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致命傷ではあるまい。これ以上飛べなくなるくらい、ダメージを受けてくれていれば、しめたものだが。まだまだ敵意に燃えて襲ってくることも、充分予想された。
さいわい、ちらほらと、雲があらわれ始めている。そんな雲の切れっぱしを、呪文で掻き集め、煙幕代わりに、後方にばらまいた。その間も、機体を支える骨組みがきしむほどの速力で、ボッカーは突き進んだ。
振り向いてみたけれど、どうやら飛竜が追ってくる様子はない。脱出成功! と、小躍りしたいところだが、これほどフルで働いたエンジンの、「燃料ぎれ」が憂慮された。もはや食料は尽き、いくらぼくでも「魔法のように」、空中からエヴァの実を取り出すことはできない。イコがまた目を回す前に、着陸地点を探さなければなるまい。
眼下には黒い森が続いていた。
ここを抜け出すまでもつだろうか? ホコラの上で、あぐらをかいた姿勢のまま、イコがぱったりと仰向けに倒れたのは、そう考えたときだ。精霊なので、必ずしもアイザーク卿の物理法則には縛られておらず、ゆえにそのまま転げ落ちる心配はなかったが、両目は見事に、くるくると回っていた。
「はらへほらんれすれえ、ごひゅりん……」
腹に全く力が入っていなかった。
「不時着するぞ! しっかりつかまってろよ、美少年」
「できるんですか?」
「運次第と言わせてもらおう。何事もな」
それにはおおいに同感なのだが、確率というものを、軽く無視されてもこまる。推進力を失った機体は、たちまち迷走し、高度をぐんぐん落としてゆく。地表を覆うのは、まがまがしいまでに生い茂った、大樹の海だ。見わたす限り、平らな所など一点もない。
「まるで見えない大きな手が、下へ引きずりこもうとしているようですね」
今のル・アモンもまた、この見えざる巨大な手と、懸命に格闘していた。時にはがむしゃらに舵を動かして逆らい、時には気流を味方につけて、それに乗ろうとした。けれども、ぼくの三百年の人生で学んだことだが、巨大な手の力には決して勝てない。
ちっぽけな人間の無駄な抵抗を楽しみながら、翻弄するだけ翻弄したあとは、きっちりと手中に収めてしまう。ぼくはそんな「手」のやりかたを……運命を憎み、戦いを挑んで敗れた者だ。
「なあ、美少年。もしこれが最期だとしたら、だれの名を口にする?」
「その美少年というの、やめてもらえますか。ぼくにはそんな人なんて、いませんよ」
いまやボッカーは、梢の上、すれすれを飛んでいた。車輪が枝を折り、驚いた鳥が飛び出した。伯爵は上昇気流を巧みに読んで、かろうじて飛行状態を保っているが、いずれ、アイザーク卿の法則に敗北するのは、目に見えていた。
死の間際に、口にする人の名がない。言われてみれば、それも悲しいことかもしれない。かつて愛した人がなかったわけではないが、三百年の時の中で、いつしかその思い出も風化してしまった。ふと、もしダーゲルドなら、誰の名を呼ぶのだろうと考えた。
ヴィオラなのか?
思わず左手を目の前にかざした。中指に嵌められた紫色の指輪は、けれど冷たい光沢を浮べたまま、沈黙を守っていた。それでもぼくは指輪の中で、ヴィオラが薄く笑うのを感じた。夢にあらわれるヴィオラは、いつも少女の姿をしていた。軽くカールした黒い髪は、黒薔薇のようなドレスと相まって、彼女を人形のように仕立てていた。
(汝は死を恐れるか。恐れぬのなら、何故に三百件の余命を保ち、さらにしがみつこうとするのか)
しがみつくのが人間だからだよ、ヴィオラ。
また、指輪の中で彼女が笑ったように感じたとき、激しい衝撃が機体を揺るがした。めりめりと音をたててへし折れるのは、木の枝か、ボッカーか、それとも自分自身か。翼は次々と梢の一部を切断しながら、やがて機体から引き剥がされて、消し飛んだ。ばらばらになる。という思いのほかに、何も浮かばなかった。
ル・アモンが何か叫んだが、世界が引き裂かれる音に紛れて、よく聞き取れなかった。ゆうらりと、巨大な黒い蝶が飛ぶ幻影を見た。漆黒の翅に包まれたように感じたとき、不思議な安堵感が心を満たした。
気がつくと、ばらばらになったボッカーの破片に混じって、ぼくは洗濯もののように、木の枝に引っかかっていた。