183 人間国崩
とても澄んだ空気と“神”から贈られたような快晴。洗濯物は半日と経たずに乾かせるような暖かさで、草花が喜ぶのが目に浮かぶ。
二回、心地よくノックされた扉。薄い木造りの扉ということもあり朝に馴染む音だった。ノックをした本人が失礼しますと声をかけるが反応はない。
豪華な作りをしたこの宮殿の廊下に、凛と張り詰めた声だけが取り残される。しかし、それは日常茶飯事。もっと言えばそれ以外の対応をされた覚えがなかった。
ノックをもう一度行い、返事がないことを確認してから中へ入る。
目に入るのは一番の美しさと云われるほどの寝室だ。
国一番の建築家によって造られたこの空間は、楽園と呼ぶにふさわしい。
ベージュの落ち着きと青の冷静な印象で心は休まり、ピンクと白の可憐さが魅力を引き立てる。キングサイズのベッドが部屋の中央に置かれ、こつこつとハイヒールの音をリズミカルに立てながら近寄る。
「いい加減起きてください。姫様も既に準備が整っていますよ」
眼鏡と手に持った書類の束を力強く弄くりながら、その女性は声を荒げた。
薄い桃色をした全体像のつかめないキングサイズのベッド。輪郭のはっきりしない色合いと形のそれは、まさしく癒しの塊なのか、聞こえてくる寝息は幸せそうであった。
気持ち良さそうに幸せそうに眠っている女性がそこにはいる。ベッド一面に広がるきらびやかな髪の毛を無造作に広げたまま、大きく寝返りをうった。
「一国の皇女だというのに、一体何ヵ月眠れば気が済むんですか? 」
ただ、そんな幸せそうな表情も長期間見続けるということになれば、苦痛だ。国を治める立場のものが一ヶ月不在だということは、国の存続の危機にもなりかねない。
既に国民の前に一ヶ月も顔を出していないのだから、不安の声は上がっている。それこそ、慣れというものがあるが、時期が時期だけにそうも言っていられない。
「ん~」
それでもベッドで眠るその女性は、幸せそうに寝息で返事をする。
見かねて、一枚の手紙を書類の束から取り出す眼鏡の女性。無地の表紙を裏返し送り主の名を見てみれば、そ美しい書体で『Giofer・Glant-haytz』と書かれていた。
ベッドの横に置いてある小さなテーブルには、ついこの間まで書類の束が山積みにされていた。今では綺麗に片付けられており、そこに手紙をそっと置く。
「まったく、どうして同じ《人間国崩》だというのにこうも違うのかしら」
「ん~」
「はあ」
心が洗われるような幸せな天気だというのに、彼女の心は不安と焦りで既に溢れかえっていた。
* * *
その剣筋には一種の芸術性が表れていた。
大きすぎる剣とそれを軽々操る強靭な肉体、その二つの芸術に捌かれ鮮血を撒く死体。
結果、後に残るのは断裂したただの肢体だけ。蒼銀に輝く剣は、美しさに儚さを込めて斬り振られる。ただひたすらに、蒼い残像を残しながら剣は舞う。
そこにおぞましさは無いはずなのに、温度は一度として上がらない。
「なに?」
飛び散る血の合間を縫って走りきる最中、目の前には一通の手紙が落ちてきた。誤って剣で斬ってしまったが、それを見越しての防御魔法が念入りに施されていたため、無事だった。
そのことにカッとなり、何度か斬り刻もうと試みるも結果は惨敗だった。
その防御魔法には見覚えがある。出来るのは同じ位にいるものだけだ。
「これは……あのクソジジイか」
“自国の皇帝の死”の混乱に乗じて一番の楽しみである人斬りを行っていたというのに、その行為を邪魔する者がいようとは思っても見なかった。
あと一人斬りたかった。不愉快さは増し、色の違う二つの目に鋭さが増していく。しかし見据える相手が自分と同じ、あの《人間国崩》だというのだからこれはもう諦めるしかないと悟った。
「運が良いなあゴミ。これの返事を出させてやろう」
目の前の最後の一人に対して、右手に持った剣を突きつけながら。最早震えと恐怖から口が動きそうもないその獲物は、既に腰を抜かしている。返事など到底書けそうにない。
「や、やめてください……」
「ちっ」
するりと剣を振るい、首を飛ばす。剣の血を払いながら、男は手紙と共にその場を後にして行った。
* * *
有限であるから地平線は存在する。下には生い茂った緑の巨木たちが、上にはふわふわとした雲と届きそうにもない無限の空。
風を切って舞う一羽の鳥は、生というさながら一つの有限を突き進んでいた。
それを見上げる一人の青年。
「ふぁ~あ」
日光を見れば欠伸をしてしまう質の彼は、それでも目を離そうとはしない。
ある種の眼差しには、空腹感でも詰まっているのだろうか目を離そうとはしない。ちるちると鳴きながら、つばの広い羽帽子に止まったのを見計らい。今日の晩御飯として捕まえた。
「おや?」
しかし掴んだ瞬間、その鳥は煙となってこの世のものとしての存在を消してしまった。代わりに、この場合にはそれは不適切かも知れないが、出てきたのは手紙であった。
青年は手に収まった手紙の差出人を確認し、口角を上げる。つばの広い羽帽子に遮られ影に潜むこととなった顔は、とても澄んでいた。
「僕を見つけられるなんてね……フフフ」
嬉しそうにその青年は皮製のバッグを置き、近くの木へと寄りかかる。日陰の隙間に入り込む日光にあてながら読み進めていく。
数分で読み終えた手紙を風に乗せ、鳥へと形を変えたそれを笑いかけながら見送る。
さえずりは歌だ。羽ばたきはダンスだ。
この世界と比べれば恐ろしくちっぽけな存在が見せる、命のショーを青年はただ見つめる。
「世界が動き始めるね」
悲しそうにうつむき目の色を暗める。
「運命の導きが勝つか、人の想いが勝つか。僕の出逢いと君の出逢いと、それから……」
ゆるりと立ち上がり、鳥の飛んでいった方角とは逆方向に歩み出す。足取りは驚くほどに軽かった。
「この世界はどう向かっていくんだろう。“希望”の欠片が見つかることを祈って、さあ、今日も僕は愛される」
空を再び見上げる。白と青とが混ざり合う空に、太陽が隠されていた。
* * *
「また修理? お客さんさぁ、今月で何回目よ!」
「わりぃとは思ってるけどよ、俺にゃこれが限界なんだよべらぼうめぇ!」
「あんた次ぶっ壊してみな! この国の《人間国崩》として、あんたをその炊飯器みたくしてやるからな!」
長く続く曇り空と、溶けた鉄の匂いが立ち込める工房。ひどく薄着の短髪の女性が怒鳴り散らしている。髪の毛の無くなったおじさんもまた反抗している。
「一体いつからお前は“妾”に成り変わったのだ」
その後ろからがちゃりがちゃりと不快音をたてつつ機械に全身を包んだ女性が向かってくる。地に足をつけないその女性は、長い黒髪を揺すりながら先程の小さな騒動の渦中に飛び込んだ。
「げっ、姐さん」
薄着の短髪女性は奥へと引っ込んでいってしまった。
「おお、良かった。これを直してほしいんだよ」
髪の毛の全く無い男性の両手に抱えられた機械の塊。「炊飯器」と名の付くその代物は至るところに傷がつき、お世辞にもどんな素人が見ようと使い物にならないような物だということがわかってしまう。
「どれ、貸してみい」
高圧的な態度でぶん取るようにその手に納める。がちゃりとまた全身を覆う機械を動かし、その「炊飯器」を調べ尽くす。
「まあこんなものか」
そうして女性は一切の汚れと傷を取り払った、まさしく新品に近くなった「炊飯器」を渡す。
「すまねえな! ありがとよ!」
驚くほどに髪の毛の無いおじさんは嬉しそうに帰っていく。そしてちょうどその時、引っ込んでいってしまったはずの短髪女性が奥から顔を覗かせた。
「いいんすか、あんなの直しちゃって。あの野郎また来ますよ」
「構わぬさ。それよりも、すぐに支度をせい」
「へ?」
間の抜けたような声を短髪女性は出してしまった。がちゃりとからだの向きを代えた目の前の女性が、笑っていたからだ。
「“奴”の予言通りとなった。まったく食えない英雄よ」
女性はさらに高らかに、笑みを溢し声を漏らしながら奥へ入っていった。
「のう、ジオフェルよ」
がちゃりと機械の音のみが狭い部屋に響く。