119 Sworn That Day②
陽が落ち始め、西の空が茜色に染まり始める。複雑に絡まった根や泥をするりとかわしながら、駆け回るイクト達もそろそろ帰る支度を始める。黙り込んだ木々の不気味さが増す前に山を降りたイクト達は、そのまま解散した。
これから一時間弱歩かなければならないことに嫌気がさすが、強化魔法をうまく使い走るしかない。とばりの降りてきたその時間。もうすぐ雨の多い季節となるが、少し肌寒い。
昨日も一昨日も、布団を剥いでしまうほどに蒸し暑い気候だったのだが、今日は不思議だ。
「……なんか嫌だな」
イクトは妙な胸騒ぎを覚えた。足に力を入れ、風を切るように急ぐ。すると、一瞬だがさらに不自然なものが見えた。
季節外れの寒さならばまだわかる。季節を操ることなどイクトには出来ない。しかし、“それ”はやはりおかしい。
「……桜、だよなあ」
風と同化するほどの走りを止めるほどに目を奪われる。目の前には、“それ”が咲いていたから。春になるとそれで埋め尽くされる。下に向いて咲き誇るその花は、桃色で満たされるのだ。
そこは何十という本数の桜の木が植わっている桜道なのだが、満開なのは一本のみ。初冬の満開など聞いたこともなく、その不思議な桜にイクトは近づいていく。まるでイクトにのみ見せつけるかのように咲いている。
完全に落ちきった陽の光に頼ろうとはしない、不思議と光るようなその花一枚一枚に、まるで意思でも宿っているような。
狂い咲く、乱れ咲く、咲き極まる、百花繚乱。当てはまる言葉は無数にあれど、それを口にする余裕はない。太い幹ががっしりと地に根付き、枝の先端まで一切の迷いを消し去り咲かせる。桜色が視界いっぱいに広がりを見せてくる。
独りでに光り、その存在を見せつける桜は、まるで今のイクトの心境を写しているようでもある。
不気味だ。でも、それでもこの桜は美しい。
可憐に佇むのではない。その存在を誇示する命の儚さが、狂わしい。これほどまでに心を掴まれたのは、十年の短い人生の中ではやはり初めてだった。
「あ、帰らなきゃ」
我に返ったイクトはまた走り出す。
「ただいま~!」
既に完全に夜へと時間は進んでいる。
にもかかわらず、家には一切の明かりが灯っていなかった。家の扉をからからと少し強めに開けたが反応はない。真っ暗闇は強く迫ってくる。それにしても静かだ。
(……出かけてるのかな)
ワラジを脱ぎ捨て、廊下へ出る。
普段なら父親が稽古をするために道場の明かりを点けたり、母親が台所で火を使ったりとするのだが、今日はどちらも真っ暗だ。
──ぴと
文字で表すのならばそんなところだろうなと、子供心に遊んでみるイクト。突如、右足にそんなものが触れた。違和感に苛まれそれを見る。
暗くてすべてが黒に見えてしまうため、しゃがむ。すると、すぐにその正体がわかった。
顔を近づけた瞬間、鼻を突いた鉄の匂い。膝を擦りむいた時、出来心から一度舐めたことがある。その時もそういう感じだった。それは紛れもなく何者かの血だ。
それも、一滴等ではない。すぐ右の部屋から流れ出たのか、障子戸の隙間から水溜まりになっている。量があり得ないほどに多い。
頭が追い付いた頃には、左足にもそれは来ていた。イクトは恐る恐る、障子を開いた。
「か、母さん!」
そこには、最早誰が見ようと死体となっていることがわかる母親の体があった。
うつ伏せに倒れる全身を覆ってしまうような血の溜まりが、妙に生臭い。本当に人間なのかと疑ってしまうほどに冷たく、固い。
数時間前とは別人の母親がどうしてこうなったのか。何が起こったのか、わからない。
暗がりによって深い闇のように見える血溜まりが、どうしようもないイクトの心を覆う。頭の回転を無理矢理止めてくる。イクトは母親の体を置き、隣の部屋へと移った。そこにはまた一人、倒れていた。
「父さん!」
まだ息がある。ヒューヒューと抜けるような呼吸がとてもくるしそうだが、それでも生きている。
「……父さん……母さんが」
混乱する頭で出来ることと言えば、あったことを最初から声に出して確認することだけ。
「何が、なんで……」
まともな言葉は話せない。抱き抱えた父の顔が月夜に照らされた。青白い光は、あの桜とは正反対だ。
「あ、あ……」
父の口が動いた。
「に……ろ……」
「え? わかんないよ! 何があったんだよ!」
「に、げ……」
何も言えずに、そのまま動かなくなった。
途端に、父の体が軽くなった。筋肉質な重い体からは殆ど血はなくなっており、さらにまた軽くなる。胸に耳を当てても、何一つ聞こえない。
「……そんな」
それでも人工呼吸をしようと父の顔をもう一度見た。先程まで月夜に照らされた皺さえ見えていた父の顔が、暗く見えなくなっていた。
それは、光を遮られた証だ。光が差し込んでいた場所に首を動かすイクト。そこには、人間らしき何かが、もうひとつ何かを持って立っていた。
既にこの暗がりに目が慣れていたイクトがそれを特定するのには、そう時間はかからない。
「おいおい、ま~だ一人いるじゃねーかよぉ」
ひどいダミ声だ。しかし、イクトには殆ど聞こえていなかった。それは当たり前だ。今イクトの頭は全て、目の前の光景を確認するためだけに動いている。ダミ声の男が手に持つもの。それは紛れもない、イコだ。
「……ひっく」
泣いているのがわかった。生きているのがわかった。左手が無いのがわかった。右手も動いていないのがわかった。服が破れているのがわかった。右足が変な方向に曲がっているのがわかった。左足に木片が刺さっているのがわかった。
「誰もいねーとかウソ吐きやがってよぉ!」
鈍い音は響かずに直ぐに闇に溶け込む。首を片手で掴みあげていることにより、宙に浮く形となったイコの首が右に揺れた。
「ひぃひぃと可愛いなぁ、おい!」
再び鈍い音がイクトの耳に届いた。小さな悲鳴が掻き消され、鮮血が廊下に飛び散る。イコの顔が左に向いていた。それでも止むことはない。
殴って殴って、殴って殴って。
歪んだ顔の完成だった。
「あっれ~、さっきまでお兄ちゃんお兄ちゃんってうるさかったんだけどな」
月明かりは後ろから差し、男の顔は逆光になっている。イコの手足は動くところのみ細かく震えている。
「う、うぅ……」
涙も枯れ果て、力も入っていないのだ。首根っこをがっしりと掴まれ、呼吸さえままならない。
「ちっ、もういらね。刀も盗れたしよぉ」
男は腰に刀を差していた。イクトが確認できた直後、手に持っていたイコを廊下に投げ捨てる。
「最期はどんな声で鳴くんだろうな~?」
一切の音を立てずに刀を抜いた。それは、父親が先代より受け継いできたと言った家宝『笹貫』であった。
整った波紋が別つ二色の銀色が、目に入った。鋭く尖り洗練されたその切っ先が向いていたのは、投げ捨てられたイコだった。しかし、イクトは動けない。そんな勇気がないことぐらい、居もしない皆に伝わる。
「にげ、て……」
涙と鼻水と血に汚れた顔を向け、イコはそういった。恐怖からか、泣き癖がついたからか、上手く声が出ていない。しかし、はっきり「逃げて」と言った。父親もそう言ったのかもしれないが、わからない。
「まあさぁ、おめ~も運が悪かったって思えよな」
そう言って男は刀を上段まで上げた。
「お兄ちゃん、逃げて!」
スッと目の前に現れたイコが斬られた。兄妹という切っても切れぬような関係さえ、容易く無くされた。人は倒れると、大きく音を響かせるのだ。
「あ~、斬っちまった。最後の楽しみだったのによぉ」
刀の血を払い、男はそれをまた持ち上げた。地面に落ちたイコに向けて切っ先を落とす。
「イーッハッハッハッハ! ヒャーッハッハッハ!」
何度も突き刺し、その度に振動でイコの体が揺れる。力の抜けきった首がだらりと顔をこちらに向けて、見開いた目で自身を見つめてくる。瞬きを忘れた瞳が、血と共に見つめてくるのだ。
「最高だぜ~!」
動かなくなったイコを見つめるイクトには、既に理解の範疇を超えていた。
「顔は殺らねー。かぁわいいもんな?」
瞳を閉じることのできなくなったイコの顔を、男は上へ向けた。もう死んでいるというのに、男はイコに触れたのだった。
イクトの目の前で、滅多打ちにしたばかりのイコの顔を男が舐めた。べろりと赤赤しい舌を一杯に使い、イコの顔という顔を舐め回した。
「あっはは、うめぇなうめぇな? かぁわいいもんはうんめぇな~」
イコの顔についた返り血を綺麗に舐めとり、なおも男は舐め回す。閉じなくなった瞳はコロコロと優しく、ほんのり赤まった頬はべろりと激しく。舐めて舐めて舐め回して、男は目を細めて喜んだ。
「妹ちゃんのファーストキスぅ~」
男はイコの全てを舐めたのだった。イクトは、目を閉じることが出来なかった。内からくる、数多の濃色が全て混じり合うような感覚。
「じゃ、後はお前だはぁっ~!」
最後には、刀がイクトへと向けられたが、この時のイクトには振り下ろされたその刀さえ見ることはできなかった。
しかし。
斬られる音も、痛みも、血の臭いも、味も。何一つ自分には迫ってこない。むしろ、残った視覚に訴えかけるように辺りは光っている。
「んじゃこりゃ」
瞼を動かし前を見ると、目の前にはドーム上に象られた光があった。何度男が斬りつけても、その光のドームは壊れない。
すぐに誰かの、もしかしたなら父や母の援護かとも考えた。そしてそれはすぐに動かなくなった体を見直したことで、違うと知った。
淡い期待さえ、そうして打ち破られた。だと言うのに、一向に刀は落ちてこない。光はどんどん強くなっている。
その時、ふと刀へと目をやった。まるで誰かに、と言うよりはその刀に呼ばれたような気がした。
「……ささ、ぬき」
イクトの声が、その刀を呼ぶ。何かが乗り移ったように、そのまま立ち上がる。男が持っていたその刀は、ばちんと火花を散らしその嫌みな支配を断ち切った。
宙を舞い、イクトのもとへ渡る。まるで意思でもあるかのように、その刀『笹貫』はそうして移動した。
「ああん?」
体が再び勝手に動く。イクトは男に斬りかかった。単調な斬りつけは当たらない。そのまま庭に出た男は一言吐き捨てた。
「ちっ、テメー適合者か。ならこれ貰っても意味ねーのか。まあ久々に少しは楽しめたし、いっか。そこの娘にありがとよって伝えとけよ。ま、生きてたらだけどなぁ~あ?」
大きな笑い声とともに、そのまま闇に消えた。
残されたのは、イコ“だったもの”と、イクト。
内にあった濃色が全て混じり合った何かが、やっと理解できてきた。恐怖から解放され、代わりにやって来たのは何と言うことのない単純な憎悪だ。
「ここ、こ……」
反射的に言葉が出る。数えきれないほどの負の感情が、胸のなかで混ざりあい、いつの間にかその色を黒へと近づけていく。
「殺してやる……殺してやるっ!」
涙が溢れてきた。それはイコを救えなかっただけで来るものではなかった。父も母も、誰もが死んだ。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……!」
刀を、向けた先はこの家だった。
「殺してやる!」
柱を切り刻み、
「殺してやる!」
壁を両断した。
それから数ヵ月もしないうちに、相馬家に放火がなされた。犯人は捕まらず、また捜査もされていない。
イクトはこの家の長男として生まれ、そして最後の生き残りとして生を未だに残している。
土地は長年の父の功績から、かなりの高値で売れ、その資金と父のコネクションを利用し、かつて何度か行ったことのあるイデア王国へとその拠点を移した。
勿論、それをしてしまえばそれこ手掛かりと言うものが無くなると思われたが、イデア王国渡航後の就職先について聞かされた瞬間から、ここに来ようと決めていた。
それは、イデア王国二大貴族レイジーのボディーガードとしての職だった。その情報力を利用するために取り入り、見事見つけてしまった組織の名。
学園と、マリーと、【メガイラ】と。賭けに近いその結びつけを、こなせてしまった。
そうして、イクトの復讐が始まった。