72 なくしたもの
『今を生きろ!』
既に百回は頭の中で流れたその言葉。思い出すのは変わり果てた恩師の姿。自分がもっと上手く逃げていたら。あの時、自分が学園に戻らなかったら。自分がもっと強かったら。
そればかりを、数日間考えていた。
あの日からリュウは一人この世に留まっていた。ティナ達がいくら部屋を訪ねようとも鍵は開けず、カーテンを閉め切った暗闇にうずくまっていた。豪華な部屋には不釣り合いな寂れたテーブルには、いつ作ったかもわからない朝食が置かれている。
ネリルが目覚めた時のために、必死で他クラスの人に頼み写させてもらったノートも、今ではゴミの一部。
目を閉じればあのときの光景が甦り、目を開ければ頭の中に声が響いてしまう。終わりのない苦しみを、まるで自分への罰のように受け入れたリュウ・ブライトは、すでに生気の欠片も無かった。
(……みず、買わなきゃ)
最低限の水分補給のみで生きる今のリュウは魂の抜け落ちた人形のよう。どうせこのまま腐っていく。まだ夏期休暇中だが、この分では明けたとしても教室には行かないだろう、と。行けるわけがないと、リュウ自身も思っている。
「まぶし……」
学園を通り抜けるうちに、強い日差しに慣れていった。
現在学園は襲撃後の校舎の修繕や、負傷者の治療で軍の関係者が昼夜問わず出入りしている。夏期休暇の内に全てを終わらせようと、誰もが必死だった。リュウへの事情聴取は日を改めることになっている。ティナ達に聞けば一緒に居たのだから大丈夫ということもあるが、リュウの精神面への負担についても考慮された。
「そっち行ったぞ!」
「刺せ刺せ! ボールを見失うな!」
穏やかな日々がようやく戻ってきた学園は部活動で賑わっていた。魔法が常に飛び交うこの学園でも、高校生は高校生。青春真っ盛りの彼らは夏を各々満喫していた。
「おっちゃん、これ」
学園を抜けて馴染みの商店に寄った。これと言ってこだわりの無い安値の水を数リットル買い、お金ぴったりを置いて出ていく作業。リュウの明るさを知る店主にしてみれば異様なものだ。呼び止めても返事は無い。
リュウは明るすぎる日差しすら避けるように、パーカーのフードを被って店を出た。
「チェキンさん、まじパネェ~」
「チェキンさん、カッケー」
「ふ、この世の女は全ておれのものってな!」
周りの声も耳に入らない。
リュウは前から歩いてきた三人組の男とすれ違う。その最中にぶつかった肩にも、興味を示さなかった。
「いって、おいおいおい!」
呼び止めても返事は無い。
「おいって言ってんだろ!」
リュウの背中を蹴り飛ばし、地面に転ばせる。水は容器の蓋が開いてこぼれてしまった。それでもリュウにとってはどうでもいい。無いなら無いで死ぬだけだから。
「てんめぇ~、チェキンさんにぶつかっといて謝罪も無しか? アァン?」
「おいおいおい、誠意見せろやゴラァ!」
中央の男、チェキンの取り巻き。眼を飛ばしてくる彼らのことは見向きもせず、リュウは服の砂をはたいていた。一通り綺麗になって再び彼らに背を向ける。
「何無視してんだクソ野郎。テメェあんま舐めてっと殺すぞ」
リュウはその瞬間歩を止めた。
「……殺す?」
凄みを増した青目を向ける。
「さっさと土下座して治療費払えやゴラァ!」
チェキンが言葉よりも先に手を出した。リュウの顔面を殴り、一発腹に蹴りを入れる。リュウはまたも地面に滑り転んだ。
「チェキンさん、強ェ~」
「さっさと金置いてけクソ野郎~」
茶化す取り巻きを制するように両手を振るチェキン。もはやリュウのことなど眼中に無い。
「……殺す……ってさ。殺すって、どういう意味か知ってんの?」
リュウはチェキンを殴り飛ばした。その後に、眼にも留まらぬ速さで取り巻きをノックアウトさせていく。リュウの妙技は鍛え上げられたもの。そこに、感情はない。
「な、なんだよお前……」
チェキンは思わぬところで食らった拳に驚いた。それと同時にリュウの顔をようやくはっきりと見つめた。
「まさかお前、『血濡れの赤髪』か!」
懐かしさの詰まったその名前。
リュウがまだ中学生の頃。アルティスの西側は言うところの「シマ」だった。アルと共に同級生を片っ端からぶちのめし、あげく東のガキ大将をものの数秒で伸してしまった。それ以降付いた異名が『血濡れの赤髪』。リュウのトレードマークでもあった。
「くっそ……だったら別にいいよな」
だとするならば、チェキンは己の勝ち目を悟った。そして、胸ポケットに隠していたソレを取り出した。
チェキンとて魔法は使える。ソレに魔力を乗せて貫通力を上げる程度だが、人を刺すには充分だ。
「へ、へへ、金はもういいぜ」
思考力の停止したチェキンはソレ、小振りのナイフを振りかぶった。リュウの胸元めがけて突き立て、そのスピードに強化魔法を加える。
リュウの戦闘経験は対人に絞ると尋常ではない数になる。迫ってくるナイフを避けることなど朝飯前。それを奪い取ることもまた造作ない。するりと奪い取られて隙の生まれたチェキンはリュウによって蹴り飛ばされた。
「ぐえっ!」
起き上がった直後に目に入る銀色の刃。銀に青に赤に、カラフルな恐怖が襲ってきた。
「人って簡単に死ぬんだよ。そんなに殺したいなら、まずは自分でやってみろよ」
リュウはチェキンの右目に刃を近づけた。切っ先と眼球との距離は既に数ミリ。手の震え一つでも傷がつきそうだった。
「なあ、何か言えよ。殺すんだろ? ほら、ナイフ返してやってんだから自分で自分を殺してみろよ……」
「ひ、ひぃ……」
チェキンの目には涙が溜まっていた。
「何だよ、やらねーのかよ……」
リュウはチェキンの目元からナイフを遠ざけ、そして振りかぶる。この状況から逃れたのかと安堵しかけたチェキンは、余計に青ざめていく。
「だったら俺が殺ってやるよ!」
それを振り下ろす、はずだった。
右手に持ったナイフを奪われ、振り下ろそうとしたその腕も止められた。後ろに人間がいるのだと言うことはわかったが、それが誰かはわからない。
「ひぃ~!」
チェキンはさっさと取り巻きを担いで逃げ出した。火事場の馬鹿力だった。
「それ以上は駄目だリュウ。君が君で無くなってしまう」
華やかな金髪、整った顔立ち。手足の長い締まった肉体。整えられた軍服には汚れの一つもない。
「ロイ……さん……」
名をロイ・ファルジオン。リュウに魔法を教えてくれた師匠的存在。悲しげな瞳と鋭い口調は初めて見る。
「何で……何でだよ……」
か細く消え入りそうな声。リュウは安心していた。深い闇の中に迷い、自分というものを見失い、どこに着くかもわからない疾駆を止めてくれた。光を少しだけ教えてくれた。それだけが嬉しかった。
自分を責め続けることに疲れた。いっそ死んでしまおうかとも思ったが、それすら行動できない。
死を見てしまったからこそ、死が怖い。信用していた教師の死と、動けなかった友達の死。やはりどうしても心の枷となり自分の身体を固めてしまう。
それでもそれは、『逃げ』なのだ。
進むことからも逃げ、過去を振り替えることもしない。今を生きてさえいない。シエラの言葉を聞いたリュウにはそれがわかっているというのに、しかし体が動いていなかった。動いたとしても、それは誤りだった。
「そこから先は一線を越えるんだ。それを越えてしまうと後戻りは出来なくなる。誰の手も届かなくなるんだ」
リュウの後頭部に語りかける。振り返らない彼に届く言葉はこんなものではない。
「何で止めるんだよ。あんたには関係無いだろ」
「確かにね。俺は軍人だから善良な市民を守る義務はあるが、この際その反論はしないよ。俺は関係無い」
「だったら別にいいだろ」
「よくないからこうしてるんだ。建前なんかは関係無い。リュウがリュウで無くなることが怖いからこうしたんだ」
ロイに捕まれた右手が痛みだす。それは力を込められたからだ。
「人を殺すことがどういうことかわかっただろ? 君は、そういう“君自身”をどこかで生み出すことになるんだよ?」
シエラをネリルを失った。それによって、リュウの生活は一変した。自身に満ちていたリュウの心を廃らせ、リュウを墜とした。
そしてその腐った心で、次なる悲しみを生み出そうとした。ようやく、気づいた。
「なら……」
しかしリュウには何もない。力も無ければ知恵もない。あまりにも無力で無知で、誰かにすがることさえも不器用だ。
「どうしろってんだよ!」
ロイの方へと向き直り、両手で胸を叩いた。拳を強く握って、何度も何度もロイに感情をぶつけた。溢れてくる涙は止まらない。失くしたものの大きさに比べれば、出ていく水の量など雫にもならない。
「今はただ泣けばいい。生き残ったものは生き残ったからこそ出来ることがある。後悔なんてどうせ一生付きまとうんだ。せめて今だけは泣いていいよ」
「ぢぐじょぉ……うるぜぇ……」
「その心意気だ」
ロイの暖かな手が背中を優しく押してくれた。髪の毛を乱しながら撫でてくれた。それだけで枷は外れる。ダムが決壊したかのように止めどなく涙は溢れてくる。リュウは数分の間咽び泣いた。
「ご飯でも食べようか。最近何か食べた?」
「…………水」
「ものは言いようだね」
目を赤く腫らしたリュウを連れて、ロイは近くのレストランに入った。一時の食事の時間。リュウの腹はようやく満たされた。




