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黄金産出器

作者: ずほ子

 ある時代の、ある国の、ある地域のある所に、男が一人いた。


 男には、とりたてて良い所が存在しなかった。

 自慢できるほどの体力を持たず、勝負できるほどの頭脳を持たず、かといって誰かの憧れを得るほどの美貌を備えてもいなければ、誰かを感嘆させるほどの才能もなかった。

 それでも三十年ほど生きてはいるので、男もどうにか毎日の食事には困らない程度の稼ぎを得ることはできていた。

 とはいっても、「贅沢をしなければ余裕のある生活ができる」程度の稼ぎだった。たちまち給金は食物に変化して、胃袋へと消えていく。

 生きるためには仕方のないことだとはいえ、男はそんな生活に嫌気が差していた。腹が減りさえしなければ、ただでさえ少なめの給金がこれ以上減ることはないのだが、彼が人間である限り、空腹にならない方法などあるはずもない。


 「ゴールデン・タッチ、か…」

 幼い頃に読んだおとぎ話で、そういう題名の物語があった。

 主人公であるミダスという王が、さらなる富裕と幸福を求めて、老いた森の精に願って「触れたものを黄金にする力」を与えられる。

 願いの通り、ミダスは富を得るが、その力によって食べ物までもが黄金へと変わり、食事ができなくなってしまう。

 餓死寸前のところ森の精に許しを乞い、どうにか力を取り払ってもらい、以後自分の強欲さを戒めることとなった……という物語だ。

 ミダスの愚行の理由は、物語的に言うと「もっと金持ちになりたかった」であろうが、作者としては教訓のつもりで書いたのだろう。

 読む子供に「ああ、こういう奴にはなりたくないな」と思わせる為に、ミダスが欲をかいて痛い目にあうストーリーを執筆したのだ。

 そのミダスが、男は羨ましかった。短い期間とはいえミダスが富を得たのは事実であるし、うまくいけば無限の財を手に入れられたのだ。

 「どうして神様は、俺の願いを叶えてくれないんだ?」

 ミダスが掴みかけた無限の富を、少しでいいから分けてほしい。少しの贅沢も許されない貧しい自分を、全知全能の力でもって救済してほしい。

 「助けてくれよ、神様」

 雲が垂れ込む空へ願っても、神の声が聞こえるどころか太陽が顔を出す気配さえ現れない。

 所詮、敬虔な信者しか助けてくれないというのか。

 男はもう少しだけ神を信じてみることを決意して、とぼとぼと家路についた。



***



 次の日は仕事が休みだったので、男は何をするでもなく繁華街を歩いていた。

 白けた露店や道を練り歩くカップルを冷やかしていると、異質なものが目に留まった。

 薄汚れた紫色の布が張られたテントである。代金が書かれた味気ない看板が表に立っているだけで、飾り気も何もない。

 客寄せの工夫を何もこらしていないという点では、他の店とは明らかに違っている。しかし男は、それ以外にも並々ならぬ雰囲気を感じていた。

 占いはあまり信じない性格であるにも関わらず、代金が安めであることも相まってか、男は吸い寄せられるようにテントの中へと入っていった。


 …中は薄暗い。テーブルクロスのかかった大きめのテーブルが一つあり、その真上にカンテラがぶら下がっていて、唯一の照明の役割を果たしている。

 テーブルには六芒星が書かれた羊皮紙と、均等に並べられたタロットカードが置いてある。

 そして、このテントの主であろう老婆が、男を待っていたかのように静かに座っていた。

 皺だらけの顔、殴るだけでへし折れそうな矮躯、シミや汚れにまみれた濃い赤色のローブが、この老婆の生活のほどを物語っている。

 「いらっしゃい」

 床を這い進み、足先から侵入して耳から抜けていくような低い声で、老婆は呟いた。

 男は少したじろいだ。どこからどう見ても、よくあるただの「少し不気味な占い師」にしか見えないが、この老婆はそこらの占い師と何かが違っているように思えてくるのだった。しかし、何がどう違うのかはよく分からない。

 ここを出ようか男が迷っていると、老婆の方が声をかけてきた。

 「お前さん、生活に苦労しているようだね」

 「………あ、ああ」

 突然、口にしてもいない自分の近況を言い当てられ、男は背筋が縮む思いがした。しかし、すぐにその思いを改めた。

 この老婆は、自分のこのみすぼらしい身なりを見て、そこから推察したんだろう―――とりあえず、そう考えておくことにした。

 「そうなんだよ、婆さん。何かないかね?幸運を招く方法とか」

 「あたしゃ生憎、魔法使いじゃないんでね。簡単に幸運を招くことはできないよ。でも……」

 「でも?でも、なんだ」

 「お前さんの願い事が叶うように、頼んでみることはできるよ」

 「え!? だ、誰に頼むんだ!?」

 森の精か、はたまた神か。この老婆ならば、そんな未知の存在に働きかけることが可能なのかもしれない。

 藁にもすがる思いで、男は老婆の答えに期待した。

 だが返答は、その期待を見事にかわした残酷なものだった。

 「悪魔に頼むのさ」

 「……悪魔? まさか!」

 「おや。お前さん、悪魔を信じていないのかい?」

 「そりゃあ、まあ……」

 「神は信じているのにかい?」

 「え?」

 自分の行動や思想を見抜いているかのような言い方。男はだんだん、この老婆は酔狂な人物なのだと思えなくなってきた。

 「神様に祈って助けを求めるのに、悪魔は存在すら認めないなんてねえ」

 「…だって、ホラ……悪魔に願いなんかするとろくなことにならないじゃないか」

 老婆の顔が少し綻んだ。とはいっても、ほほえましいものを見るような微笑ではなく、まるで人を見下したような微笑だった。

 「それは間違っているよ。ろくなことにならないのは、道を踏み外したからさ。誓約を守らず、悪魔を裏切れば、惨めな最期を迎えるのは目に見えるだろう?

 逆に言えば、誓約を守り、悪魔を裏切らなければ大丈夫なんだよ。おとぎ話の悪魔はずる賢いが、本当の悪魔はもう少し優しいのさ。

 何ていったって、願い事を何でも叶えてくれるんだからねえ…」

 男の表情が急に明るくなった。まるでランプの精のような懐の深さが、悪魔にもあるというのだろうか。

 男が顔でそう語っていたのか、老婆は勝手に言葉を返してくれた。

 「神や精霊は渋ちんだけど、悪魔はほぼ100パーセントの確率で願いを叶えてくれる。例えそれがどんな下卑た願いでもね」

 「本当…なのか、婆さん。何でも、叶うのか」

 「本当だとも。ただし、それ相応の代価も必要だけどね」

 男はゴクリと唾を飲み込んだ。

 非常に甘く強力な誘惑だ。しかし、代価の存在を無視することは難しい。

 「代価って…どんなものだ?」

 「そうさねえ。死後、強制的に地獄に落とされるとか、魂を永遠に悪魔の手に委ねるとか…そんなところかねえ。ま、ちょっと情けをかけてくれるかもしれないよ。

 それに、お前さんにとってリスクは少ないだろう?」

 老婆の言葉は的を得ている。男の両親はすでに他界しているし、兄弟も姉妹もいない。友人や恋人など、自分の身代わりになってくれるような者は誰一人としていない。

 しかし、それが逆に安全なのだ。男にとって、死んでほしくない人物などいないからだ。代価として悪魔に奪われるような存在は、己の魂のみ。

 死ぬその時までの間、男は甘い汁ばかりをすすって生きることだって可能なのだ。

 「…どうするんだい? 悪魔に頼むかい? それとも、清く正しく、社会の犬になって生きるのかい?」

 老婆の目は真剣だった。男がイエスと答えれば、本当に悪魔に頼みそうな態度だ。

 どんな詐欺師にも出せない、まるで本物の魔法使いのようなオーラがにじみ出ているように感じた。

 「婆さん……あんた一体、何者なんだ?」

 男の素朴な疑問を愚問だと捉えたのか、老婆はほとんど歯が残っていない口を少し開いて、軋んだような声で笑った。

 「見て分からないかね。あたしゃ、占い師だよ。…さあ、どうするんだい、お客さん」


 男にとって惜しいものなどなかった。

 どうせこのまま生きていても、死ぬまで地味で薄汚れた人生を送ることは分かっている。

 生きている間においしい思いをさせてくれるのなら、死んだ後地獄に落ちても構わない。

 だが、男はどうしても、その場でイエスとは答えられなかった。

 「……すまない、婆さん。保留にさせてくれないか? 明日のこの時間、願い事を決めてまた来る。もし来なかったら俺のことは忘れてくれ。頼む」

 「ああ、いいとも。慎重なのはとてもいいことだよ。じっくり考えておいで。急ぐ必要はない、お前さんは人生と魂に関わる重大な決断を前にしているのだからね」

 「本当にすまない。じゃあ、明日に」

 「ちょいと待ちな。明日来る時は、お前さんの一番大事な物を持っておいで」

 「え?」

 「金でもそれ以外のものでもいい。料金として頂戴するよ」

 「わ、分かった。とにかく明日、待っててくれよ」

 やはり金のことは忘れない。なんだが老婆が急に人間くさく思えて、男はテントを出る時に少し笑ってしまった。

 


 テントを出た男は、繁華街の一角にある寂れた酒場に足を運んだ。

 薄汚い外観、品数の少ないメニュー、狭い店内であるものの、そこは男にとって腰を落ち着けられる場所の一つでもあるのだ。

 そして何よりその酒場は、男と同じ労働者たちが集まる憩いの場所である。この店でよく顔を合わせる同胞との会話を、男は何より楽しみとしている。

 男はささくれ立った木のドアを開けた。途端に、酒と煙草の混じった異臭と、何ともいえない熱気が男の鼻腔と全身を包み込む。

 視界の端にあるカウンターで、マスターが挨拶もせずに食器をみがいていた。今日の客の入りはあまり上々ではないようなので、少々機嫌が悪いのかもしれない。

 カウンター席に目を留めた男は、迷うことなくそこまで歩いていった。男が引いた椅子の隣には、冴えない見栄えの初老の男が座っている。

 「よお、ハーパーさん。仕事はどうだ、ズル休みか?」

 「はは、馬鹿言えよ。仕事の帰りさ。あんたはどうだ」

 「今日は休日さ。今しがた、通りをぶらついていたとこだよ」

 毎日のように会うこの初老の男―――ハーパーこそ、男の楽しみの種だった。男はハーパーの飄々とした雰囲気が嫌いではなかったし、なにより人生の先輩にあたるのだ。豊富な経験談を聞いてみたかったし、相談相手にもなってほしかった。

 男は席に座ると、マスターに安酒を注文し、口火を切った。

 「ところでよ」

 「何だ、若いの」

 カッティンググラスを傾けながら、ハーパーは気だるそうな声で返事する。

 「あんた、悪魔って信じるか?」

 グラスの中身で唇を湿らせると、そのまま両者とも押し黙る。しかし、ハーパーはすぐに、老いた鳩のような声で笑い出した。

 「うくくく…。随分酔狂なことを言うじゃないか。ええ? オカルトに手を出すほどの金も時間も、俺たちにゃねえはずだろう?」

 ほんのりとした赤ら顔で笑みをこぼすハーパーだったが、男は不思議と冷静だった。むしろ、ハーパーがこのような態度をとるのも当然だと思っていた。

 ついこの間までDevilのデの字も口にしなかった人間があんな台詞を言おうものなら、誰だって訝しむなり、指を指して笑い転げるなりするだろう。

 男はすぐさま、続く言葉を挙げる。

 「まあまあ、ちょっと聞いてみたいと思ってな。どうなんだ? ハーパーさん。悪魔とか神様とか天国とか地獄とか、信じるかい?」

 「あんたねえ、質問が壮大すぎるよ。俺たちゃ血眼になって銭を拾いつつ生きる身分だぜ?いちいち上なんか見上げてられないね。

 第一、天国だの地獄だのは死んでから行く所だ。生きてる内にあれこれ考えたってしょうがねえだろうよ」

 「………こ、」

 答えになってない、と言おうとしたその時、ハーパーの言葉が遮る。

 「ま、俺は学者でも作家でもねえんだ。ああいう崇高な存在は到底理解できねえな。とりあえず、神も悪魔も大昔から語られてるんだ、存在するんじゃないのか?」

 グラスを傾けながら、ハーパーはすました顔で言った。

 男も同じように酒を少し飲み、続けて質問を出す。

 「……これから話すのは仮定の話だ。もしも、ってやつだな。そのつもりで聞いてくれ。…何でも願いを叶えてやる、ただしお前が死んだら、問答無用で地獄に落とす、って言われたらどうする?」

 ハーパーはすまし顔のまま、また酒をあおった。間髪を入れず、先ほどとは違って大口を開けて笑い出す。

 「ははははは。何を言うかと思えば、とんだ話だな。そんなもん、俺はこう言ってやるよ。

 『お前が神だろうが悪魔だろうが何でも構わんが、お前の目の前にいる男は見ず知らずの奴に怪しい話を持ちかけられてホイホイと乗っかるような馬鹿じゃない』ってよ。

 大抵、欲をかいた奴が痛い目見るだろ? 楽して得をしてやろうとする奴は、後で必ず見返りを要求されるもんさ」

 ハーパーは貧乏暮らしの長い男である。少なくとも男より数年ほど長く、労働者という身分に甘んじてきただろう。

 しかし男は、ハーパーが不平不満を言う所などは見たことがなかった。いつも黙々と仕事をこなし、スズメの涙程度の給料を貰い、貧乏なりに工夫をこらして生きていることを、男は知っていた。

 魔術の類に関わりを持たず、歩み寄ろうとしない。それが男の知っているハーパーなのだ。

 「…そうか。やっぱりあんたはそう思うか」

 男は酒をゆっくりと飲み干すと、代金を置いて立ち上がろうとした。もう聞くことはない、家に帰ってゆっくりと考えをまとめるとしよう。そう思ったその時、

 「……お前、まさか変な事を吹き込まれたんじゃねえだろうな」

 男の方を見ずに、沈んだような声色で、ハーパーがそっと呟いた。

 「…なんだ、変な事って」

 「今日のお前は何かがおかしい。急に神だの悪魔だの、スピリチュアリズムに目覚めたのか? それとも、妙ちくりんな奴に声をかけられて、オカルトじみた説法でも聞かされたか?」

 グラスの中身が少しずつ、だが確実に減っているのか目に見えて分かった。酒を飲み込むペースが早くなっているのだろう。

 「お前が怪しい宗教にハマるのは勝手だ。お前自身の好きにすればいいことだ。こんな生活に嫌気が差してくるのも分かるぜ、俺にはとてもよく分かる。

 だけどな、若いの。幸せってのはすぐそこにあるんだぜ。確かに俺らは安い金でこき使われているだけの身分だけど、それでも楽しみはちゃんとあるだろう?

 少なくとも俺は、ついさっきまでお前と一緒に酒を飲みながらだべってた時間を楽しいと思ってたぜ。お前はどうだ?

  神様悪魔様にすがって無限の富をもらって、行く手を塞ぐもののない平坦な道を歩くか、それともこのまま俺たちと一緒に、しょうもない事で泣いたり大笑いしたりできる、けど危険なデコボコ道を歩くか、どっちがいいと思ってる?」

 そこまで言うとハーパーはグラスの中身をすっかり飲み干し、空になったグラスを勢いよくテーブルの上に置いて、ようやく男の顔を真正面から見た。

 男はハーパーの赤ら顔に、とび色の瞳に、言い知れぬ威圧感と、父親のようなオーラを感じた。

 「……俺の説法は終わりだ。長々話してすまんかったな。あんまりにも言いたいことがあったもんでよ、つい長話しちまった」

 「…いや、いいんだ。そろそろ俺は帰るけど、俺も一つ言わせてもらっていいか?」

 「いいともさ」

 男は今度こそ立ち上がり、椅子に座ったままのハーパーを見下ろした。

 「俺も一度ぐらい、町の富豪どもみたいな暮らしをしてみたいんだよ。じじいになる前に、派手で豪華な暮らしをしたいっていうのは、過ぎた願いか?」

 ハーパーは小さくため息をついただけで、何も答えなかった。

 ドアを開けて、男は酒場を後にした。



***



 翌日、起床した男は、勤め先に辞表を出しに行った。

 上司は最後まで険しい顔だった。「根性がない」などと悪態をついていたが、男にとってそんなことはもうどうでもよかった。

 僅かばかりの退職金をもらい、男はまっすぐ家に帰った。

 昨日約束した時間まで、まだかなりある。男は老婆のもとへ持っていく荷物をまとめ、昨日の夜にさんざん考えた願い事を、頭の中でさんざん繰り返した。

 「……本当にあるんだな、あんなこと」

 おとぎ話のようなシチュエーションだった。人知を超えた存在によって自分の願望が叶う。

 もっとも男の願いを叶えてくれるのは、精霊でも妖精でも仙女でもなく、災厄と欲望の権化たる悪魔なのだが。

 しかし男には、逆に安心感が芽生えていた。神だの何だのはうさん臭い。だが、悪魔は逆に現実味がある。

 何の根拠もない考えなのだが、男はそれで納得した。

 そうこうしているうちに、約束の時間が迫ってきていた。

 男は荷物をまとめた鞄を抱えて、ドアを開けた。振り返り、今まで世話になった礼を心の中で言うと、家に背を向けて歩き始めた。


 繁華街に着くと、男は真っ先にあのテントを見つけ、挨拶もそこそこに入った。

 「約束の時間より8分早いよ」

 老婆の声は、昨日と寸分も違っていなかった。男は胸を撫で下ろし、悠然と構える老婆の前に立った。

 「ほら、料金。給料の残りを貯めていたものだ。退職金も入ってるぜ」

 今日はテーブルの上には何も乗っていない。

 どす、と鞄をテーブルの上に置くと、老婆は節くれ立った手をゆっくり伸ばし、鞄を開け、中をしげしげと見始めた。

 「ふうん。……ま、いいだろう。お前さんの全財産なんだろ?大目に見てやるよ」

 老婆は鞄をテントの奥に押しやり、男の方に向き直ると、

 「座りな」

 おもむろに指を動かした。途端、テーブルクロスが波打ち、木でできた簡素な椅子が現れた。

 おそらくテーブルの下にしまい、それをテーブルクロスで隠してあったのだろうが、男はこの老婆が魔法か何かを使ったように思えてならなかった。

 男が椅子に座ったのを確認すると、老婆はテーブルの下に手を突っ込み、何やらごそごそしていた。

 「お前さん、名前は何て言うんだい」

 「デリック・ブルフォード」

 老婆は左手に持った紙をテーブルの上に置き、右手の羽ペンで「Deryck Bruford」と書き込んだ。

 紙にはたくさんの文字が書いてあるが、どれも読むことはできない。おまけにその字は印刷したように綺麗に並んでいる。

 さっきの老婆の挙動といい、突然出てきたペンといいこの怪しげな紙といい、デリックは早くも悪魔の存在を確信していた。


 デリックは老婆の動作を、一つ一つ目で追いながら凝視した。

 と、急に真顔のままで、老婆は指をペンで刺した。むしろ男の方が驚いたほど、老婆は痛みを感じていないような顔で自分の指を傷つけていた。

 人差し指の腹に血の玉が浮かび上がるのを確認すると、老婆はその血を満遍なく広げて、先ほど書いた名前の横に拇印を押した。

 「全く、血も無限にあるもんじゃないんだけどねえ。地下の連中も、その辺を理解してほしいもんだよ」

 「やっぱり……、やっぱり、悪魔って本当にいるんだな」

 「おや、今更だね。なんだい、怖いのかい」

 「いや……俺、今まで世の中の何を見てきたんだろうって、思って…」

 「世の中は広いものだよ。悪魔の存在を知ったぐらいで、世の中の全てを知ったなんて思わない方がいい」

 老婆は紙の中心にある、赤い線で書かれた大きな六芒星の魔法陣を男に向けた。

 「さあ、デリック・ブルフォード。お前さんの願いはなんなんだい?」

 初めてまともに見た老婆の顔。フードに隠れてよく見えていなかったが、老婆の瞳は、人間には見えないほど鮮やかな色をしていた。

 「俺の願いは…」

 夕日より赤く、鳩の血のように深い色。

 深紅の瞳に見据えられたデリックは、ゆっくりと深呼吸して心を落ち着ける。


 「無限に黄金を生み出す力が欲しい」


 口角を歪めて、老婆は笑みを浮かべた。

 「いいだろう。その願い、悪魔マンモンに叶えてもらおう」

 老婆は魔法陣の真ん中に「avaritia‐Mammon」と書き込み、何かを呟き始めた。

 小鳥のさえずりにも大地の鳴動にも聞こえるその声が唱えられるたび、魔法陣は妖しい光を放ち続ける。

 デリックは半分腰を抜かした状態で、発光する魔法陣を凝視していた。

 やがて、一際大きく光の粒子が飛散したと同時に、小さな魔法陣から巨大な影が飛び出した。

 「うわあぁっ!?」

 叫び声を、影の唸り声がかき消す。

 掘っ立て小屋のようなテントが狭苦しいと感じるのか、影は機嫌の悪そうな表情をしているように見える。

 椅子を倒し床にへたり込み、腰を抜かしておろおろしているデリックに一瞥をくれると、影は低い声で話し始めた。

 『……こやつか?』

 「そうだよ。久々の商売相手だ。丁重に扱いな、吝嗇りんしょくの魔神マンモン」

 老婆がそう返答すると、影は徐々にその姿を現した。

 人間の胴体。首からは二つの鴉の頭が生え、それぞれが鋭い眼光を放っている。

 ご丁寧に、二つの頭にシルクハットをかぶり、胴体は燕尾服を着ている。右手には金色に輝く杖を握っており、頭が人間のものであるならばどこかの貴族に間違われるかもしれない風貌だ。

 『随分とうだつの上がらない男だ。いつの時代にもいるものよな。神にも富にも見放された哀れな人間が』

 吐き捨てるように口にするマンモン。しかしすぐに口調を改め、教え子に諭す教師のような話しぶりでべらべらと語り始めた。

 『だが人間よ、私は悪魔なのだ。お前がどれだけ卑しく愚かな背信の者であろうとも、私は見捨てはしない。清濁双方に立つ人間に救いの手を差し伸べ、そしてあらゆる望みを叶えてみせる。それが悪魔なのだよ。

 人間よ、どうやらお前は私に救われたいようだな。ならば問おう、お前は無から金を生む能力が欲しいと、確かにそう望んだな?』

 マンモンの問いに、間髪を入れずデリックは首を縦に振った。

 マンモンは満足げな笑みを浮かべ、自らもまた首を縦に振る。

 『い。実に良い望みだ人間よ。この私の力を全て理解したような、何とも大仰で素晴らしい望みではないか。私は嬉しいぞ。いや、何しろ、私もお前のような望みを持つ者を相手にするのは久しいのだ。

 気に入ったぞ、Deryck Bruford』

 空中をゆっくりと歩き回るマンモン。その間も休まず、彼は喋り続ける。

 『私を呼ぶ者は今でも数多いが、ど奴もこ奴も小さな望みを持つ者ばかりでなあ。

 やれ「一生遊んで暮らせるだけの金が欲しい」だの、やれ「この世で一番美しく大きな宝石が欲しい」だの…。悪魔の力をなめておると思わないか?

  一生遊んで暮らせるだけの金、だぞ? 一生しか遊べない程度のはした金など、この私に頼むまでもなく叶うことだろうになあ!

  ……ま、人間という生き物は得てしてその程度よな。狭い視野でしか願い一つ決められない。その小さくつまらん願いで、魂一つを差し出しすのだから……いやはや、全く!

  その点、お前はなかなかに大きな願いを持つではないか。黄金は地獄でもなお価値があるものだ、人間の世界でしか使えぬ貨幣など望んだところで、使えるのは僅かな間だけだ』

 デリックの肩を掴んで嬉しそうに揺さぶるマンモンと、満面に恐れを湛えた表情のまま固まっているデリックをじっと見ていた老婆が、やっと重々しく口を開く。

 「お前さん、地獄のお偉いさんに好かれたようだね。いい事だよ。…さて、そろそろ契約へ進もうかね。交渉しな、マンモン」

 『心得ておる。…契約者名、Deryck Bruford。望みは「無限に黄金を生み出す力が欲しい」。

 その代価は…そうだな、分かっているだろう、そして覚悟しているだろうとは思うが、お前は死後天国へは行かず、その魂は永久に私に隷属する。良いな?』

 「―――はい。覚悟はできております」

 『うむ、良い言葉だ。易者よ、契約の書はどこだ。早く力を与えねばならん。富は早く与えねばならん』

 「はいはい、ここだよ」

 マンモンは長い爪の生えた手を伸ばし、老婆から先ほどの書面をひったくると、それをデリックの眼前に突きつけた。

 そして、赤い字で書かれた「Deryck Bruford」のすぐ横の紙面を指で指す。

 『Deryck Bruford。ここにお前の血で拇印を押せ。私との契約の捺印だ』

 「は……い、ですが…」

 『何を臆している。まさかお前、自分の指も傷つけられぬのか』

 「い、いえ…あの、何で傷つければよいのです?」

 『歯を使えばよいではないか。ええい面倒だ、おい易者、ペンを貸せ』

 老婆から羽ペンを受け取り、男の手を掴み上げてそれを強引に持たせる。

 『それで指を突き刺すのだ。早くしろDeryck Bruford』

 男は恐々とした手つきでペンを握りなおし、目を閉じ深く息を吸うと、逆手に持ったペンを思い切り指に突き刺した。

 ぷく、と指の腹に血の玉ができる。男は痛みをこらえて、血の玉を指の腹全体に広げ、マンモンが持つ書面に人差し指を乗せた。

 男の指紋が赤く残ったその瞬間、契約書は炭化したように黒くちぎれ、マンモンの手の中に吸い込まれていった。

 『紙はかさばるのでな』

 何を驚くこともなく普通に言ってのけるマンモンをよそに、男は完全に困惑している。

 『これで全て完了だ、Deryck Bruford。これでお前は無限の富を手に入れた。お前が念ずれば、たちまちお前の手には金塊が溢れ出るであろう。

 死ぬまで幸せに、強欲に過ごすのだぞ。

 それではな。次に会うのはお前が死んだ時だ』

 マンモンは再び影の形に戻ると、六芒星へと吸い込まれるように帰っていった。


 男はしばらく惚けていた。

 目の前で起こっていた束の間の出来事が、ひどく長く感じられた。

 一秒一秒が鉛のように重かった。男は今の出来事を永遠に忘れないと心に決め、何事もなかったかのように構える老婆を見すえる。

 「婆さん。俺はこれから、何をすればいいんだ」

 「あたしに聞くまでもないだろうに。奴の言葉を聞いただろう、お前さんはもう望んだ通りの能力を手にしている。後はお前さんが決めることだよ」

 「一つだけ聞いていいか、婆さん」

 「なんだい。野暮な質問はよしておくれよ」

 「どうして俺みたいな奴にこんなうまい話を持ちかけてくれたんだ?」

 老婆は、呆れたように思い切りため息をついた。何度も同じ事を言わせるな、という言葉が、音でなくオーラで発せられている。

 「あたしが占い師だからだよ。さ、用事が済んだのならさっさとお帰り。冷やかしの長居は無用だよ」

 男も、もうこれ以上老婆の世話になることはないと悟り、薄暗いテントの中から騒がしい雑踏へと足を運んだ。



***



 望んだ通りの富を得るのに、そう時間はかからなかった。

 デリックは能力を行使して金塊を生み出し、それを売り払って金に換えた。

 何しろ売る物が無償で無限に湧いて出るのだから、デリックの資本は増えていく一方であった。

 ある程度金が溜まると、問題となるのは保管場所である。かといって、銀行に預けるのは今一つ信用がおけなかった。

 デリックは大きな屋敷を買い、そして部屋一つを丸ごと金庫とした。部屋には厳重に鍵をかけ、自らその鍵を首にぶら下げて持ち歩く。

 おまけに、使用人を雇って屋敷の警備に当たらせておいた。

 他にも、コックや家政婦などの雑務を担当する者も合わせれば、屋敷の使用人はゆうに百人を超えた。

 もちろん、出来心を起こさないよう高い給料を与えてあるので、デリックの資産を盗む心配はない。

 デリックの生活はバラ色どころか黄金色であった。

 金にものを言わせて各地の珍味を買い漁り、高給で手懐けた一流のコックに料理させ、毎夜のように美食を楽しむ。

 近隣の村や町から美女を募り、自分の下にはべらせては宴を開く。

 しかし、そういったものは「折角だから」やっているのであって、デリックが何より執着しているのは、自ら生み出す金塊のみであった。

 デリックは自分の能力が他人に知られることを恐れ、金塊の産出は常に真夜中に行っていた。

 それが功を奏し、デリックの裕福さの理由が明るみに出ることはなかった。

 呆れるほどの資産を持つ裕福な男。しかしその実は、働かずして富を生む悪魔の眷属。

 減る事のない黄金、無限の財産。

 しかし、無から有を生み出すなど、いくら悪魔の術をもってしても難しい事である。

 吝嗇りんしょくの魔神の奸計かんけいに気づくなど、黄金に魅入られ贅に溺れるデリックには無理であった。


 「おい、何をする! その部屋に入るんじゃない!」

 警官の大群が、扉を破って雪崩のように部屋に押し寄せた。

 部屋を埋め尽くす金塊を見た警官隊のリーダーは、呆れたような溜息をついた。

 「デリック・ブルフォード。あなたの成り上がりの真相が、これだったとはな」


 事件は突然に起こった。

 利用者の預けた金が収めてある金庫から、金が消失しているのが発覚したのである。

 これに気づいた銀行は、利用者に感づかれない内に対策をとった。

 しかし、いくら警備員を増やしても、厳重に施錠をしても、金は消えていくばかりであった。

 銀行側の努力も空しく、預金の消失は利用者に知られ、銀行には抗議の声と共に利用者が殺到。

 事件が明るみに出る事になり、ついに警察が出動する騒ぎになったのだった。


 「あなたがこの金で何者かを雇い、銀行の金庫から金を盗んでこの金塊に変えた。そうだろう?」

 「違う! そんなもの知らない!」

 「銀行員と、それからこの屋敷の使用人に話を聞いたところ、銀行から金が消えた時期とあなたが大量の使用人を雇い始めた時期がぴったりと合っている。

 それだけじゃない、あなたがこの屋敷を購入した時期とも合っているんだ。これでもまだ言い逃れをするのかね…」

 警官隊のリーダーが言い終わらない内に、デリックは廊下の向こうへと駆け出した。

 「逃げたぞ! 取り押さえろ!」

 その一声で、十数人の警官がミサイルのように疾走する。

 デリックは広い屋敷を駆け回った末、自分の部屋に逃げ込み扉を家具で塞いだ。

 「あの悪魔め…! はかったな」

 追手がここに着くのも時間の問題だろう。そうなったら最後、確保されるのが目に見えている。

 捕まるぐらいなら、死んだ方がましだ。

 囚人となって赤貧の生活に身を戻すよりも、裕福な身のまま死にたい。

 デリックはベッドに寝転がり、全てを覚悟すると、「無限に黄金を生み出す力」を発動した。

 ―――瞬く間に、視界が黄金色と化していく。

 部屋を占領していく金塊の色彩に、デリックは改めて魅了された。

 (これだ………なんて美しいんだろう。これを見ながら死ねるなんて、俺は幸せだ)




 「ドアが開きません! 何かで塞いであるようです!」

 「壊せ! 奴を逃がすんじゃない!」

 警官たちが必死でドアを引っ張った末、ようやくドアが開いたと共に、大きな金塊が転がり落ちてきた。

 「うわっ!」

 「な……何だこの部屋は!」

 「他の部屋は全部調べた…あいつが逃げ込んだのはここしか考えられないぞ」

 誰ともなく、金塊を部屋から掻き出し始めた。

 誰もが最悪の結末を予想しながら、重い金塊をせっせと運びだしていた。

 そして、やっと人が入れるまでになった頃、警官たちはこんもりと金塊が埋まった箇所を発見した。

 「これは……」

 「何てことだ!」

 驚愕のあまり立ち尽くす者、悔しさで地団駄を踏む者。

 その誰もが目に映していたのは、まるで眠るようにベッドの上にあった死体。

 骨まで押し潰された、デリック・ブルフォードだった。



***



 「―――あんたも中々、酔狂な手段をとったもんだねえ」

 『今更だな、易者。悪魔が酔狂で何が悪い』

 「それで、あんたの狙い通りにはなったかい」

 『なったとも、なったとも。あの人間、やはり見所があった。易者、やはりお前は大した女だ』

 テントの中で、マンモンは喜色満面に笑った。

 老婆は大して興味もなさそうにそれを聞いている。

 「あの金塊、どうせあんたの私服を肥やしたんだろ」

 『勿論だ。奴の生み出した金は全て私が引き取っておいた』

 「元は銀行の金なんだろう?」

 『知らぬな。黄金に変えたのはあの男自身だ。それを仕組んだのは私だが……どちらにせよ、奴は私の為に働いてくれたというわけさ。

  さしずめ黄金産出器…といった所かな。死んだのが実に惜しい。魂だけでは能力も使えぬしなあ』

 性悪な笑いをもらしたマンモンの足元から、黒い煙が立ち上る。

 それは道のように魔法陣へと続いていた。

 『ではな、易者。私は帰る。強欲そうな人間を見たら呼ぶがいい』

 「ああ、分かったよ。今度の契約は終了だ」

 老婆はテーブルクロスの下からあの契約書を出すと、マンモンに渡した。

 マンモンは満足そうにそれを受け取り、黒い煙に引き寄せられるように魔法陣に吸い込まれて消えた。 


 「やれやれ―――さあ、次は誰が来るやら」

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