101 マリーの母親
夜。
冷たい岩の床と、そこに取り付けられた質素な木のベッド。頑丈な封魔石の格子が付いた小さな窓からは、満天に輝く星空しか見えない。
そこはその格子で入り口と窓を塞いでおり、文字通りの地下牢だった。牢屋を照らす灯りは蝋燭のみで、すきま風を防ぐものは一切なく寒さが際立つ。
寒さを紛らわそうと炎を適当に出すが、直ぐに退屈になる。魔法を封じるものや枷なども無いため、居心地が悪いというわけでもない。それゆえに無駄な自由を持て余していた。
話し相手になりそうな見張りもいなければ、同じく捕まったものも周りにはいない。何よりも一応は友達の家なのだから、おとなしくしていようと思う。星空を見ながらとりあえず考えることと言えば、マリーのことだった。
エリックが耳打ちをし、マリーの顔色が悪くなったことを思い出す。それからマリーは学校を休んだ。そのことについてエリックに問いかけてみれば、初恋の相手が死んだと聞かされた。
それから遂にマリーは学園からも姿を消した。探してみれば自分の家に帰ろうとしていた。だというのに何故かマフィアに誘拐される始末。なんとか助け出したそこで、マリーの過去を知る。それはどうしようもない、手の届かないような場所での問題だった。
しかし気づけばマリーの家まで押し掛けて暴れていた。どう考えても馬鹿なことをしたと、馬鹿なりの頭で反省した。
その時だった。
カツカツと誰かの足音が聴こえてくる。
一時間毎にやってくる見張り番の履くものは革製のブーツで、言葉で表すならばギシギシという音のするもの。聴き覚えの無いものを履く誰かがこちらへやって来ている。さらに耳をすませばそれはヒールの音だとわかった。
「う~ん、どこかしら。せっかくのスープが冷めちゃうわ」
女性の声だ。音を聴くかぎりは隣の部屋の前くらいまで来ている様子で、誰かを探すように時々足音が止まる。
「えーっと、確かリンリン君だったかしら。男の子だっていうから、もう少しパンを増やしておけばよかったかも。でも三十個超えたら腕がパンパンだわ~。パンだけにパンパン……あらやだ面白い」
その女性が探しているのは自分なのだとリュウには理解できた。
徐々に足音は近づいてきていて、一度しっかり突っ込んでやろうとリュウが決意した時、違和感がその胸中を襲った。
(……ん? あんなふざけた奴知らねーぞ?)
空腹のため食事を持ってきてくれていることには感謝をする。聞いた限りわかるパンとスープでも今はご馳走だ。しかし、そのようなことをしてくれる人に心当たりがない。
「あ、ここね。……きゃあ!」
まず一番に目に入ったのは、数えきれないほどのパン。続いて大量のスープ。そして人。
近づいていた何者かは、リュウの目の前で綺麗に転けていた。薄い桃色のドレスを身に纏ったブロンドの髪の女性はそのまま起き上がる。
「あ、大変だわ。せっかくの食事が……。って、あっ! あなたリンリン君ね!」
目があったその人は、大量のパンとスープらしき液体の入っていたボウルを拾い上げ、そして言った。一瞬マリーだとも思えたが、細かい顔つきとそして声が違う。何よりも名前を間違えている。
「さっきからうるせーな、あんた誰だよ」
とっさに出たのは文句だった。食べ物が台無しになってしまったことに対する苛立ちもあれば、じわじわとやってくる空腹感の苛立ちもある。
「待っててちょうだいねリンリン君。今新しいの持ってくるから」
訳のわからないまま十分程度待たされ、リュウの食事は渡された。
名前を間違えて覚えているその女性は、黙々と食べ続けるリュウを幸せそうに見つめていた。リュウもまた、 新たに持ってきたもらったものを食べながら、その女性を見つめる。
あまり若くないその女性は、ウェーブの掛かったブロンドの髪に大きく可愛らしい瞳を持っている。薄い桃色のドレスの上からでもわかる大きな胸の優しそうな雰囲気が特徴で、それはマリーとの共通点でもあった。
「そんな見られると食いづらいんだけど」
「あ、ああごめんなさい。ふふ、男の子の食べっぷりを見てたら私もお腹空いてきちゃった」
「ていうか、あんた誰」
その問いにも笑顔で答える。
「ふふ、私はネイシェル・レイジー。マリーのお母さん」
その言葉にスープを吹き出しかけるリュウ。似ているとは思ったが、まさか母親だとは思わなかった。
「貴方にね、謝りに来たのよ」
食べ終え皿を片付けながらネイシェルの悲しそうな瞳を見る。受け取ったその手は心なしか覇気が無く、弱々しく泣いているようにも思えた。リュウは床に座り、返事をする。
「あんたら、マリーがどんだけ辛い思いしたかわかってんのか」
「ええ、ごめんなさい」
「なんで誘拐なんてマネしたんだよ! そのせいでアイツはナイフで切られたんだぞ!」
「ええ、ごめんなさい」
熱くなり鉄格子に掴みかかるリュウ。
「学園に来てからだって一人で必死に戦ったんだよ! あんなことがあったのに笑ってたんだよずっと!」
「ええ、ごめんなさい」
「マリーはすごい奴なんだ。魔闘祭の時だってあいつの射撃に救われたし、俺の嫌いなものも食ってくれるし、何て言うかスゲー奴なんだ」
うまく言葉にできないリュウは、だんだんと声が小さくなっていく。それと同時にネイシェルの瞳も更に悲しみに包まれていく。
「私もね、そういうところは見習わなきゃいけないなって思ってるの」
リュウの後ろの鉄格子のさらに後ろ。満天の星空を見つめながら、謝るだけだったネイシェルが口を開いた。
「……あの日の事件は隠すしかなかったのよ」
「ふざけんな!」
鉄格子を蹴り、怒号と共にその音をネイシェルにぶつける。言葉にできないような怒りがさらにリュウを支配した。
「あんたマリーに会ったのか!? 帰ってきたマリーに何て言ったんだよ!」
しかし、ネイシェルは驚く様子も無くただ少し俯く程度だった。次の言葉も、重苦しくやっと出るようなもの。
「声なんて掛けられなかったわ」
それ以降ネイシェルから言葉を発することは無かった。
「なんでニケってやつだけに罪を押し付けたんだよ!」
「……私も、知らないの」
「そんなんで済む話じゃねーよ!」
「あの人も知らなかった!」
その言葉は衝撃的だった。一瞬で怒りが冷めてしまう程に。当主が知らないとは一体どうなっているのか。 ネイシェルは続ける。
「調査の前日に通達があって驚いた。そんなことはしていないし、禁忌魔法の魔導書はゼウンしか知らない場所にある。しかも王の許可無しには入れない場所よ」
リュウの頭の中は混乱してくる。
「気づいたらそういう事が起こっていた。それにね、ニケ君が犯人じゃないこともわかってた」
「じゃあ、どうして処刑なんて……」
「それもやっていない。まだ判決も出ていなかったもの。ゼウンが極刑だけはって食い止めていたはずなの」
ネイシェルは神妙な面持ちで語り続ける中、一つの四角い物体をリュウに見せてくる。よく見ればそれは封筒だ。薄い白の封筒の表には、あまりきれいとは言えない字で『マリーへ』と書かれている。
「牢の壁に隠されていたわ」
次に裏を見ると、そこにはニケ・バルトと書かれている。正真正銘ニケのものだろう。しかし、今のネイシェルの言葉に不自然な点があった。
「壁の中?」
「そう。ゼウンの命令で調査させたら出てきたの」
ネイシェルが頷いたことを確認して、封筒を開ける。
「おい、これって……」
「そこに書いてあることが本当なら、直ぐにでもマリーを呼ぶしかなかった」
手紙を見つめながらネイシェルはまた重い口を開く。
「こんなものを見せられたら、連れ戻すに決まってるじゃない。でも、ゼウンにはあれしか方法が無かった。そのせいでアナタ達まで巻き込んでしまったことは、本当に悪いと思ってる」
声が震えていた。手紙を読み終わったリュウは、ネイシェルにそれを返した。決意の瞳をネイシェルに向ける。
「今日私がここに来た理由はね、リンリン君にマリー達を助けてほしいからなの。これはレイジー家の問題だけれど、それを関係無しにぶち壊してくれるような人はあなたしかいないから」
友達の家に来て捕まるような奴はまともな奴ではない。だからこそ救いの手を差し伸べてくれると、ネイシェルは信じたのだ。
「大丈夫だよ。俺がマリーを助ける。誘拐なんて馬鹿げたことしかできなかったマリーの父ちゃんを目一杯怒ってやるから」
リュウの表情は明るくなっていく。一つ一つが盛大な輝きを放つ、夜の星々のように。落ち着きのある輝きは、ネイシェルをすぐに元気づけていった。
「当てはあるのリンリン君? 私はここから出してあげることくらいしかできない。と言っても明日の朝までは出てもらいたくないけど」
異空間から呼び出した鍵を、ネイシェルはリュウに渡す。混乱を防ぐために今日はここで寝ろ、というように少し力が強かった。
「俺の名前はリュウ・ブライト。いつか世界一の魔導師になる男だ。……そしてマリーの友達だ」
ネイシェルは、一瞬驚くようにして目を見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、そしてごめんなさい。あなたの力を貸してほしいのリュウ君」
「その言葉があれば充分だぜ! とっておきのサプリメントもあるからさ」
「サプライズ?」
「ニューフェイスはそんな感じだよ」
「……ニュアンスよね?」
「そうとも言うだろ」
「そうとは言わないの」
リュウはすっかり黙りこむ。あとは頃合いを見て脱走するだけだ。