後編
「ああドロテア、きみはなんてひどいこだ。」
すこし高めの甘ったるい声が、空気を震わす。覚えのあるそれに、ドロテアははっとした。閉じられた世界の淡い靄が振り払われた。身体を起こして振り向くと、予想に違わぬ男が花の中に佇んでいる。
かつての兄弟子、魔法使いサカリアス。正しく天才で、同じ師に仕えたことがあるなどと冗談でも口にできない存在だった。
しらゆきに着せられるだけの高価なワンピースを与えてくれたのも彼で、ことあるごとに菓子や装飾品をくれ、妹弟子を甘やかすのが好きな男。とても世話になったのに、逃げ帰ることが申し訳なく、師の元を去ったのはちょうど彼が遠方に遣いに出ているときだった。
サカリアスも、ひどくうつくしい存在だった。
しらゆきが天使か女神ならば、彼はさながらうつくしい悪魔。脳を溶かすような蠱惑的なうつくしさ。
とはいえ、ドロテアが愛するのはしらゆきの美しさだけではなかったから、サカリアスに同様の傾倒はしない。彼女にとってはただのうつくしい兄弟子で、太陽でも月でも神でもない。
しかし、ただの兄弟子ではない。
彼は、”誰より頼りになる”兄弟子なのだ。
「サカリアスさま」
彼女の居た一門では、先輩弟子にさま付けするのが普通だった。
サカリアスはドロテアに優しく微笑み、もう一度「ひどいこ」と繰り返した。
ひどい子?
先ほど自分も思っていたことだ。けれど、届いた音は自分の思うそれと違ってはっきりと脳髄に届く。傍らで眠る少女の、その苦痛を忘れ、美しさに陶酔していたのは、たしかに罪だった。ドロテアは黒いワンピースの胸元を強く握りしめた。
なんて、なんてこと!
なんて愚か!
他の誰でもないしらゆきの不幸に、幸福を見出すだなんて!
なんておぞましいことを!
幸福を引き立てていたわずかな背徳感が、大きく膨らむ。唇がわなわなと震えていた。しらゆきの幸福を願うだなんて言いながら、結局は自分のことばかり。
自責の念が視界を覆う直前、男の声がそれを防ぐ。一歩一歩、近くの花が踏みつけられてゆく。
「ひどいこ。きみは、きっと今、彼女のことを考えているね。」
当たり前のことを言うサカリアスを、きょとんと見上げる。彼の形作る何もかもわかったような微笑みは、出会った当初からしばしば浮かべられるものだった。
藁色に手が差し込まれる。
それから仕方ないなあと微笑む表情を、ドロテアだけが見慣れている。
「きみが居なくなったときにやっていたこと。あれが僕の卒業試験だったんだ。僕はもう、一人前の魔法使いだよ。」
だから、きみの願いを叶えてあげる。
思えば、できそこないのドロテアの望みはいつも彼が叶えてくれた。魔力も技術も知識も才能も、賢者にだってなれる彼はいつだってドロテアには濃い蜜だけを飲ませてくれた。うつくしい顔には優しさが滲んでいる。
思わず握り込んだ手の下では、下敷きの植物が潰れた。爪に土が入り込む。
彼ならば、ドロテアにできないことだってできる。
今の願いを、叶えてもらえる。
思わぬ救いに目頭が熱くなり、呼吸が乱れた。神はやはり、しらゆきを愛していらっしゃる! 実際に救ってくれるサカリアスに対しての感謝より先にそう思う。
さかりあすさま。
呼びかけた声は小さく、震えていた。男はにっこり微笑んで、髪から頬に手を滑らせる。
「しっ、しらゆきを! どうか、彼女を助けてください!」
歓喜と、高揚。そしてひどい緊張。どくどく耳の奥まで血液が回り、なのに指先は冷たい。なんでもしますから。続きは口にしなかったが、きっと確かに伝わった。
魔法使いは、魔法をただでは使わない。
対価、代償、求めるものも規模も魔法使いそれぞれの決めることで、多くは金品や労働となる。どれだけ優しい魔法使いでも、無償奉仕はけして行わない。
そして大概、魔法使い同士の取引と、魔法使い対人間の取引では、対価の重さが圧倒的に違う。
かつて見習い魔法使いだったサカリアスが一人前の魔法使いになり、同じく見習い魔法使いだったドロテアが一般人に戻ったのだから、見習い同士の取引と違って奇跡を求めることになる。あの頃のようなささやかな──当時彼が望んだのは、一緒に買い物に行くとか抱きしめるとか、その程度のことだった──そんな対価では済むはずもない。
なによりしらゆきにかかった呪いは、おちこぼれのドロテアどころか、並の魔法使いでは解こうとさえ思わないほどのもの。徒労に終わるのが目に見えている。
いったい何を要求されるだろう。
しらゆきのためなら、なんだって差しだそう。
強ばった身体をほぐすように、大きな手が頬を撫でる。冷たい美貌をして、氷細工のように白く繊細なくせ、彼の手はいつもあたたかい。冷たい硝子に触れながら、やさしい温度にすり寄った。
「心外だな、そんなに緊張するだなんて。かつての妹弟子にひどいことを望むと思うかい? そうだな……、うちにおいで、ドロテア。僕のものにおなり。僕の家で、僕のために暮らすんだ。」
「それは、奴隷、に」
「ドロテア、なんてひどいこだろう。そんなことはしないよ。一緒にお茶を飲んだり、ただ僕と暮らしてくれればいいんだ。ねえ、どうだい?僕と共に生きてくれる?」
「そんな、……そんなことで、いいんですか」
「魔法の対価は、魔法使いが望む通り。きみが頷けば、僕が呪いを解いてあげる。ねえ?」
記憶の通り、自分にすこぶる甘い男だ。
ドロテアはようやく安心して、いつもの微笑みを浮かべ、その甘言に頷いた。これでしらゆきは助かる。彼は、なんて優しいひとだ。魔法の準備を始めた彼の慈悲深さに、ドロテアはうっとりと手を組んだ。