魔眼と魔鍵:9話
魔鍵の流した涙。
それはファウストのシャツによって拭われた。
現在、ファウストはバッドエンドの肩に担がれながら地上に向かっている途中だった。
「あの、私もう歩けるんですが……」
何度もそう言っているが、一向にバッドエンドはファウストを放さなかった。
自分で歩けるにも関わらずバッドエンドはそれを拒否し献身的に自らの肩を貸し、担がせるよう要求してきたのだ。
自由をくれた恩人にこれぐらいさせてほしいと必死に懇願していた。
バッドエンドはとても返しきれない恩を感じているのだ。
「あれだけ激しくバトったんだ、疲れてるだろう? これぐらいさせておくれよ~」
その可憐な顔が。笑顔ですぐ側でそう答える。
眩さすら感じる。
「は、はぁ」
バッドエンドの美しい黒髪から甘く官能的な匂いが漂い、ファウストの鼻をくすぐる。
密着したこの状況、人間の少女そのものの肌の感触。
それは非常に心地良いものだ。
「まぁ……金を払わず貴女のような美少女にこうして介抱されるのは大変喜ばしい事なんですねぇンフフ」
そう素直に感想を述べると、バッドエンドが嬉しそうな表情で言う。
「ワタシは……もう身も心も君のモノなんだぜ? もっと甘えてくれて良いんだよ?」
「なッ!?」
恥ずかしげもなくそう言い切る美少女。
思わずこちらの方が顔を赤くしてしまう。
そんなファウストの態度にバッドエンドはからかうように目と眼を合わせて優しく微笑みかける。
もう死んでもいいかもしれない、一瞬そのような馬鹿げた事さえ思える程。この少女の笑顔はファウストの心を溶かしてくる。
しかし、その顔だけではない。
人間でいえば16歳程の見た目の少女は、その割りに胸やヒップが程よく出ており、とても男性を刺激する魅力的な身体をしている。
戦闘中はそこまで意識していなかったがここにきて、これだけ身体を密着させた状態で意識するなという方が無理な話だった。
しかし、ファウストは我に帰り考えてしまう。
「せっかく貴女に自由を求めたというのにこれでは――――」
古びたピエロの仮面がバッドエンドの手によって不意に外される。
そしてバッドエンドの唇がファウストの唇に被さった。
それ以上の発言権を奪うように。
それは柔らかく、とても刺激的。
ファウストは思考が止まってしまう。
馬鹿になってしまいそうな、衝撃的なその行為、そして雷に打たれたような、込み上げる感情が身体全体を走り抜ける。
バッドエンドは静かに、優しくその唇を離す。
「な、な、」
不意の出来事に上手く言葉を発せられずにいるファウスト。
今度はバッドエンドの方が頬を染めながら、悪戯っぽく微笑み、強引に古びたピエロの仮面を慌てて戻す。
「へっへっへ~、だからこれは全部……ワタシがしたい事をしてるだけなのだぜいッ」
超かわえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
心の中で叫ぶ。
とにかく叫ぶ。
支配眼を発動させている間と同じ、いやそれ以上かもしれない程に、ファウストの心臓の鼓動が勢いよく高鳴る。
そんな二人のやり取りが行われている間に、ついに地上へと上がる階段が見えた。
名残り惜しいがいつまでもこの様に担がれたままでいるわけにもいかず、バッドエンドから離れるファウスト。
「……さ、さて。とりあえず一旦ここを離れれば貴女は自由です。その後の事は貴女に任せますが」
若干、声を震わせているファウスト。
何とか冷静さを取り戻し、二人して階段の先を見つめる。
「無事に二人で逃げるにしても、君が言ってた人がワタシ達を邪魔してくるんだよね」
「えぇ、間違いありません」
ジル、ファウストの親友による妨害が危惧される。
ここに来るまでに予想していた事。
それは先程、エルドが現れた事で確固たるものになった。
闇の仲介屋に魔鍵の盗みを依頼してきた依頼主。
情報屋ジルがファウストを殺し、魔鍵を奪おうとこの先で待ち構えているはず。
「ジルにしては今回の計画はえらく雑な気がしてならないんですがねぇ……。まぁ、エルドが出てくるタイミングといい、恐らくこちらの動きは完全に監視されていたのでしょうね。という事は貴女を無事盗み、脱出しようとする今の私達の行く手を阻むのは当然でしょうねぇ」
静かに二人は階段を上がる。
息を呑む。
最初から無音のエルドと呼ばれる気配を完全に消し、動く事ができる実力者である人物に魔鍵の盗みを依頼しなかったのは自分を裏切り、魔鍵を奪われてしまうから。
だからエルドさえもファウストの支配眼を使い切らすか、制限させる為の駒として利用したのだろう。
しかし、エルド相手に一度も支配眼を発動させなかったファウスト。
だがここに至るまでの間に、結果的ではあるが使用時間が残り僅かとなり、ジルの望む展開へと事が運んでしまっている。
段々と地上から降り注ぐ光が眩しくなってきた。
階段を抜け、邸の玄関であるエントランスに到着する二人を彼はただひたすら待っていた。
「……やぁ」
エントランスの中央には、両ポケットに手を入れ、余裕の面持ちで待ち受けるスーツ姿の小奇麗な紳士的な中年の姿があった。
ファウストが現れると、暗い表情のままジルが笑顔で手を上げる。
『……』」
それに無言で歩み寄る魔眼と魔鍵。
ファウストが見たところジル一人のようだ。
邸の外も、火の消化が終わったのか静か。静かすぎる。
人の気配がまったくしない。
「……警備兵や使用人達はどこへ?」
ファウストのその質問に、普段と変わらないトーンでジルは答える。
「はは、……それなら僕とエルドの二人で帰りが楽になるように始末しておいたよ」
この邸を厳重に警備する為に用意されたあの人数をこの短時間で始末したと言う。
いくらエルドが優れた殺し屋であっても、いくらなんでもそれは早すぎる。
それにジルは情報屋、戦闘の方はからっきしのはず。
だかたこそ、ファウストは焦る。
今、眼の前に姿を現しているこのジルから凄まじい覇気を感じる。
だが、ファウストはその驚きを表立って現さない。
「ンフフ……そうですか。掃除の方、ありがとうございました。さ、行きましょうバッドエンド」
「う、うん……」
そのままジルの横を普通に通り過ぎようとする。
「……」
その瞬間。
ジルはスーツの袖から、漆黒の特殊な金属製の棒を取り出し、ファウストに狙いを定め、放つ。
だが、腕を刃に変化させたバッドエンドがそれを察知し、ファウストを見事に守る。
激しい金属音が鳴り、バッドエンドの表情が少し歪む。
ファウストは玄関の方を見つめたまま振り向かず、そんなジルに一応問う。
「これは……何の真似ですか? ンフフ」
しかし、ジルは答えない。
だが、ファウストはその質問も、答えも、もう何も意味を成さない事に気づいている。
それでも、それでも親友の口からその答えを聞き出したかった。
何も答えないジル。
漆黒の特別製の棒が、バッドエンドの刃と変化した腕に防がれたまま、沈黙が続く。
ファウストは深い溜息を吐いてしまう。
「……やれやれ」
先程の戦いで、使い物にならなくなった全ての武器を捨てたファウスト。
仕方ないと、自身の拳で、勢いよくジルに殴りかかる。
が、それを意図も容易くジルのもう片方の手で止められてしまった。
「ほう……」
ファウストが感心する中、バッドエンドが何かに気づき叫んだ。
「ファウストッ!!」
「残念だがここで君の仕事は終わりだファウスト」
バッドエンドが防いでいた、漆黒の特殊な金属製の棒に凄まじい力が込められ、ファウストの拳を握るその手の力もどんどん強まる。
「これは……」
ファウストもそれに気づき、表情が曇る。
そしてファウスト、バッドエンドが二人同時に、玄関とは逆の方向へと吹き飛ばされてしまう。
盛大に吹き飛ばされる二人。
瓦礫が散乱する中、むくりとバッドエンドが身体を上げる。
「……おいおい、全然話と違うじゃないか」
「すみません、これは……予想できませんでした」
ファウストも身体を上げるが、砂埃舞う中、二人を見下すジルの姿がもうそこにあった。
その目はとても冷ややかにファウストに向けられている。
「……ファウスト、こちらの世界で生きてきた君ならわかるだろう。切り札、自分の本当の力というものはここぞとばかりの時にしか他者に見せてはいけない。僕にとっては今がまさにそうだ」
「ンフフ……つまりアレですか? 今までずっとその実力を隠していた、と。とんだ狸ですねぇ貴方も。嘘だらけの人生……どんな気持ちなんでしょうねぇ」
「それは君だって同じだろ?」
その場に倒れこみながら二人はジルを見上げる格好となっている。
余裕の態度を見せるファウストとは対照的でバッドエンドは焦っている。
すぐに立ち上がり、反撃しようとする。
するとジルの眉間に凄まじくシワが寄るのがわかった。
「お、おいッ ファウストッ!!」
ジルが、バッドエンドなど眼中に無いと言わんばかりに、ファウストのみに集中し、その顔を踏みつけようと足を上げていた。
しかし今のファウストはそれを避ける体力が残っていない、というか避ける気力が起きなかった。
それを阻止しようとバッドエンドが身を挺しして守ろうとする。
だが漆黒の特殊な金属製の棒でバッドエンドの身体を叩きつけ、遠くまで吹き飛ばし、ファウストからその身体を引き離してしまう。
「がはッ」
響き渡るバッドエンドの悲鳴。
すぐさまバッドエンドのその異変に気づくファウスト。
「……バッドエンドッ!?」
今までどれだけの攻撃を食らってきても無傷で平気な顔をしていたバッドエンド。
だがそんなバッドエンドが初めて悲鳴をあげている。
驚くファウストの首に、漆黒の特殊な金属製の棒が当てられる。
ファウストはそれをよく観察した。
「魔鍵は確かに強い、しかしそれは無敵ではないって事さ。形あるモノには限界があり、いずれ壊れる……。全身が刃になろうがそれはあくまで頑丈な剣止まり。魔鍵を倒す方法は二つ。デタラメな速さで攻撃する、もしくは今の様な強力な打撃だ。この棒はアラトの特別製でね。使用者の実力に応じて岩だろうがそれ以上の鉱石だろうが粉砕できるって代物だ」
バッドエンドの全身に走る痛み。
必死にそれに耐えるように、叩きつけられた部分を抱え、その場に倒れ込んで動けないバッドエンド。
そんなバッドエンドの様子にファウストは焦りを見せながらジルを睨みつけた。
「ッチ、貴方……本当に何を企んでるんですッ」
その問いに対して、ジルは目を閉じ、語る。
「僕はね、楽園の力を使い、この世界を消す。……それしか考えてないよ」
違う、ジルは嘘をついている。
ファウストはジルの目を見つめながら親友の嘘を見破る。
それだけじゃないはずだ。
「……そうですか、しかし貴方が楽園に行くとなるとまずは魔鍵の契約者にならなければいけませんねぇ。ですが、もうバッドエンドは私と契約済みですよ」
右手の甲に刻まれた刻印をジルに見せつける。
しかし、ジルは何ら問題無いとばかりに言い放つ。
「あぁ、だから君を殺すんだ。だから君は僕を殺すんだ」
「……そう、ですか」
何かが吹っ切れたように。
瞳を閉じ、ゆっくりと瞳を開ける。
支配眼が盛大に赤黒い火花を散らす。
その瞬間。
漆黒の特殊な金属製の棒の先から、ファウストの姿は消し、離れた場所でバッドエンドを両手で抱え込んだ状態で再び現れた。
「……まだ支配眼を使える余裕があるのかい? 良い事を教えてあげるよ。間もなくノイタールの兵がこの邸に大勢押し寄せる。僕が魔鍵の情報をリークしたからね。今ので支配眼も使えて残り1~2秒だろ? もし僕を殺せたとしても――――」
ジルの言葉は小さな声が遮る。
「バッドエンド、大丈夫ですか?」
「お、大げさだなぁ、ちょっと痛かっただけだよ問題ナイナイ」
だが、バッドエンドの身体からは大量の汗が流れ、とても辛そうだ。
そんな風に強がる少女を前に、ファウストも覚悟を決める。
「ではここで少しだけ待っていてください。……すぐに終わらせます」
そっと抱えたバッドエンドをジルから離れたこの地面に下ろす。
「ファウスト……」
一人で戦うつもりだ。
ファウストは責任感にも似た、何かを抱いている。
そしてジルの前に静かに立つ。
「昔から思ってたんですけど貴方という人は本当に面倒くさい」
今になってジルとの過去の記憶が蘇る。
初めて裏の世界で知り合ったのがジル。
全てが偽りだったとしても、二人の間には確かな友情が芽生えていたはず。
ジルもまた走馬灯のようにファウストとの記憶が蘇っていた。
この依頼はファウストにしか頼めない。
ファウストにこそ頼みたかった。
微かに涙を浮かべる支配眼から赤黒い火花のような光が儚げに散る。
だから、感謝している。
ジルは微笑む。
この一瞬で、本当の依頼が完了したのだ。
「はは、君は逆にわかりやすい。でもそんな所が好きだったよ……。だから、嬉し……い、よ……あり、が……と、……」
赤黒い光の火花が静かに消えていく。
ジルの心臓に、その辺に落ちていたナイフが突き刺されたジルの姿が支配眼に映し出されていた。
これが彼の、もう一つの望み。
「……本当に面倒くさい。これが貴方の本当の依頼ですか……」
「は、は、どうか、……な……」
願望が達成された喜びに包まれたジルは、ファウストに抱きつくようにその場に倒れこみ、安らかに目を閉じていった。
泥棒王ファウストは依頼主のジルの依頼通りその命を盗んだ。
それは一瞬で終わった。
一向に天を仰ぎ、動こうとしないファウスト。
よく見ると、身体が震えているように見える。
そんなファウストの背後に、ゆっくりとバッドエンドが強打した部分を手で擦りながら歩み寄る。
「……どういう事なの? 彼の依頼はワタシを盗む事じゃなかったの?」
ゆっくりと、ファウスとが口を開く。
「……このジルとい男は異常なまでにこの世界を憎んでいた。私達、魔眼を持つ者の多くが抱くのと同じか、それ以上に。だからバッドエンド、貴女を手に入れて楽園の力で世界を消そうとしていたんでしょう」
まぁ、それだけだと嘘になるんですけどねと付け加え。
「しかし本当はそれと同時に……誰かにその行動を止めて欲しいという気持ちがあったのでしょう。恐らくここ数年で彼にも何らかの心境の変化があったんですね。この世界も悪くないかもしれない、とね。ですがそんな感情をも飲み込む程、世界への憎しみも消しきれないでいた。だからその二つの気持ちがぶつかり合い今回のような形になったのでしょう」
(……馬鹿な男だ、何故こうなる前に私にに相談しなかったんだ)
「つまりファウストに殺されてその世界を消す事に失敗しようと、ファウストを殺してワタシの契約者になって楽園の力で世界を消そうと、どちらでも良かったって事かい?」
どちらでも良かった、どちらの方の気持ちの方が強かったのか。
「……さぁ、どうなんでしょうねぇ。本当に馬鹿な男だ」
その声は震えていた。
何故ここに至るまでの間に自分に少しでも相談してくれなかったのか。
ようやく憎んできたこの世界から解放されたジルが、どのような気持ちで逝ったのかもう誰にも知る術はなかった。
この泥棒王を除き。
ファウストは、幸せそうな顔をする憎たらしい偽りの親友をその場に優しく置いてやる。
バッドエンドがそんなファウストの肩に手をやる。
「……この国の兵隊がもう押し寄せて来るんだろ? ……急がないと」
「……それも嘘でしょうねぇ」
ジルの死体を見ながら溜息を吐く。
「え?」
「もし本当に貴女の情報をノイタールにリークしていたら既にここは包囲されているはずです。……私の支配眼を制限する為のハッタリだったんでしょうね多分」
どこまで嘘をつけば気が済むのやら。
嘘だらけの、偽りだらけの親友。
だが、確かにそれでも親友だった。
やれやれと、うなだれるファウストの袖をバッドエンドが引っ張る。
「……ちょっとちょっと」
逝ってしまった嘘ばかりの、偽りだらけの親友に呆れ果てていると、バッドエンドが引きつった声を出しながらファウストの袖を掴んでいた。
「何です――……って、おいおいおいおいおいおいおい」
ファウストの眼に飛び込んできた光景。
それは玄関先の窓から映る、ノイタールの兵達がギルバルドの邸を取り囲んでいる風景。
誰かの指示を待っているのか、突撃体勢のまま待機している。
「うわぁ、流石のワタシも君を守りながらあの数は相手しきれないよ。……そうだ! あの瞬間移動みたいなの使えば余裕じゃない!」
「……いや、それが、その……さっきのジルとの戦いでもう支配眼は使い切ったんですよねぇ……」
「え、……じゃぁ、どうすんのさ?」
表情が引きつるバッドエンド。
ファウストも釣られて表情を引きつらせる。
「……さぁ、どうしましょう?」
バッドエンドの表情が見る見る崩れていく。
「……え、でもさ、伝説の泥棒王なんでしょ? 何とか……ならないの?」
「…………」
「うわーお……」




