世界と断片:魔鍵と日常Ⅳ
「……ごくり」
ファウストが息を呑み、吊り橋のロープをしっかり握り、第一歩を踏み出した。
そのロープもとても古くていつ切れてもおかしくなかった。
「……ふぅ、落ち着け……落ち着け私……」
これ程、緊張するのは久しぶりだ。
今まで何度も死と隣り合わせの死線を潜り抜けてきたファウストも特に今回は慎重にならざるを得ない。
バッドエンドが無言で見守る中、片足で何度も橋を叩き、細心の注意を払いながら一歩ずつ確実に進んでいく。
「おぉ~い!! 大丈夫~!?」
ファウストが半分を超えた辺りで、小さなバッドエンドが元気良く手を振ってファウストを心配している。
しかし、ここまで来てしまうと例え大丈夫じゃなかろうがもう渡りきるしかなかった。
心臓の鼓動が高鳴っている。
何とか、バッドエンドを安心させる為に片手を上げる、と。
強風が吹き吊り橋が大きく揺れた。
「ひ、ヒィッ!!!!!!」
本気で悲鳴をあげ、すぐさまロープにしがみつくファウスト。
こんな姿、他の者には見せられない。
バッドエンドも橋の出発点でファウストの動揺に心配する。
ファウストの言葉をそのまま信じきっていたバッドエンドはまさか、あのファウストがここまで恐がっていたとは想像していなかった。
今になって後悔していた。
「が、頑張ってー!」
無責任だと自覚していながらも今は応援する事しかできなかった。
強風が吹き止むとファウストは再び急ぎながらも慎重に橋を渡っていく。
「後で、ちゃんと謝らないと……」
バッドエンドは深く反省していた。
自分の為にファウストを危険な目に合わせている事を今になって気づいたのだ。
今思えばファウストが自分と契約して本当に迷惑だと感じていないのか不安になってきたバッドエンド。
ファウストは優しい。
それ故にバッドエンドを心配させまいと自分を押し殺して振舞っているのではないかと疑問を抱く。
「不幸な結末……」
自然と顔が俯き、地面を見つめるバッドエンド。
自分の名前が持つ意味。
バッドエンドは誰とも契約していない鍵の状態の時に聞いた事があった。
自分と、魔鍵と契約した者は皆、不幸な結末を迎えると。
それがどんなものだったのかバッドエンドは覚えていない。
だが、もしそれが本当ならばファウストもいつか、魔鍵である自分と契約した事によって不幸な結末を迎えてしまうのではないか、バッドエンドはそう案じた。
そう考えるとバッドエンドの心は今にも壊れそうになってくる。
忌まわしい記憶しかないバッドエンド。
そんな自分を救い、そんな自分が好きになったファウストの未来を奪ってしまうかもしれない。
狂いそうになる。
バッドエンドの心が何が蝕もうとしていた、そんな時だった。
「バッドエンドオオオオオオオオオ」
その声は、橋の向こうから聞こえてきた。
バッドエンドはすぐにその声の方向に顔を上げる。
それは、いつの間にか無事に橋を渡りきった大好きなファウストの声だった。
「ファ、ファウスト!?」
ファウストの無事な姿を確認し、一先ず胸を撫で下ろす。
すると、遠く離れるファウストがバッドエンドに声高らかに告げる。
それは今のバッドエンドにはとても嬉しい言葉だった。
「どうですーーーーーー!!!!! 私ともなればーーーー!!!!! こんなの余裕ですーーーーーー!!!!! 私の命はーーーーーー、未来はーーーーー、簡単に奪えないーーーーーーー!!!!!!」
そしてあの不敵な笑い声がこだまする。
先程までバッドエンドが抱いていた気持ちなど知るはずもないファウスト。
吊り橋を渡りきった事でついテンションが上がり、ただ自慢気に叫んでいるだけだった。
だが、それでも。
「ファウスト……」
今のバッドエンドは、再びそれで救われた。
過去の契約者の事は最近のギルバルドしか覚えていない。
それでも、ファウストは違う。
そう思わせてくれた。
嬉しさで涙が溢れてくる。
「くれぐれもーーーーーー!!!!!! 慎重に渡ってくるんですよーーーーーーーーーー!!!!!!!」
愛しの主が呼んでいる。
バッドエンドは腕で涙を拭い、笑顔でその言葉に大きく答える。
「大好きだよーーーーーーーーーーーー!!!!!!! 待っててねーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
よく見えないバッドエンドのその言葉にファウストは向こうで顔を赤くして咳をしている。
バッドエンドは悩むのを止め、今を楽しむ事にする。
大好きなファウストの元に慎重に向かう。
「……ふぅ、相変わらずですねぇ。……彼女と出会ってから照れてばかりですよ」
自分の元に向かってくるバッドエンドにファウストは少し困っていた。
女性の方からアプローチをされるのに慣れていないファウストにとって、バッドエンドの自分への好意は悩みの種だった。
照れ臭くて仕方が無い。
それでも、内心は嬉しかった。
何度も恥ずかしいバッドエンドの叫びが響きファウストは困った笑みを浮かべる。
そして暫くしてから、ようやくそんなバッドエンドの姿を近くで感じる距離まできた。
「やっほ~、ようやくここまで来たよ~」
「よし、ちゃんと言いつけを守ってますね」
指示通り、足場を慎重に確認してから進むバッドエンドに腕を組みながら頷くファウスト。
この深い谷底に落ちては洒落にならない。
「確かに危険に変わりないですが、慎重に進めば何も問題は――――」
そんな時だった。
「おッ!?」
ファウストはその事態に眼を見開く。
バッドエンドがここまで到着するまであと少しという距離でそれは起こった。
先程、自分を苦しめたあの強風が吹き始めたのだ。
思わず声を荒げる。
「お、落ち着くんですよッ!!!!」
先程より強風が明らかに強かった。
吊り橋もそれに応じて激しく揺れる。
万が一の事を考え、バッドエンドに冷静になるよう急いで指示したファウスト。
しかし、ファウストに指示されまでもなくバッドエンドはあまりこの吊り橋に恐怖していなかったので冷静だった。
それでも。
事態は悪化してしまう。
「っと、と、大丈夫だよ、さっきファウストの時も大丈夫だっ――――」
バッドエンドの言葉を、万が一の事態が襲い遮る。
吹き荒れる強風に遂に吊り橋が耐えかね、バッドエンドの足元から崩壊を始め、ロープも限界に達し、嫌な音をあげて二人の距離を無情に切り裂く。
二人は必死に手を伸ばした。
しかし、それでも無駄だった。
「ファ、ファウス、きゃあああああああああああああああああ!!!!!!!」
「バッドエンドッ!!!!!!! クソッ!!!!!!」
無残に散りゆく木造とロープ。
そして足場を失ったバッドエンド。
バッドエンドの悲鳴が闇へと消えていく。
必死にファウストに腕を伸ばしたが届かなかった。
「ッ!!!!!」
仕方なかった。
あの時、手が届いていれば。
そんな事を考えても、もう仕方ない。
この状況ではもう助からない。
大人しく深い谷底へと落ちる事を覚悟するしかなかった。
魔鍵である自分ならば、何とかなるかもしれない。
それに流石にあの距離からファウストがバッドエンドの腕を掴み、救う事はできなかった。
ファウストは何も悪くない。
悪いのは全て自分だ。
深い深い闇に堕ちていくバッドエンドはそう思っていた。
だが、そう思ってるのはバッドエンドだけだった。
「クッ!!!! すみません私のせいですッ!!!!」
「ファウストッ!?」
谷へと落ちゆくバッドエンドの身体を、ファウストが強く、強く抱きしめていた。
橋が崩壊し、バッドエンドに手が届かないとなると支配眼を迷わず発動させバッドエンドの元へと辿りついた。
「な、何で一緒に落ちて来たんだよッ!!!!!」
ファウストは橋を渡りきっていた。
そして、魔鍵であるバッドエンドなら無傷とはいかないまでも恐らく大丈夫、ファウストもそう思っていたはず。
なのに。
なのに、こうして自らまで谷に飛び込んできたファウストの行動がバッドエンドはとても理解できなかった。
挙句の果てにファウストはこの事態を招いたのは自分の責任だと謝罪までしてきたのだ。
こうして、バッドエンドが届かないと諦めていたその手でファウストが力強く抱きしめてくれている。
「足を滑らせてしまったんですよ」
「はぁッ!?」
ファウストがよくわからなくなってきた。
僅かに支配眼を発動させた時の赤黒い火花の様な光が散っている。
足を滑らせた、そんな風には見えなかった。
わざわざ自分を救いに来た、そうとしか思えなかった。
しかし、そうも言ってられず間もなく地面に身体を激しく打ちつけてしまう。
「ッ、ワタシが、ワタシが絶対守ってあげるからッ!!!!!」
あれだけファウストを守ると豪語していたにも関わらずこの様な状況になってしまった事に、心の中で自分を何度も何度も責め続けるバッドエンド。
そしてバッドエンドはせめて、自分がどれだけ傷つこうが何とかファウストの身だけは守ろうと必死に庇おうと抱きつこうとした、が。
抱きつけない。
「は、離してよッ!!!!!!」
ファウストがあまりにも力強くその身体を抱きしめているのでバッドエンドは、身を挺してファウストを衝撃から庇う事ができないでいた。
これではファウストが死んでしまうかもしれない。
なのに、
「はぁ……今までのこっ恥ずかしい言動のお返しです。甘んじて大人しく守られてもらいますよ」
命の危機のはずだ。
しかし、ファウストには一切の後悔も迷いもなかった。
そんなファウストに、バッドエンドが怒り顕に反論する前にその言葉を最後にして二人は深い谷底へと落ちた。




