰心という観点から見ていくと、面白かったりします。
『異世界』というのは、非常に魅力あるものですね。原始的でもあるし、現代的でもある。なかには、未来を見つめるものもありますな。
それは、安部公房が、
『孤立しても、そこから世界を構築できる』
ということを暗に示したんじゃないか。
『内的亡命』や『コスモポリタン』というものが、安部公房の周辺に存在しますが、どうもそれすらも安部公房を疎外したように思える。
過去、未来というものに疎外されている作家は、そういません。
内的亡命やコスモポリタンの現状は、EUが教えてくれています。
内国テロの増加、民族回帰や聖戦回顧。
何やってるんだ、こいつら。
そう落胆する人もいるでしょう。これらの原因は、世界大戦時の作用に対する反作用。言ってしまえば、そんな単純なものです。
この記事が書かれている、今、まさに、この瞬間は、コスモポリタニズムの勝利とは言えない。
厳密にEUが世界主義じゃないと、反論できますが、
『常に反論の余地を残し、保険をうってるのがヨーロッパ』
だと、私は思います。
ある意味で、それが長所でもあったのですが、テロリズムの引き金となってしまいました。
社会情勢を辿っているのですが、安部公房の作品を辿るというのは、そういう趣があるように思われます。
戦後七十年ともなると、過去との断絶を起こしているので、『現代人』は素直に安部公房を楽しめるでしょう。文体の割に、哲学的で読みにくいと聞いたことがあります。『異世界』とは何かを知るには良い切っ掛けでしょう。
安部公房を読まずに、『知ったかぶり』するなら、もちろん、
『本物の異端者は安部公房だ』
ということになります。
しかし、戦争がなければ、どうなっていたんでしょうか。
『境界線』や『裂け目』に生息せざるを得なかった人物は、無事に暮らせたのか。詮無きことですが、思わずにはいられませんなぁ。