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夜には夜のにおいがあり、音がある。とくに木の香は、夜に醸されるものかもしれない。
都会の人間のほとんどが、樹木を恐れない。樹木は口をきかぬし、みずから歩いたりもしない。伐られ、加工されて、人の役にはたっても、よもや人に害を加えるなど、思いもよらぬ。なぜなら、都会人のほとんどが、森の暮らしを知らぬからだ。
わずかに、地下室で書物に埋もれた好事家たちばかりが、そこでの暮らしを夢想する。かれらの記憶は書物の記憶であり、かれらの経験は、膨大な文字から、生み出されるのだから。かれらは知っている。樹木がそぞろ歩き、花々がかまびすしく、語り合う世界を。
「ここが?」
ル・アモンの声が、重い帳のような、眠気の向こうから聞こえた。
「さよう、ここが世に名高い。それでいて、行ったが最後、生きて帰った者が一人もいないという、恐女国なのですよ」
恐女国とは……地下の好事家たちは語るだろう。絶海の孤島にあり。異伝によれば、未踏の森林や、大砂漠の只中に存在するとも。その国には、男と名のつく者が一人もおらぬ。王も兵も大工も農民も皆、女である。しからば、いかにして彼女らは子を宿すのかといえば……
「裸体になって、西風を浴びるのではありませんか」
「え?」
「書物はそう伝えていますよ。恐女国の女たちは、適齢期に達すると、しかるべき場所に立ち、裸体に風を浴びることで子を宿すのだと。その風は、砂金のようなものを多く含むため、黄金色に見えるといいます。風を浴びた女たちから生まれるのは、すべて女です。ゆえに、彼女たちが最も忌み嫌うのは、人間の男であるとか」
運つたなく、恐女国に漂着した男たちは、例外なく、八つ裂きの憂き目にあうとか。
「さすがに魔法使い殿は、もの識りでいらっしゃる。ですが、この森は孤島や砂漠と異なり、黄金色の西風はめったに吹きません。ゆえにサフラ・ジート国におきましては、知恵をしぼり、様々なものを加工して、子種を作っておるわけです。その最も良質な原料となるのが、若い男というわけでしてね」
「回りくどい言い草だな。けっきょくのところ、このサフラン何とかいう国の女は、捕虜にされた男とコトに及ぶわけだろう。おれたちは、種馬と同じ扱いを受けるわけだ」
そう言って伯爵は、世にも苦々しげな表情をみせた。通常、男として、胸を躍らせないでもないシチュエーションだが、同性を好むかれとしては、おぞましい限りなのだろう。ゼモ族のボレは、けれど楽しむかのように、首を横に振った。
「そのやりかたでは、『加工』とは申しますまい。いえ、わたくしめにも、確かなことはわからんのですがね。なにしろ、一度、『例の場所』へ連れて行かれたが最後、生きて戻った者がおりませんもので。ただ、そこでは言葉どおり、絞りとられるという話ですよ」
「レグアグの実から油を絞るように?」
「さよう。むかし、暴君ウィリアネスは、数多くの民を誘拐してその血を絞り、真紅の布を染めさせたと伝えられますが。ここでは同様の方法で、捕虜にした男の種を絞るのだと申します」
「なるほど、それじゃあ、ひとたまりもねえな」
乾いた笑い声を、ル・アモンは響かせた。夜はすでに更けており、猿や夜鳥からヤモリに到るまで、夜歩く生き物たちの声が、かまびすしいまでになっていた。時おり、壁の外を何か大きな生き物が、ぞろりと這う音が聞こえた。そうかと思うと、がさがさと葉叢を揺らして、別の何かが通りすぎた。
「ところでモグラ殿、小便は、どこですりゃあいいのかね」
「あっちの角の床板が外れて、格子になっておりますよ。小だろうと大だろうと、思う存分なさるがよい。森は喜んで肥やしとするでしょう」
「ふん。小便から子種まで、この森は何でも吸い尽くそうってわけか。美少年殿も、ご一緒にどうだい?」
ぼくはとくに尿意をもよおしていなかったが、かれの目配せに気づいて、立ち上がった。壁ぎわに並んだところで、下から盛大な音をたてながら、伯爵が囁いた。
「モグラの話、どう思う?」
「嘘をつくメリットはないでしょう。おおむね、真実ではないでしょうか。ただ……」
「ただ?」
「あの半魔族は、ほぼ完全に気配を消すことができます。本当に蟻人に捕らわれて、ここに閉じ籠められているのかどうか。あやしい限りですね」